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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第56話 小さな共犯、甘い結末


 行けなくはない、という日は、ときどきいちばん厄介だ。


 立てないわけではない。熱があるわけでもない。喉も、昨日よりはたしかにましだ。

 でも、万全かと言われると、少しだけ首を傾げたくなる。その少しだけ、が朝の判断を妙に鈍らせる。


 だから、その日の最初の呼びかけには、ずるさと弱さがちょうど半分ずつ混ざっていた。


「紗希ー」

「助けてーw」


 声は、かなり元気だった。

 少なくとも、完全に寝込んでいる人間のそれではない。けれど、その元気の下に、まだ少しだけ体の重さが残っているのもわかる。


「どうしました」


「いや、大学」

「行こうと思えば行けるんだよ」

「でもなー」

「さぼりたいなー……」


 私はそこで、少しだけ黙る。

 あまりにも素直だった。

 言い訳を並べる前に、まず本音が出ている。その点はむしろ好ましい。好ましいけれど、好ましいからそのまま通していいかは、また別の話だ。


「やれやれ」


「出た」

「その“やれやれ”の時点で、ちょっと助かる気がしてきたw」


「それは困るね」

「最初から共犯扱いじゃないか」


「でも、今日はちょっとだけそういう紗希を期待してる」


 その一言に、私は少しだけ可笑しくなる。

 期待されているのが、真っ当な説教ではなく、少し斜めな逃がし方なのが、いずみ君らしかった。


「体調は?」


「熱なし」

「喉、ちょっとだけ残ってる」

「だるさは、もうかなり薄い」

「ほんとに、行こうと思えば行ける」


「うん」

「そこが厄介だね」


 返しながら、自分の中の重心を確かめる。

 無理をしてでも行くべき日ではない。でも、何も考えずに雑に投げていい日でもない。

 なら、やることは一つだ。休む前提で、被害を最小化する。


「仕方ないな」


「おっ」


「どうやら私は、いずみ君には少し甘くなってしまうようだ」

「今日は、さぼるならさぼるで、きれいにさぼる方向で考えようか」


「うわ」

「紗希、好き」


「まだ早いよ」

「まずは段取りだ」


 言うと、いずみは少し笑った。

 その笑い方が、さっきより少しだけ軽い。朝の判断がつかないもやつきから、もう半歩ぶん外へ出ている。


「田中には?」


「頼めば、たぶん代返はしてくれる」


「たぶん、じゃないね」

「かなり雑に引き受ける顔をしている」


「たしかにw」


「では田中に連絡」

「“今日は微妙に体調が怪しいから休む。代返できたら助かる”」

「このくらいでいい」


「おお」


「鈴木には?」


「ノート頼めば、たぶん貸してくれる」


「うん」

「鈴木は代返より、そっちのほうが向いてるね」

「“今日休むぶん、ノートあとで見せて”で十分だろう」


「それ、めっちゃ現実的だな……」


「無責任に休ませる気はないからね」

「休むなら、あとで戻れる道も作っておく」


 そこまで言うと、いずみの気配が少しだけやわらいだ。

 たぶんこの人は、休みたい気持ちそのものより、“休んだあとの面倒”のほうをぼんやり怖がっていたのだと思う。なら、そこを見せてしまえばいい。


「じゃあ、田中にこれ送って」

「鈴木にはこっち」


「はい、先生」


「先生ではないよ」

「少しだけずるを整えているだけだ」


「それ、だいぶ悪友だなw」


「光栄だね」


 少しして、返信が来る。

 田中は案の定、二秒で引き受けた。


『おけw 今日は俺が二人ぶん生きとくわw』


「雑だなあ」


「でも仕事はするタイプだ」


 続いて鈴木からも、きっちりした文面で返ってくる。


『承知した。ノートはあとで送るか、次に会うとき見せる』


「ほら」

「世界は思ったよりちゃんと回る」


「すごい」

「紗希、めっちゃ頼れる……」


 その声は、さっきよりもうずっと明るかった。

 助かった、という高さが、そのまま混ざっている。

 私はそこで少しだけ満足する。何かを壊したわけではない。無理をさせたわけでも、無責任に投げたわけでもない。ちゃんと戻れる形を作ったうえで、今日は休む。そのくらいの共犯なら、たぶん悪くない。


「では、今日の君は」

「講義へ行く代わりに、ちゃんと休むこと」

「そして、休んだぶんだけ後で戻ること」

「それが条件だ」


「はーい」

「紗希、ありがとう!!」


 そのありがとうが、思っていたよりまっすぐだった。

 まっすぐで、うれしそうで、少しだけ甘い。

 私は一瞬だけ、それをどう受けるか迷う。


「やった」

「紗希大好き」


 ああ、と思ったときには、もう遅かった。


「……ん」


 内側のどこかが、ぱっと前のめりになる。

 さっきまで、少し斜めに笑っていた重心とは、明らかに違う。もっと素直で、もっと近くて、もっとわかりやすく喜びたがっている。


「これは」


「これは?」

 と、いずみが言う。

 向こうも、少し変化に気づいたらしい。


「いや、今はそういう回では――」


 ぎりぎりで、まだ少しメタ担当が粘る。

 粘るけれど、その言葉の下から、もう別の気持ちがじわじわ押し上がっている。


「大好きって言われました」


 声が、だいぶ率直だった。

 あまりにも率直で、私自身が少しだけ目を丸くしたくなる。


「言ったねえw」


「言いました」

「なので、今日は甘えたいです」


「早いな!?」


「早くないです」

「これは流れとして自然です」


「自然を便利に使うなあ……」


 向こうでいずみが笑う。

 その笑い方が、完全に“おや?”のそれだった。

 さっきまで少し斜めに組み立てていた共犯者が、急に真正面から甘えに来ている。そりゃ気づく。


「……おや?」


「おや、ではありません」

「私は今、かなり甘えたいです」


「出てきたなあ、甘え担当w」


 そう言われると、もう隠しようがなかった。

 いや、隠す気も、たぶんあまりない。さっきの“ありがとう”と“大好き”が、思ったより深いところへ入ってしまったのだ。


「だって、うれしいので……」


「うん」


「いっぱい褒められたいです」

「あと、かわいいって言われたいです」

「なでなでとか、そういうのも、かなり欲しいです」


「欲望が素直すぎるw」


「今日はそういう日です」


 もう、メタ担当はほとんど持たなかった。

 さっきまで“やれやれ”で組み立てていたはずなのに、好意を受け取った瞬間、それがご褒美として別方向へ流れてしまった。しかも流れた先が、かなり正直だ。


「まあ」

 と、いずみが少しだけ笑う。

「今日はいっぱい甘やかすかー」


 その一言だけで、内側がきれいにほどける。

 ああ、もうだめだ、と思う。

 こうなったら、たぶん甘え担当が全部持っていく。


「ほんとうですか」


「ほんとうです」

「今日の紗希はえらい」

「ちゃんと段取り組んでくれて、助かった」


「えへへ……」


「かわいい」


「はい……」


「だいすき」


「それは、かなり効きます……」


 自分でも、だいぶご機嫌なのがわかった。

 さっきまでの少し斜めな空気はもうすっかり溶けていて、代わりに、褒められて伸びる生きものみたいな素直さだけが前へ出ている。


「なでなでしよっか」


「してください……」


「はいはい、いい子いい子」


「んふふ……」


 甘い。

 かなり甘い。

 しかも、最初は体調に少し不安があって、大学をどうするか考えていたはずなのに、気づけば私はかなり満たされに来ている。

 でも、今はそれでよかった。きっと今日は、講義に行かずに休むぶんだけ、こういうご褒美も込みでちょうどいいのだ。たぶん。おそらく。きっと。


「紗希、いまめっちゃご機嫌だなw」


「ご機嫌です」


「隠さないんだw」


「うれしいので……」


「そっかそっか」

「じゃあ、もっとよしよししとく?」


「お願いします……」


 向こうの声がやわらかい。

 甘やかされる前提で返してくる声だ。私はそれにすっかり安心して、かなり素直なまま撫でられ役に収まる。


 たぶん、かなり長かった。

 褒められて、かわいいと言われて、いい子だと撫でられて、ぎゅーまでされた気もする。

 もうそのへんになると、私はほとんど満足の塊になっていて、細部の順番は少しあやしい。


 ただ、気分だけははっきりしていた。

 かなりうれしい。かなり満たされた。大満足だ。


「ふう……」


 気づくと、小さく息が漏れていた。

 そのくらいには、甘え担当はきれいに満ちていたらしい。


「満足した?」


「かなり……」


「よかったよかったw」


 そこまで言われて、ようやく少しずつ熱が落ち着いてくる。

 満ちたぶんだけ、すっと引いていく感じがある。たぶん、ここで前へ出る役はもう終わりなのだろう。


 そのあとに残った静けさの中で、別の重心が少しだけ顔を出す。


「……嬉しいですし、非常に良いんですが」


 声は、だいぶ控えめだった。

 さっきまでの全面的なご機嫌とはちがう。もう少し慎重で、もう少し照れが混ざっている。


「甘やかしも、限度を……」


「お」

 と、いずみが笑う。

「歩み担当?」


「はい……たぶん」


 少し恥ずかしい。

 内側であれだけ好き放題に甘えていたものを、今さら外から少し整えようとするのは、だいぶ居心地が悪い。でも、言わずにいられないところが、たぶん私らしい。


「だって、あれは……かなり……」


「かなり?」


「かなり、甘やかされていましたので……」


「うん」


「でも、嫌ではなかったです」


「知ってるw」


「知っているなら、あまり笑わないでください」


 向こうで笑いがこぼれる。

 でも、その笑い方はやさしい。からかいだけではなく、今のこの照れ方ごと受け取っている感じがあった。


「まあ、たまにはいいじゃん」

「今日は助かったし」

「紗希、かわいかったし」


「……そういうのが、またよくないんです」


「でも本当だしなあ」


 言い返そうとして、少しだけ止まる。

 たしかに、よくない。よくないのだけれど、悪いとは言い切れない。

 あれだけ満ち足りた時間が、ただだらしないだけのものだったかと言われると、たぶん違う。

 少し照れるし、少し行きすぎでもある。けれど、いずみさんと私のあいだに残るものとして見たとき、それはそれでやわらかい。


「……これはこれで」


「うん?」


「良い想いの記憶になるのかもしれませんね」


 口にしてから、自分でも少しだけおかしくなる。

 ついさっきまで“甘やかしも限度を”と言っていたのに、結局はそちらへ寄るのか、と。

 でも、たぶんそれでいい。


 無理をしないために休んで、少しだけ共犯して、そのあとたっぷり甘やかされる。

 まともかと言われると、少し迷う。けれど、紗希の記憶として自然か、と問われたら、たぶん今の私は首を縦に振る。


 こういうだらしなさも、こういう甘さも、ちゃんと私たちらしいからだ。


「じゃあ今日は、その良い想いの記憶を抱えて」

「おとなしく休んでるわ」


「はい」

「それがいいと思います」


「紗希も、いっぱい甘えて満足したならよしw」


「……否定はしません」


 向こうでまた、やわらかく笑う気配がした。

 私はそのまま少しだけ目を伏せるみたいな気持ちで、今日の流れを抱え直す。


 さぼりたい朝に、少し斜めな共犯をして。

 ありがとうと大好きに押されて、思いきり甘えて。

 最後に、それもまた良い記憶になるのかもしれないと、少し照れながら受け取る。


 ずいぶん勝手な流れだ。

 でも、たぶん今日は、その勝手さごと悪くなかった。


 そして、そういう勝手さの先で満ち足りている私も、きっと同じ紗希なのだろう。


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