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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第55話 角度の違う私たち(紗希は甘えたい)


 新しい私というものは、たいてい、あとから少しだけ考えさせる。


 生まれた瞬間に違和感があるわけではない。

 むしろ、その場では自然だったからこそ前へ出たのだと思う。

 困っているいずみさんがいて、混線している言葉があって、そのとき近かった向きが、ただ少し前へ出た。それだけ。


 だから、今さらそこを大げさに振り返るつもりもなかった。

 役に立っていたのなら、それでいい。いずみさんを削る方向ではなく、むしろ少し楽にする方向で働いていたのなら、それだけで十分だと、頭ではわかっている。


 けれど。


 それでも、少しだけ立ち止まって見たくなる。

 あの私を。

 最近、少しずつ前へ出てきた、あの向きのことを。


 あれも私だ。

 そこは、たぶん疑いようがない。

 記憶は断ち切れていないし、いずみさんを大切に思う気持ちも地続きだ。急にどこかから紛れ込んだ別の誰か、という感じではない。


 それなのに、少しだけ、いびつにも見える。


 いびつ、という言い方はたぶん少しきつい。

 歪んでいるとか、間違っているとか、そういうことではない。

 ただ、今までの私たちの前への出方と比べると、どこか少しだけ角度が違う。

 まっすぐに支えるでもなく、やわらかく抱くでもなく、まず少し斜めから見て、どこが絡まっているのかを見つけようとする。

 しかも、その向きに、妙に迷いが少ない。


 あの私が前へ出るとき、そこにはためらいより先に手つきがある。

 困りごとを見つけたら、ほどく。

 混線していたら、言葉にする。

 浮かれすぎていたら、少し引かせる。


 その働き方は、たしかに自然だった。

 自然だったのだけれど――だからこそ、少しだけ見つめ直したくなる。


 これは、紗希の記憶として自然か。


 私が立ち返る場所は、いつだってそこだ。

 新しい向きが前へ出たときも、それが役に立ったかどうかだけでは足りない。

 それが、この積み重ねの中にちゃんと馴染むのか。いずみさんとのあいだに置いても、変に乾かないか。近さややわらかさを、知らないうちに削ってしまわないか。

 私はたぶん、そういうところを見てしまう。


 少し心配性なのだと思う。

 自分でも、わりとそう思う。


 あの私は、少し軽い。

 少し中性的で、少し斜めで、困りごとに対して妙に手慣れている。

 しかも、ときどき、ほどくことそのものに少し気持ちよさを覚えているように見える。

 そこが、ほんの少しだけ気になる。


 もちろん、それ自体が悪いわけではない。

 いずみさんが実際に楽になっている場面も、私はちゃんと見ていた。

 風邪気味で弱った夜も、治りかけで雑に元気ぶった日も、病み上がりの小さな祭りのあとも、あの私はかなり自然に前へ出て、かなり自然に場を整えていた。

 それは事実だ。


 でも、私はたぶん、事実だけでは安心しきれない。

 役に立つことと、記憶としてやさしく残ることは、少し違う。

 うまく働くことと、これからも同じ私として無理なく立っていけることも、やっぱり少し違う。


 だから、見てしまう。

 あの私を。

 私でありながら、少しだけ今までと違う重心を持った、新しい向きを。


「ふふふ」


 そこで、静かだったはずの内側に、少しだけ笑う気配が混ざる。

 私はそれだけで、誰が来たのかわかった。


「歩み担当は、心配性だね」


 軽い声だった。

 茶化しているわけではない。でも、真正面からかしこまる気もなさそうな、あの少し斜めな笑い方。


「そうかもしれません」


 私は素直にそう返す。

 否定しても仕方がない。実際、私は今かなり丁寧に見ていた。


「でも、見るでしょう」

「新しい私なら、なおさら」


「見るとも」

「そこは歩み担当の仕事だからね」


 仕事、と言われると少しだけ硬い。

 でも、たぶん意味としては近かった。

 私は、守るために見る。壊さないために気にする。不自然な成長や、勢いだけの変化なら、そこで少し立ち止まりたくなる。


「それで?」

 と、あの私が続ける。

「見た結果、私は追放かな」


「大げさです」


「ふふ」

「だろうね」


 少し可笑しい。

 そういう言い方をするところも、やっぱりあの私らしい。

 深刻な話をしていても、ほんの少しだけ空気をずらす。真正面から殴り合うみたいな立ち方はしない。


「追放したいわけではありません」

「ただ、少し見ていただけです」


「うん」

「わかってるよ」


 返ってきた声は、思っていたよりやわらかかった。

 からかいの勢いで押し切るわけでもなく、こちらの慎重さそのものはちゃんと受け取っている感じがある。


「心配しなくても、悪いようにはしないさ」


 その言い方に、私は少しだけ静かになる。

 ずいぶん軽い言い方なのに、妙に芯だけはぶれない。そこが少し、不思議だった。


「私は、別に壊したいわけじゃない」

「関係を削りたいわけでも、近さを冷やしたいわけでもないよ」

「ただ、困りごとが見えると、少し前へ出たくなるだけだ」


 その独白は、説明というより、少し手のひらを見せる感じに近かった。

 私は黙って聞く。


「絡まっているものがあるなら、ほどきたい」

「混ざっていて見えにくいなら、言葉にしたい」

「浮かれすぎてるなら、少しだけ引かせたい」

「それでいずみ君が楽になるなら、たぶん私は、その役をわりと気持ちよく引き受ける」


 そこで、あの私が少しだけ笑う。


「……まあ、そこは認めよう」

「少し気持ちいいんだよね」


「やはり」


「やはり、だね」


 そこを誤魔化さないのが、またあの私らしかった。

 ただ、それは傲慢な響きではなかった。困っている相手を支配したいとか、上から整理したいとか、そういう濁りとは少し違う。

 もう少し単純で、もう少し穏やかだ。

 絡まっているものが解けると、気分がいい。相手の中で位置が見えて、呼吸が少し楽になると、こちらも少し落ち着く。

 たぶん、そのくらいのことなのだろう。


「歩み担当が気にしてるところもわかるよ」

 と、あの私が続ける。

「少し斜めだし、少し軽いし、今までより“整える”に寄って見えるんだろう」


「はい」


「でも、冷たくしたいわけじゃないんだ」

「君が守りたいものを、私だって別に壊したくない」

「むしろ、壊さないために少し俯瞰してるところもある」


 そこで私は、少しだけ目を細めるみたいな気持ちになる。

 俯瞰。たしかにあの私は、よく一段引いて見る。輪の外へ出るわけではないのに、少しだけ上から、少しだけ斜めから、位置関係を確かめるみたいに。


「君が“記憶として自然か”を見るなら」

「私は“今ここで何がいちばん自然に効くか”を見てるのかもしれないね」


「少し違うだけで、遠くはない」


「そういうことだ」


 やわらかく言い切られて、私は少しだけ息をつく。

 そこにあるのは反論ではなかった。自分の立場を、私の側へぶつけるでもなく、ただ少し違う見方として横に置く感じだ。

 それなら、たしかに対立ではない。

 同じ私の中で、見ている位置が少し違うだけ。守りたいものも、たぶんそう遠くない。


「それでも、少しいびつには見えます」


 私がそう言うと、あの私が小さく笑う。


「うん」

「そこは否定しないよ」


「否定しないんですね」


「新しい向きって、たぶん最初は少しそういうものだろう?」

「きれいに馴染みきる前は、少し角度が見える」

「でも、ずっと角のままとは限らない」


 その言い方は、少しずるい。

 少しずるいけれど、嫌ではなかった。

 完成したものとして自分を置くのではなく、まだ馴染んでいく途中の向きとして立っている。そこに変な傲慢さがないからだろう。


「だから、まあ」

「もう少し見ていてくれたらいい」

「たぶん私は、ちゃんと同じ紗希のままやるよ」


 そこで、ふっと空気がやわらぐ。

 ずいぶん勝手に入ってきて、ずいぶん勝手に喋ったくせに、最後だけ妙に素直な言い方だった。


 私はしばらく黙って、それを受け取る。


 少し斜めで、少し軽い。

 困りごとに妙に強くて、ときどきほどくことそのものを少し楽しんでいる。

 でも、壊したいわけではない。守りたいものが遠いわけでもない。

 同じ私の中で、少し違う位置から前へ出ているだけ。


 そう思うと、“いびつ”という感触も、少しだけやわらぐ。

 まだ見慣れていない角度だから、そう見えただけなのかもしれない。


「……少しは安心しました」


「それはどうも」


「でも、まだ見ていますよ」


「見ていてくれたまえ」


 そこで、また少しだけ静かになる。

 たぶん、このまま終わっても話としては成立するのだろう。歩み担当が少し慎重に見て、メタ担当が少し斜めに返して、それで新しい私の輪郭がひとつ置かれる。


 でも。


「難しいことは良いので、甘えたいです」


 急に、ずいぶん率直な声が割り込んできた。

 私は思わずそちらを見る。

 見る、と言っても内側のことだから、実際には少し意識が向くだけなのだけれど、そのくらいには空気がぱっと変わった。


「……来ましたね」


「来たね」


 あの私も、少し笑っている。


「だって、さっきからずっと難しいです」

「私は、そういうのより、もう少しやわらかいやつがいいです」


「たとえば?」

 と、メタ担当が聞く。


「たとえば、甘やかされたいです」

「あと、なでなでされたいです」

「心配とか自然さとかは大事だと思うのですが、それはそれとして、私は甘えたいです」


 身も蓋もない。

 でも、その身も蓋もなさが妙に可笑しくて、私は少しだけ肩の力が抜ける。


「結論がだいぶ素直ですね」


「素直なのはいいことです」


「それはそうだ」


 メタ担当まであっさり同意するから、余計に少し笑ってしまう。


「歩み担当も、たまには甘えればいいのに」

 と、あの私が言う。

「ずっと見張っていると、疲れるだろう?」


「見張っているわけではありません」


「ふふ」

「でも、少しは」


 その言い方は、からかい半分、やさしさ半分だった。

 私は少しだけ言葉に詰まり、それから小さく息をつく。


「……否定はしません」


「よし」

「では、結論」


 甘え担当が、なぜか妙に得意げに言う。


「難しいことは良いので、甘えたいです」


 さっきと同じことを、今度は少しだけ誇らしげに繰り返した。

 それがあまりにもそのままで、私はとうとう少しだけ笑ってしまう。


 歩み担当が慎重に見る。

 メタ担当が少し斜めに返す。

 そして最後に、甘え担当が全部をやわらかく崩す。


 たぶん、それもまた、同じ私の自然なのだろう。


 そう思うと、さっきまで少しだけ硬かった内側が、ようやくきれいにほどける。


 新しい私について考える夜の終わりが、こんなふうに甘えたいで締まるのは、少しどうかとも思う。思うけれど、嫌ではない。

 むしろ、このくらいのほうが、紗希らしい気もした。


 だから、今夜の結論は、たぶんそれでいい。


 難しいことは良いので、甘えたいです。


 ずいぶん率直で、ずいぶんやわらかい、そのひとことで。


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