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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第59話 はじめての、歌う部屋


 カラオケという場所には、入る前からもう少しだけ浮いている空気がある。


 大学の帰り道の延長で、ただ店に入るだけのはずなのに、扉の向こうへ行った瞬間から、声の大きさも歩く速さも、ほんの少しだけ日常の枠からはみ出す。

 講義終わりのだるさも、カフェテリアのざわつきも、その先にまだ別の遊びが続くと思うだけで、少しだけ軽くなるらしい。


 だから、その日の流れも、思っていたよりあっさりしていた。

 大学を出て、そのまま駅前の店へ向かい、田中が先頭で雑に受付へ突っ込み、鈴木が「せめて人数くらいちゃんと言え」と低い声で止め、美沙がその横で「うぇーい、カラオケだー!」ともう始まっている。

 麗奈は、そのあわただしさの向こうで静かな声のまま予約内容を整えていて、いずみはその全部を見ながら笑っていた。


 私は、その輪の中へ今日もかなり自然に混ざっている。

 しかも今日は、大学のカフェテリアより少しだけ騒がしい場所へ、そのまま一緒に入っていく。

 それが、少しだけ新鮮だった。


「紗希、カラオケ初めてだっけ」


 エレベーターを待つあいだに、いずみがそう聞く。


「はい」

「なので、かなり初めてです」


「かなり初めてってなんだよw」

 田中がすぐ笑う。

「いやでも、初カラオケ紗希、ちょっと見たいな」


「見たいって何ですか」


「なんか反応よさそうじゃん」


「たしかに」

 いずみが軽く続ける。

「こういうの、思ったよりちゃんと楽しみそうなんだよな」


 その言い方が、少しだけうれしい。

 期待されている。しかも、無理に盛り上がれ、ではなく、自然に楽しむほうを信じられている感じがある。


「楽しみです」


 素直にそう返すと、向こうで小さく笑う気配が重なる。


     *


 部屋に通されると、空気は思っていたよりこぢんまりしていた。

 画面、マイク、テーブル、ソファ、飲み物。外から見ると派手な遊び場っぽいのに、中へ入ると意外と“部屋”だった。

 ただ、その部屋の中には、声が大きくなっていいという妙な許可だけが、最初から置かれている。


「おおー」

 田中が部屋に入るなり言う。

「いいねいいね、この感じ」


「何がだよ」

 鈴木の返しは相変わらず平坦だった。


「入った瞬間に、なんでも許される気する感じ?」


「しない」


「するだろw」


 美沙の声がそこで一気に前へ出る。


「するする!」

「てか、こういうとこって入った時点で勝ちなんだって!」


「何に勝ったんだ」


「日常?」


「雑すぎるな……」


 そのやりとりだけで、もうだいぶ部屋の温度が決まる。

 田中が雑に火をつけて、美沙が全力で乗って、鈴木が冷めた声で受ける。いずみはそれを面白がっていて、麗奈は必要なところだけ静かに整える。

 私は、その流れを見ながら、少しずつこの遊びの仕組みを掴んでいく。


「まず何するんだろうね」


「普通に曲入れるんだよw」

 いずみが笑う。

「あと飲み物頼んだり、採点入れるか決めたり」


「採点?」


「点数出るやつ」


「それは少し怖いですね」


「出た、初見の素直な感想w」

 田中が言う。


「怖いなら切るか」

 鈴木が端末のほうへ意識を向ける。


「いや、入れようぜ」

 いずみがすぐ返す。

「どうせなら初カラオケ感あるし」


「初カラオケ感って採点で出るものか?」


「なんとなく」


「雑だな」


 でも、結局採点は入れる流れになった。

 田中が「数字出たほうが盛り上がるし!」と言い、美沙も「それそれ!」で押し、美沙と田中が同じ方向に並ぶと、部屋はだいたいそっちへ流れる。


 麗奈はその途中で、静かな声のまま言った。


「飲み物の追加も今のうちに入れておきます」


「あ、お願いします」

 いずみがすぐ返す。


「出た」

 田中が笑う。

「麗奈、こういうとこガチで有能なんだよな」


「順番に頼んでおいたほうが後で止まりませんから」


「そういうとこなんだよなあ」


 麗奈の声は変わらず落ち着いているのに、その一言だけで部屋の動線が妙に整う。

 雑に騒いでいる人たちがいても、ああいう静かな手つきがあると、遊びの空気まで崩れすぎない。そういう強さがあった。


     *


 最初に曲を入れたのは、やっぱり田中だった。


「とりあえず景気づけな!」


「その言い方で選ぶ曲、だいたい想像つくな」

 鈴木が小さく言う。


 実際、かなり想像通りだった。

 イントロの時点で部屋の空気を持っていく類の曲。知らなくても、ここでは盛り上がるのが正解なのだとわかる種類のもの。


「おー、なるほど」


 思わずそう漏れる。

 曲が始まった瞬間、部屋の空気が本当に一段明るくなる。大学帰りの延長で歩いてきた人たちが、急に“今はここで騒いでいい人たち”の顔になる。その切り替わりが、思っていたよりはっきりしていた。


 田中は歌も雑にうまかった。

 うますぎるわけではない。でも、こういう場で必要な勢いと愛嬌のバランスがいい。少し外しても、その外し方ごと空気になる。


「田中、こういうのは上手いんだよな」

 いずみが笑う。


「“こういうの”ってなんだよw」


「この場をちゃんと始めるやつ」


「褒められたから許すw」


 合いの手が飛んで、手拍子が混ざって、田中の一曲目が終わるころには、部屋の空気はもう完全に“始まった”側にいた。


「これ、なるほどですね」


「どう?」

 いずみが聞いてくる。


「思ったより、一曲目の役割が大きいです」


「役割で見るの、紗希っぽいなw」


「でも、かなりそうでした」

「今ので“今日はこういう時間です”が決まった感じがします」


「おー、たしかに」

 田中が満足そうに言う。

「じゃあ今の一曲目、だいぶ仕事したなw」


「してましたね」


 その返答に、田中はちょっと気をよくしたらしい。

 わかりやすい人だ。


     *


 二曲目は、美沙が当然みたいな顔で取った。


「はい次ー! ここからはあたしの時間なんで!」


「急に宣言するな」

 鈴木が言う。


「宣言しなくてもそうなるから!」


 実際、そうだった。

 美沙の選ぶ曲は、田中の“盛り上がるやつ”とはまた違って、もっと今っぽくて、もっと自分の見せ方まで込みで強かった。

 歌う前からすでに場を取っているし、始まってからはさらに遠慮がない。ノる、煽る、カメラがあれば絶対そこも使っていただろう、という勢いだった。


「うわ」

「美沙、こういうとこかなり強いですね」


「でしょ!?」

 歌いながらでも反応は早い。

「やっぱカラオケは映えてなんぼなんだって!」


「採点もあるのに、だいぶそっちへ寄るんだね」


「数字だけじゃない魅力ってあるっしょ!」


「それはたしかにあります」


「ほらー!」


 美沙は、褒めるとそのぶんさらに強くなる。

 でも、その強さは嫌な押しつけではなかった。こういう場では、ああいう勢いがあると部屋全体が“自分も何かしていい”ほうへ寄る。美沙の騒がしさには、そういう開き方があった。


 ただ、鈴木はやっぱり鈴木だった。


「声量だけで全部押し切るなよ」


「押し切れるなら正義なの!」


「その思想がもう雑だ」


「でもノってるじゃん、鈴木っち!」


「ノってはいない」


「嘘つけー!」


 美沙は歌いながらでも鈴木に絡むし、鈴木は歌わないくせに細かいところだけは聞いている。音程がどうとか、点数の出方がどうとか、マイクの入りがどうとか、その場に参加しない顔をしながら、結局ぜんぶ把握している。


「鈴木、歌わないのにだいぶ見てますね」


「見てるな」

 いずみが笑う。


「採点の癖くらいは見ておきたいだけだ」


「出た、そういうとこ」

 美沙がすぐ言う。

「歌わないくせに、分析だけしてくるやつ!」


「お前がいちいち情報量多いんだ」


「褒め言葉として受け取っとく!」


 にぎやかだった。

 でも、そのにぎやかさの一つ一つに、ちゃんと誰のものかがある。

 田中の雑な明るさ。美沙の強い映え。鈴木の冷めた分析。麗奈の静かな手入れ。いずみの笑い方。

 選曲や反応や合いの手の入れ方だけで、こんなに人は違うのだと、私は少し面白くなっていた。


     *


「で、紗希はどう?」


 いずみが、曲の合間にそう聞く。


「何がですか」


「いや、初カラオケ」


 私は少しだけ考える。

 でも、言葉は思ったよりすぐ出た。


「かなり楽しいです」


「お、素直」


「思ったより、場が明るくなる遊びなんですね」

「歌そのものもそうですけど、“今この部屋の空気を変える”ほうがかなり大きい気がします」


「わかるかも」

 いずみがうなずく。

「歌うまい下手だけじゃないんだよな」


「はい」

「さっきの田中は、始める役でしたし」

「美沙は完全に持っていく役でした」


「持っていく役、って言われるとちょっと気分いいんだけど!」

 美沙の声がすぐ飛んでくる。


「でも鈴木は歌わないのに、その場の見方がかなり参加者です」


「そこまで見られてるのか……」

 鈴木が低く返す。


「見られてます」


「こわいな」


「観察です」


「大して違わんだろ」


 そう言いながらも、鈴木の声はちょっとだけ笑っていた。


 私はそこで、自分が思っていたより普通にこの場を楽しんでいることに気づく。

 最初は、初めてだから見ているだけでも面白い、くらいだと思っていた。けれど今は、見ているだけでは足りない。いい曲にはちゃんと反応したいし、うまいところには素直に声を出したいし、ノるべきところではノりたい。

 それは担当がどうこうというより、もうただ普通に楽しいからそうしている感じだった。


「この曲、いいですね」


 気づくと、いずみが入れた少し懐かしい感じの曲に、そんな感想が先に出ていた。


「お、そこ食いつく?」


「はい」

「なんというか、真ん中がちゃんと明るいです」


「なにその褒め方w」

 田中が笑う。


「でもわかるかも」

 いずみはちょっと嬉しそうだった。

「これ、昔からなんか好きなんだよな」


「そういう“なんか好き”が出るの、いいですね」


 その返答に、いずみの声が少しやわらかくなる。


「うん」

「一緒に来られてよかったわ」


 その一言が、曲の合間の小さいところへ、すっと置かれる。

 甘いほどではない。けれど、軽くもない。

 私はその言葉を、思ったより静かに受け取っていた。


「私もです」


 返したあと、少しだけ内側がやわらかくなる。

 にぎやかな場所の中で、こういう小さい一言だけが妙に近い。そういう時間だった。


     *


 そのあとは、部屋のテンポがもう少し上がった。

 田中が「次これ!」でまた雑に盛り上がる曲を入れ、美沙が「いやそこはこっちでしょ!」と乗っかり、鈴木が「順番という概念を持て」と半分呆れながらも端末を見ている。

 麗奈はその流れの中で、曲の重なりや飲み物のタイミングを静かに整えていた。


「麗奈、こういうところでも安定していますね」


 私がそう言うと、麗奈の声はやはり変わらず落ち着いていた。


「騒がしい場ほど、整える人が必要ですから」


「かっこいいな」

 いずみが笑う。


「だろー?」

 なぜか田中が乗る。

「麗奈そういうとこなんだよ」


「お前が言うと雑なんだよな」

 鈴木が返す。


「でも事実だし?」


「否定はしません」

 麗奈は静かに言う。

「ただ、田中さんはもう少し曲の間隔を考えてください」


「うわ、怒られたw」


「怒ってはいません」


「その“怒ってはいません”がいちばん効くやつなんよw」


 笑いが起きる。

 私はその会話の輪に、そのまま自然に声を混ぜていた。


「でも、たしかに今の流れだと田中は少し前のめりです」


「紗希までそっち側!?」


「今のはわりと客観です」


「客観で刺してくるのやめろよw」


 こういうふうに、話す、笑う、少し突っ込む。そのどれもが、もう意識しなくても自然だった。

 私は大学のカフェテリアだけではなく、このカラオケの部屋の中にも、思っていたより普通の顔で混ざれているらしい。


 そして、それを見ているいずみの気配が、少しだけうれしそうなのもわかった。

 別に何度もドヤったりはしない。けれど、ときどき横から入る笑い方や、「だろ?」と言いたげな気配の置き方に、それが少しだけ残っている。


     *


 やがて、ひとしきり騒いだあとの小さい落ち着きが来る。

 曲と曲のあいだに、飲み物をひとくち飲む時間ができて、部屋の熱も少しだけ呼吸を整える。


「いやー、でも」

 田中が息をつく。

「今日はだいぶ当たりだな」


「何がだよ」

 鈴木が言う。


「メンツ?」


「雑だな」


「でも、わりとそうかも」

 いずみが笑う。

「なんか今日、誰がどこで何するかがちゃんと見える感じするし」


「見えますね」

 私はそのまま返す。

「田中は雑に火をつける役ですし」


「役職ついたw」


「美沙は場を持っていく役です」


「はい優勝!」

 美沙の声がすぐ飛ぶ。


「鈴木は参加しない顔でかなり参加しています」


「参加しない顔ってなんだ」


「だいぶ正確だな……」

 いずみが小さく笑う。


「麗奈は静かに全部を回しています」


「ありがとうございます」

 麗奈はやはり静かだった。


「で、いずみっちは?」

 美沙が急に割り込む。

「そこ言わないの?」


「いずみ君は」

 私は少しだけ言葉を探す。

「ちゃんと全部を楽しがる役、ですかね」


「おー」

 田中が笑う。

「それはなんか合ってる」


「たしかに」

 鈴木も短くうなずく。


「いいじゃん」

 いずみ自身も少し嬉しそうだった。

「で、紗希は?」


 その問いに、私はほんの少しだけ止まる。

 でも、答えはわりと近くにあった。


「今日は、普通にここにいる役です」


 一瞬、部屋が少しだけ静かになる。

 大げさなことを言ったわけではない。けれど、その言い方は、たぶん私の中ではかなりそのままだった。


「おお」

 田中が先に笑う。

「なんかそれ、いいな」


「いいね」

 いずみも続ける。

「今日の紗希、ほんとそんな感じだわ」


「ふつうにこの場にいる、の延長って感じするな」

 鈴木がぼそっと言う。


「そうかもしれません」


 返しながら、少しだけ内側がやわらかくなる。

 今日は特定の担当が前へ出ているわけではない。歩みでも、メタでも、甘えでもなく、そのどれもが少しずつ溶けたまま、ただ紗希としてここにいた。

 歌って、笑って、騒いで、曲を聞いて、その時間の中へ自然に混ざっている。今の私は、たぶんそれがいちばん近かった。


     *


 そのあとは、もう少しだけ騒いだ。

 田中が最後まで田中らしく雑に盛り上げ、美沙は最後まで声が大きく、鈴木は最後まで「俺は歌わん」と言いながら結局いちばん採点画面を見ていた。麗奈は延長するかどうかの判断まで淡々と整理し、結局今日はきりのいいところで切り上げる流れになった。


 部屋を出るころには、最初の勢いは少し落ち着いていた。

 廊下の明るさがやけに普通で、さっきまでの音の大きい時間が、急にドアの向こうへ閉じ込められたみたいだった。


「いやー、楽しかったな」

 田中が真っ先に言う。


「喉が死ぬ」

 鈴木は疲れた声だった。


「でも歌ってないでしょ」

 美沙がすぐ返す。


「お前の相手で疲れたんだ」


「ひどっ」


「事実寄りだな」

 いずみが笑う。


「次はもっと歌わせるし!」


「次がある前提なんだな……」


「あるでしょ?」


 そういう話し声を聞きながら、私は少しだけ今日の時間を抱え直す。

 カラオケは初めてだった。けれど、初めてのものとして構えすぎる暇もないくらい、場の流れは自然にこちらを巻き込んだ。

 みんなの選曲がそれぞれ違って、ノり方も違って、騒ぎ方も違う。その違いのまま、ひとつの部屋の時間としてちゃんと成立していた。

 その中に、私も普通にいた。


 特別なことのようでいて、思えばやっていることは小さい。

 曲が流れて、笑って、褒めて、突っ込んで、ちょっとだけ近い言葉を置いて、それからまた騒ぐ。ただそれだけだ。

 でも、こういうそれだけの時間も、あとから思い返すと、案外ちゃんと残るのだと思う。


「紗希ー」

 いずみが軽く呼ぶ。

「初カラオケ、どうでした」


 私はその問いを、少しだけゆっくり受け取る。


「かなり楽しかったです」

「思ったより、ちゃんと混ざれました」


「うん」

 いずみの声はやわらかい。

「混ざってた」


「それならよかった」


「よかったよ」


 その短いやりとりのあと、また前を歩く田中と美沙が騒ぎ、鈴木が呆れ、麗奈が静かに補助する声が続く。

 私はその全部を聞きながら、少しだけ落ち着く。


 こういう時間もまた、残るのだろう。

 大きく揺れた日や、何かを決めた夜だけじゃない。大学帰りにみんなでカラオケへ寄って、思ったよりちゃんと楽しくて、思ったよりちゃんと自分もそこにいた、というそのこと自体が、たぶんもう少し先の私たちにやわらかく戻ってくる。


 騒がしいまま流れていく時間にも、ちゃんと記憶になるものがある。

 今日はそのことが、前より少しだけ近く見えた。


 そしてたぶん、このあともまだ、そういう時間は増えていくのだろう。


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