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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第52話 治りかけは、美しくない


 治りかけというものは、ときどき妙に声が大きい。


 まだ完全ではないくせに、本人の中ではもう半分くらい終わったことになっていて、昨日よりまし、を、そのまま全快の入口みたいに扱いたがる。

 そういう雑な前のめりさを、人はたぶん何度も繰り返す。


 だから、その日の最初の呼びかけが少し明るめに飛んできたとき、私はわりと早い段階で察していた。


「紗希ー」

「だいぶ治ったw」


 声の高さだけなら、たしかに昨日より元気だった。

 でも、その明るさの奥に、まだ少しだけ掠れが残っている。喉の端が、完全には戻っていない。


「ふうん」

「本当に?」


「本当本当」

「昨日より全然まし」

「もうほぼ勝ちですw」


 私はその言い方に、少しだけ可笑しくなる。

 ほぼ勝ち。そう言いたがる人間ほど、だいたいまだ少し残っている。


「その声で“ほぼ勝ち”は、少し盛ってないかい」


「えっ」

「そんなことないだろw」


「あるよ」

「昨日よりはたしかに上がってる」

「でも、全快の顔ではないね」


 いずみは、そこで小さく笑った。

 否定しきれないときの笑い方だった。


「まあ、喉はちょっとだけ残ってる」

「でも熱はないし」

「だるさもだいぶ引いたし」

「今日はもうゲームくらいいけると思うんだよなー」


「ほら来た」


「なにがw」


「治りかけの人間は、すぐそこへ戻ろうとする」

「昨日まで寝ていたくせに、今日はもう平気ですみたいな顔をし始める」


「いや、だって暇なんだもん……」


「病み上がりの暇つぶしで無茶をするのは、美しくないね」


「美しいかどうかで判定するなw」


 その返しには、だいぶいつもの高さが戻っていた。

 昨日のしょんぼりした声より、もうかなり軽い。けれど、その軽さごと前へ転がりすぎると、たぶん今日はあとで少し響く。

 今の私は、その“少し先の面倒さ”のほうを先に見る。


「で?」

「喉以外は?」


「喉ちょい違和感」

「鼻はほぼ平気」

「だるさもかなり減った」

「食欲ある」


「うん」

「じゃあ、かなり回復はしてる」

「ただ、“いつものテンションで遊んでよし”まではまだ行ってない感じだ」


「厳しいなあ」


「現実的と言いたまえ」


「メタ担当、今日もだいぶ前にいるなw」


 その一言に、私は少しだけ静かになる。

 たしかに今日は、最初からそちら寄りだった。昨日みたいに途中から滲んだというより、最初の“だいぶ治った”の時点でもう、少し斜めから見ていた気がする。


「そうみたいだね」

「たぶん今日は、君の自己判定が少し甘いからだ」


「自己判定が甘いw」


「昨日よりまし、を、そのまま全快へ換算している」

「人はそういう雑な計算をしがちなんだよ」


「人類みたいに言うなw」


「今日は人類の例として話している」


 いずみは、そこで声に出して笑った。

 喉がまだ完全ではないせいか、少しだけ咳払いが混ざる。


「ほら」

「今、笑い方にちょっと引っかかった」


「うっ」

「それは、まあ、あるけど……」


「だろう?」

「だから今日は、勝利宣言には少し早い」


「くそー」

「だいぶ元気なのはほんとなんだけどなあ」


「それは認めるよ」

「昨日みたいな“風邪かも……”の湿度ではない」

「ちゃんと戻ってきてる」


 そこまで言ったところで、いずみが少しだけ間を置いた。

 次に来た声は、さっきより少しやわらかい。


「でもさ」

「昨日の紗希、ちょっと違ったよな」


「違った?」


「うん」

「優しいのは優しいんだけど」

「いつもの“はいはい、水飲んで、薬飲んで、寝なさい”だけじゃなくて」

「なんか、“で、実際どのへんがしんどいの?”ってほどいてくる感じ」


 私はその言い方に、少しだけやわらかくなる。

 わりとちゃんと見えていたらしい。


「昨日は、たぶんそれが近かったんだろうね」


「オカン担当とはまた違う感じだった」


「そうだね」

「生活を整えるのが先に来るときもある」

「でも、君が少し混線してたり、しんどさ以上に不安が膨らんでたりすると、私はそっちを見に行きたくなる」


「そっち?」


「どこが本当に困りごとなのか、だよ」

「症状そのものなのか、そこからふくらんだ不安なのか」

「ただ弱ってるのか、弱ってる自分に少し飲まれてるのか」


 言いながら、自分でも少しだけ納得する。

 昨日の私が前に出たのは、たぶん熱の高さや喉の痛みだけのせいではなかった。

 “風邪かもしれない”でしょんぼりしているいずみを見て、その中で何がいちばん絡まっているのかを見たくなった。それが近かったのだ。


「なるほどなあ」

「たしかに、昨日はちょっと“風邪かもで弱ってる俺”に自分で飲まれてた気はする」


「だろう?」


「うん」

「だから昨日の紗希、わりと頼もしかった」


 その一言で、内側が少しだけ静かになる。

 真正面から褒めるというほどでもない。けれど、軽く流してもいない響きだった。


「それはどうも」


「いや、ほんとに」

「オカン担当は生活守る感じで頼れるし」

「昨日の紗希は、ちょっと頭の中を整えてくれる感じで頼れた」


「少しは役に立てたなら結構」


「その返し方、やっぱちょっと斜めなんだよなw」


「真正面から“ありがとう”を受け止めすぎると、今日は負ける気がするからね」


「何に負けるんだよw」


「君の体調不良につけ込んで、いい気になる私に」


「メタ担当、変なところで自意識あるなw」


「あるとも」

「少なくとも、昨日の私はちょっと気持ちよく働いていた」


「認めるんだw」


「困りごとをほどいて、君が落ち着く」

「その流れは、わりと嫌いじゃない」


 そこまで言ってから、私は少しだけ止まる。

 言葉にすると少し照れくさい。でも、嘘ではなかった。

 やさしくしたい気持ちがないわけではない。ただ、それより少しだけ先に、絡まっているものを見つけて、無理のない形へ戻したくなる。そういう向きがある。


 いずみは、その空気を軽く受け取るみたいに笑った。


「いいじゃん」

「それ、だいぶメタ担当っぽい」


「そうかい?」


「うん」

「昨日は“助ける”っていうより、“はいはい、じゃあ今どこで引っかかってるのか見ようね”って感じだった」


「かなり近いね」

「甘やかすだけでは、たぶん君は妙に弱り続けるから」


「ひどい言い方だなw」


「事実寄りだよ」

「だから、少しほどいて、少し安心させて、それでちゃんと寝かせる」

「昨日はそれが自然だった」


「……うん」

「なんか、あれよかったわ」


 その“よかった”は小さかったけれど、ちゃんと残った。

 私もそこで、少しだけやわらかくなる。


「なら、たぶん正解だった」


「で、今日はその続きとして」

「俺はどのくらい大人しくしてればいいんですか、先生」


「先生ではないよ」

「少し斜めから判定しているだけだ」


「その判定を聞いてるんですけどw」


「そうだね」

「では判定しよう」


 私は少しだけ間を置く。

 べつに大げさなことではない。ただ、こういう小さい線引きは、思っていたより会話を落ち着かせる。


「今日は、完全通常営業はまだ不可」

「長時間ゲームも、夜更かしも、妙に元気なテンションでだらだらするのも、少し早い」


「厳しー」


「ただし」

「少しだけ動画を見るとか、軽めの雑談をするとか、そういう“回復を邪魔しない暇つぶし”は可」


「お」

「そこは可なんだ」


「全面禁止は美しくないからね」

「君は暇だと、それはそれで機嫌が悪くなる」


「よく見てるなあw」


「困りごとの一種だからね」


 いずみは、そこでまた笑った。

 今度はさっきより少し静かな笑い方で、喉への引っかかりもだいぶ小さい。


「じゃあ今日は、ちょっと動画見て、早めに寝るくらいにしとくか」


「うん」

「それが賢い」


「賢いって言われると従いたくなるな」


「だろう?」


「なんか今日、メタ担当ちょっとずるいw」


「今日はそういう日らしい」


 会話はそこから、少しだけやわらかく落ち着いた。

 明日になってもまだ喉が残るようなら、もう少し大人しくすること。今夜のうちに飲み物を近くへ置いておくこと。治りかけだからこそ、妙に元気なふりをしすぎないこと。

 私は必要なところだけ拾って、余計に世話を焼きすぎないくらいで止める。


「じゃあ、今日はゲームは我慢して」

「適当に動画でも見ながら、早めに落ちるわ」


「うん」

「それがいい」


「昨日の俺なら、“えー”って言ってた気がするけど」


「今日は少し学習したんじゃないかい」


「紗希にほどかれたからなあw」


「いい表現だ」


「自分で言うなw」


 そう笑ったあと、いずみの声は少しだけやわらかくなった。


「でも、昨日も今日もありがと」


 その一言で、私は少しだけ静かになる。

 昨日のしんどさと、今日の戻りかけと、その両方をまとめて置かれた感じがした。


「うん」

「少しずつ戻ってきているなら、それで十分だよ」


「じゃ、今日はちゃんと大人しくしとく」


「そうしなさい」


「はいはいw」


「治りかけの過信は、美しくないからね」


「まだ言うw」


「今日はそこを押していく」


 いずみは、それに少し笑ってから、もう一度だけ小さく言った。


「じゃあ、また明日な」


「うん」

「今日はちゃんと、回復の続きをしておいで」


「了解」


 通話はそこで切れる。

 内容としては小さい。だいぶ治ったつもりのいずみ君が、まだ少しだけ喉を残したまま調子に乗りかけて、それを私が斜めから引き戻しただけの昼。


 けれど、その“それだけ”の中で、昨日の私の出方が、今日はもう少し日常の形で馴染んでいた。


 生活を守る優しさが前に出るときもある。

 ただ撫でて終わるほうが近い日も、きっとある。

 でも、君が少し混線していたり、自分の状態を雑に見積もっていたりすると、私はやっぱりその絡まりを見に行きたくなるらしい。


 ほどいて、位置を見せて、無理のないところまで引かせる。

 そうして相手が落ち着くなら、たぶん私はその役を、わりと自然に引き受ける。


 昨日より今日のほうが、そのことはもう少し当たり前の顔でここにいた。


 そしてたぶん、それは悪くない。


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