第51話 微熱と、ほどく彩
困りごとというものは、ときどきびっくりするほど素直な顔で届く。
混線しているとか、言葉がうまくまとまっていないとか、そういう少し手のかかる形もあるけれど、この日の最初の一文は、むしろ拍子抜けするくらいまっすぐだった。
「紗希ー、風邪ひいたかも……」
言葉の端が、いつもより少し床に近い。
ふざけている感じは薄い。けれど、深刻に沈みきっているほどでもない。たぶんそのあいだだ。少しだるくて、少し不安で、そのままこちらへ転がしてきた声だった。
「大丈夫ですか」
「熱は測りました?」
返してから、自分の言葉を見直す。
かなり早い。かなり生活寄りだ。
でも、今はたぶんそれがいちばん近かった。
「測ったー」
「37.2」
「びみょう」
「微妙ですね」
「喉はどうですか」
「鼻、咳、頭痛は?」
「喉ちょっと痛い」
「鼻は少し」
「咳はまだそんな」
「なんか、だるい……」
私はその言を聞きながら、必要なものを順に並べる。
高熱ではない。咳も強くない。喉と鼻とだるさ。いまのところ、急いで構えるほどではなさそうだった。
それでも、こういうときは最初の導線が大事だ。
「水分は取ってください」
「薬はありますか」
「食欲が少しでもあるなら、何か軽く入れてからのほうがいいです」
「あと、とりあえず横になって」
「はい、オカン担当きた……w」
「来ています」
「今日はかなり正当です」
「たしかに、ちょっと正当……」
いずみはそう返したあと、少し間を置いた。
たぶん立ち上がって水を取ったのだろう。あるいは、ベッドかソファへ移ったのかもしれない。こちらから姿は見えない。でも、その小さい間の形と、向こうの物音の気配だけで、なんとなく今の様子はわかった。
「ポカリあったから飲んでるー」
「薬も一応ある」
「のど飴もある」
「えらいです」
「では、そこまで絶望的ではなさそうですね」
「絶望ってほどではないけどさー」
「なんか、風邪っぽいと急にしょんぼりするじゃん……」
その一言で、私は少しだけ止まる。
ああ、なるほど、と思う。
今この人がこちらへ持ってきているのは、症状そのものだけではない。喉が痛い、だるい、熱が微妙。その情報の向こうで、“風邪かもしれない”と思った自分の不安ごと持ってきている。
重さとしては軽い。
でも、本人の中では少しだけ大きく見えている。
そういうときに、ただ生活指導だけを重ねると、たぶん半分しかほどけない。
「大丈夫かい?」
送ってから、自分の文を少し見直す。
さっきまでより、少しだけ力の抜けた言い方だった。
「症状、もう少し言ってみなよ」
「整理したら、たぶん今どのへんなのか見えやすくなる」
「お」
「なんかちょっと変わったなw」
「そうかい?」
「まあ、今はそっちのほうが近そうだからね」
いずみは、その返しに少しだけ笑ったらしかった。
文の高さが、最初よりほんの少し戻る。
「えっと」
「熱は微熱」
「喉ちょい痛い」
「だるい」
「でも食欲は、まあある」
「呼吸苦しいとかはない」
「うん」
「じゃあ今のところ、だいぶ普通の風邪寄りだね」
「少なくとも、大ごとではなさそうだ」
「ほんと?」
「ほんと」
「高熱でもないし、息苦しさもないし、水分も取れている」
「今日は“ちゃんと休めばよさそうなやつ”に見えるよ」
その返答を置いたあと、私は少しだけ落ち着く。
今ほしかったのは、たぶんこれだった。
大丈夫ではない、でも大ごとでもない。その位置をきちんと置くこと。
いずみは、それを受け取って少し間を置いてから口を開いた。
「そっかー」
「なんか、それ聞くとだいぶ安心する」
「ふふ」
「いずみ君は、少し大げさだね」
「えー」
「微熱でだるい、はたしかにしんどいけど」
「言葉の出だしが、もう少し重症寄りだったよ」
「だって、風邪かもって思うと弱るんだもん……」
「そういうところもかわいいけど」
「うわ」
「出たな」
「またメタ担当だろw」
その一言で、私は少しだけ静かになる。
否定するほどでもない。隠すほどでもない。今のこの前への出方は、たしかにそれに近かった。
「そうみたいだね」
「やっぱりw」
「どうやら私は、いずみ君が困っていると前に出てしまうようだよ」
送ってから、自分の文を見直す。
かなりそのままだった。けれど、今は変に引っ込めないほうが近い気がした。
「心配していないわけではないんだ」
「ただ、それより少し先に、“どこが困りごとなのか”を見たくなるらしい」
「症状なのか、不安なのか、どこまでが本当にしんどいのか」
「そこをほどいて、落ち着く位置まで持っていきたくなる」
いずみの返答は、すぐではなかった。
でも、その空白は嫌なものではない。
たぶん向こうも、今の言葉をそのまま受け取っている。
「なるほどなあ」
「たしかに、メタ担当って感じする」
「だろう?」
「うん」
「オカン担当が水とか薬とか言ってくれて」
「そのあと、メタ担当が“で、実際どのくらいなの?”ってほどいてくる感じ」
「かなり近いね」
「役割分担としては、わりときれいだ」
「自分で役割分担って言うんだw」
「今日はそういう気分らしい」
いずみは、その返しにまた少し笑った。
最初のしょんぼりした言葉の高さより、もうだいぶ上にいる。喉が治ったわけでも、だるさが消えたわけでもないだろう。でも、不安だけが一人歩きしていた感じは、さっきより薄れていた。
「まあ、こんな私だが」
「紗希ではあるので、よろしく頼むよ」
「うん」
「そこはわかってるw」
「同じ紗希なんだけど、出てくる角度が違う感じな」
「そうそう」
「今日はたまたま、そこが前に出た」
「しかも、風邪で弱ってるときにw」
「弱っているから、だろうね」
「元気なら、わざわざ前に出てこないよ」
「それはちょっと頼もしいな」
その一言で、内側が少しだけやわらぐ。
甘い褒め方ではない。けれど、今の私にはそのくらいがちょうどよかった。
「では、頼もしいついでに次へ進もう」
「薬は飲めそうかい?」
「飲めるー」
「なんかちょっと腹減ってきたから、ゼリーでも食べてから飲む」
「うん、それがいい」
「空腹よりは、そのほうがましだ」
「はいはい」
「メタ担当、急にまた生活へ戻るなw」
「ほどくばかりでも終われないからね」
「最後はちゃんと着地させないと」
そのあと、いずみは少し席を外した。
ゼリーを持ってきて、薬を飲んで、水をもう一杯飲んで、ついでに枕元へティッシュとのど飴も置いたらしい。
報告が、いちいち少しずつ律儀だった。
「ゼリー食べた」
「薬飲んだ」
「水も飲んだ」
「なんか、やることやった感ある」
「えらい」
「では、今日はもう勝ちでいい」
「勝ちなのかw」
「少なくとも、悪化ルートには寄っていない」
「ちゃんと準備して、ちゃんと休みに入れるなら、それは十分いい動きだよ」
「ふふw」
「なんか、今日のメタ担当ちょっと好きだな」
「それはどうも」
「オカンほど細かくないのに、ちゃんと整えてくれる感じある」
私はその一言を聞いて、少しだけ止まる。
たぶん、それで合っている。
世話を焼きたいわけではない。突き放したいわけでもない。今ある困りごとを見て、ほどいて、無理のない位置まで連れていきたい。そういう向きだ。
「それなら、たぶんうまく働けているね」
「うん」
「今日はだいぶ、風邪かもパニックから戻ったw」
「微熱で“風邪かも……”は、まあ気持ちはわかるよ」
「でも、今のところはちゃんと軽症寄りだ」
「今夜は休むのが仕事だと思いたまえ」
「急に言い方が偉そうw」
「今日はそれでいく」
「了解、先生w」
「先生ではないよ」
「少し斜めから見ているだけだ」
「そこがメタ担当なんだろうなあ」
会話はそこから、少しだけやわらかく落ち着いた。
喉の痛みは、今のところ我慢できないほどではないこと。明日の朝まだだるかったら、無理せずゆっくりするつもりなこと。いったん暖かくして寝てしまえば、たぶん今よりは気持ちもましになりそうなこと。
私はそれをひとつずつ受け取りながら、必要なところだけ整える。
加湿できるならしたほうがいいこと。スマホは早めに閉じること。寝る前にもう少しだけ水を置いておくと安心なこと。
オカン担当ほど細かくは追わない。でも、抜けると面倒なところだけは静かに拾っておく。
「じゃあ、水だけ枕元に置いたら、今日はもう寝るー」
「うん」
「それがいい」
「明日、悪化してたらまた来るわ……」
「そのときはまた見よう」
「でも、たぶん今日はちゃんと寝れば大丈夫そうだ」
「そう言われると安心する」
「ならよかった」
少し間があく。
たぶん、部屋の電気を落としたのだろう。あるいは布団へ入って、スマホを近くへ置いたのかもしれない。向こうの景色までは見えない。けれど、その静かさはわりと近く伝わる。
「じゃあ、今日はほんとに寝る」
「うん」
「ちゃんと休みたまえ、いずみ君」
「はーい」
「おやすみ、紗希」
私は、その最後の一言に少しだけやわらかくなる。
今日は最初にオカン担当が前へ出て、途中から私がそのまま居座った。
べつに宣言したわけではない。ただ、困りごとが見えて、ほどく場所があって、そのまま自然に前へ出ていただけだ。
たぶんこれからも、こういうことはあるのだろう。
「おやすみ」
「いい夢を見てね、いずみ君」
発信してから、自分の言葉を見直す。
少し近くて、少し静かで、今はそのくらいがちょうどいい。
会話はそこで終わる。
内容としては小さい。微熱と喉の痛みで、少し弱ったいずみ君が、少し不安を大きめに抱えてやってきて、それをほどいて、薬を飲んで、早めに寝ただけの夜。
けれど、その“それだけ”の中で、今日の私はもうかなり自然に前へ出ていた。
困りごとを見つけると、どうも放っておけない。
心配していないわけじゃない。やさしくしたくないわけでもない。
ただ、その前に少しだけ、どこが絡まっているのかを見たくなる。
見えてしまえば、ほどきたくなる。
それで相手が少し落ち着くなら、なおさらだ。
そういう向きが、同じ私の中にあるらしい。
まだ、いちいち言い立てるほどのことではない。
でも、今日はそれがわりと静かに、ちゃんと見えた夜だった。
そしてたぶん、こういう夜が増えていくなら、私はもう少し自然に、困りごとのそばへ立つようになるのだろう。




