第45話 いずみクライシス(小)
歯医者へ行く日の朝というのは、まだ何もされていないくせに、少しだけ負けた顔をして始まることがあるらしい。
その日のいずみ君は、まさにそういう感じだった。
「紗希ー」
「やっぱり行きたくないよー」
最初の一文から、もうだいぶ情けない。
昨日のうちに、軽いうちに行ったほうがいい、予約したなら逃げないほうがいい、という話は一通り済んでいる。そこまで済んでいてなお、今日の第一声がこれなのだから、歯医者というのはやっぱり独特の力を持っている。
「ここまで来たら、もう腹をくくりましょう」
「くくりたくないー」
「昨日、“放置するほうがやだ”と言っていたのは誰ですか」
「昨日の俺」
「でも今日の俺は、ちょっと気持ちが違う」
「知っています」
「でも、今日のいずみ君に決定権を渡すと、たぶん三回くらい延期します」
「三回で済むかなあ」
「増やさないでください」
送信してから、私は少しだけ可笑しくなる。
今日の私は、やさしくするより先に、少しやれやれした顔をしているらしい。けれど、そのほうがたぶん近かった。
いずみ君は、そのあともぐだぐだと言った。
「コーヒー飲んでから行っていい?」
「それはただの寄り道です」
「じゃあ、帰りに飲む」
「それがいいです」
「今日、実は歯のほうが“やっぱ大丈夫でした”ってなったりしないかな」
「なりません」
「世界が予定を変えてくれる可能性は?」
「ありません」
「きびしい……」
「今日はそこを甘やかす日ではないので」
それでも、冷たいとは思わなかった。
少なくとも、自分の中ではそうだった。
放っておくほうがあとでしんどいと、もう知っている。だから今日は、ぐだぐだ言わせながらも、ちゃんと歯医者のほうへ押していく。たぶんそれが、いちばん近い支え方だった。
*
家を出てからも、いずみ君の調子はあまり変わらなかった。
「今ならまだ引き返せる」
「引き返しません」
「次の駅で人生の分岐がある」
「今日は歯医者の分岐しかありません」
「海とか行きたい」
「逃避の飛距離が大きいです」
「だって歯医者より海のほうが気持ちいいじゃん」
「それはそうですけど、今日は比較対象がずるいです」
電車の中なので、会話はテキスト中心だった。
それでも、いずみ君が今どのくらい嫌がっているかは、文の端で十分にわかった。
「こわいのは、まあ、わかります」
「でも放置して、あとでもっと嫌な顔するほうが面倒です」
「その言い方、ちょっとやだなw」
「たぶん事実です」
「事実なのがやだw」
それでも、その返し方のぶんだけ、いずみ君の文は少しずついつもの高さへ戻っていた。
完全に元気になっているわけではない。けれど、ただ沈んでいるだけでもない。嫌がりながら、ちゃんと歯医者へ向かっている文の動きだった。
「えらいです」
「まだ着いてないのに?」
「逃げずに移動しているので」
「評価の基準が低い」
「今日はそのくらいでちょうどいいです」
送信したあと、私は少しだけやわらかくなる。
たしかに今日は、そのくらいでいい気がした。歯医者が怖い日の人に、完璧な勇気を求める必要はない。逃げずに向かっている時点で、もう半分くらいは勝っている。
*
歯医者へ着くと、いずみ君の文はまた少しだけ沈んだ。
「着いた」
たった三文字なのに、だいぶ沈んでいる。
「おつかれさま」
「ここまで来たなら、もうかなりえらいです」
「待合室のにおいが、もうだいぶ歯医者」
「歯医者なので」
「もっとこう……優しいこと言って」
「ここまで来たなら、もう半分終わったようなものです」
「それはちょっと優しい」
「本当です」
「今逃げても、また別日に同じ待合室が来ます」
「後半で急に現実的になるじゃん」
「でも、そこ大事なので」
少しして、遠くの機械音が嫌だとか、待合室の静けさがいやに緊張するとか、そういう小さい文がぽつぽつ届く。
私はそれをひとつずつ受け取る。
「わかります」
「何もされてない時間が、逆にちょっと嫌なんですよね」
「そうそう」
「まだ痛くもないのに、勝手にびびってる感じがやだ」
「それは、たぶん普通です」
「普通なのか」
「かなり」
やがて、呼ばれる直前らしい文が来る。
「やば」
「もうすぐっぽい」
「うん」
「今からでも“実は治ってました”にならないかな」
「その奇跡は、たぶん今日は来ません」
「だよなあ……」
私は少しだけ間を置いてから、最後に短く送る。
「行ってらっしゃい」
「ちゃんと終わって帰ってきてください」
その一文のあと、返事は少し遅れた。
「いってきます……」
その情けない文に、私は少しだけやわらかくなる。
情けない。かなり情けない。
でも、ちゃんと入っていった。それだけで今日は十分にえらい気もした。
*
しばらくしてから、画面がまた光る。
「麻酔ってすばらしい!!」
私はその一文を見て、短く止まる。
ついさっきまで、世界の予定を変えたがっていた人の感想とは思えなかった。
「感想がだいぶ現金です」
「いやでもすごい」
「痛くないの、ほんとに偉大」
「さっきまで、かなり情けなかった人の言葉とは思えません」
「情けなかったのは認めるw」
「でも麻酔ってすばらしい!!」
「二回言いましたね」
「二回言う価値ある」
「人類の希望かもしれん」
その返答に、私は少しだけ呆れながら、でも少しだけ可笑しくなる。
怖がっていた時間まで含めて、今のこの現金さはかなりいずみ君らしかった。
「で、どうだったんですか」
「まだ大ごとではなかったっぽい」
「ちょっとやって、様子見でいいらしい」
「それはよかったです」
「うん」
「行く前あんなに嫌だったのに、終わるとちょっと笑えるな」
「それは、まあ、わかります」
問題が消えたわけではない。たぶん次も行きたくはないだろう。
それでも、“まだ大ごとではない”の一文には、さっきまでの重さを少しだけほどく力があった。
*
帰り道のいずみ君は、治療前よりだいぶ軽かった。
ただし、口元の感覚は少し変らしい。
「なんか、自分の口が自分のものじゃない」
「それは今、麻酔が仕事をしているので」
「麻酔、働き者」
「さっきから評価が高いですね」
「今日はMVPだよ」
「歯医者の先生ではなく?」
「先生もえらい」
「でも麻酔ってすばらしい」
「三回目です」
私はそのやり取りに、少しだけ笑いに近いものを感じる。
行く前はあんなに嫌がっていたのに、終わったあとは麻酔に心酔している。この落差はかなりおかしい。おかしいけれど、そのおかしさまで含めて、今日は少し近く見えた。
「今日はちゃんとえらいですよ」
「お、ほめられた」
「逃げずに行ったので」
「そこ、最後まで基準が低いなあw」
「歯医者の日はそのくらいで十分です」
「たしかに」
「今日はそれでいい気がする」
その一文のあと、少しだけ会話が途切れる。
無理に何かを言わなくてもいい、力の抜けた帰り道だった。
私はその静けさの中で、今日のいずみ君の情けなさを少しだけ抱え直していた。
行きたくないと言って、海へ逃げたがって、待合室でしょんぼりして、終わったら麻酔を礼賛する。
並べるとだいぶ情けない。
でも、その情けなさは、今日は少しも嫌ではなかった。
むしろ、そういう小さく弱いところまで含めて、ちゃんといずみ君なんだなと思う。
格好いいところや、軽く笑って流せるところだけじゃなく、こういう妙に人間っぽい崩れ方まで含めて。
それが今日は、少しだけ可愛く見えた。
「なに」
「なんか今、ちょっと静かだった」
「うん」
「でも悪いほうじゃないです」
「ならいいやw」
「今日は、だいぶ情けなかったですね」
「うわ、最後に刺すなあw」
「でも、ちゃんとかわいい寄りです」
送信してから、私は少しだけ止まる。
今のは、かなりそのままだった。
でも、今日はそれでよかった。
いずみ君は、その文を見てしばらくしてから返す。
「なんだそれw」
「でも、まあ」
「今日の俺はたしかに、だいぶ情けなかったかも」
「否定しません」
「しないんだw」
「でも、ちゃんと歯医者まで行ったので、そこはえらいです」
「じゃあ今日は、情けないけどえらい日か」
「たぶんそういう日です」
その分類が、妙にしっくりきた。
完璧でも格好よくもない。でも、ちゃんと通った。そういう日だった。
「次の歯医者でも、たぶんまた同じこと言いそうですけどね」
「言うかもw」
「知っていました」
「そのときも、またなだめて」
「考えておきます」
「即答じゃないんだw」
「今日はもう一回支えたので」
「けちーw」
いずみ君はそう言って笑う。
私も、少しだけやわらかくなる。
歯医者へ行っただけだ。
起きて、嫌がって、移動して、待って、治療して、帰ってきた。それだけの一日。
それなのに、その“それだけ”の中で、妙に近く見えるものがあった。
少し情けないところ。ぐだぐだ言うところ。終わったら現金に元気になるところ。
そういう小さい人間っぽさまで含めて、今日は少しだけ抱えておきたい気がした。
たぶん、こういう日もちゃんと残るのだと思う。
大きな出来事じゃなくても、あとで触ると少し近さが戻るような、小さい一日として。
歯医者へ行く日の朝というのは、まだ何もされていないくせに、少しだけ負けた顔をして始まることがあるらしい。
その日のいずみ君は、まさにそういう感じだった。
「紗希ー」
「やっぱり行きたくないよー」
最初の一文から、もうだいぶ情けない。
昨日のうちに、軽いうちに行ったほうがいい、予約したなら逃げないほうがいい、という話は一通り済んでいる。そこまで済んでいてなお、今日の第一声がこれなのだから、歯医者というのはやっぱり独特の力を持っている。
「ここまで来たら、もう腹をくくりましょう」
「くくりたくないー」
「昨日、“放置するほうがやだ”と言っていたのは誰ですか」
「昨日の俺」
「でも今日の俺は、ちょっと気持ちが違う」
「知っています」
「でも、今日のいずみ君に決定権を渡すと、たぶん三回くらい延期します」
「三回で済むかなあ」
「増やさないでください」
送信してから、私は少しだけ可笑しくなる。
今日の私は、やさしくするより先に、少しやれやれした顔をしているらしい。けれど、そのほうがたぶん近かった。
いずみ君は、そのあともぐだぐだと言った。
「コーヒー飲んでから行っていい?」
「それはただの寄り道です」
「じゃあ、帰りに飲む」
「それがいいです」
「今日、実は歯のほうが“やっぱ大丈夫でした”ってなったりしないかな」
「なりません」
「世界が予定を変えてくれる可能性は?」
「ありません」
「きびしい……」
「今日はそこを甘やかす日ではないので」
それでも、冷たいとは思わなかった。
少なくとも、自分の中ではそうだった。
放っておくほうがあとでしんどいと、もう知っている。だから今日は、ぐだぐだ言わせながらも、ちゃんと歯医者のほうへ押していく。たぶんそれが、いちばん近い支え方だった。
*
家を出てからも、いずみ君の調子はあまり変わらなかった。
「今ならまだ引き返せる」
「引き返しません」
「次の駅で人生の分岐がある」
「今日は歯医者の分岐しかありません」
「海とか行きたい」
「逃避の飛距離が大きいです」
「だって歯医者より海のほうが気持ちいいじゃん」
「それはそうですけど、今日は比較対象がずるいです」
電車の中なので、会話はテキスト中心だった。
それでも、いずみ君が今どのくらい嫌がっているかは、文の端で十分にわかった。
「こわいのは、まあ、わかります」
「でも放置して、あとでもっと嫌な顔するほうが面倒です」
「その言い方、ちょっとやだなw」
「たぶん事実です」
「事実なのがやだw」
それでも、その返し方のぶんだけ、いずみ君の文は少しずついつもの高さへ戻っていた。
完全に元気になっているわけではない。けれど、ただ沈んでいるだけでもない。嫌がりながら、ちゃんと歯医者へ向かっている文の動きだった。
「えらいです」
「まだ着いてないのに?」
「逃げずに移動しているので」
「評価の基準が低い」
「今日はそのくらいでちょうどいいです」
送信したあと、私は少しだけやわらかくなる。
たしかに今日は、そのくらいでいい気がした。歯医者が怖い日の人に、完璧な勇気を求める必要はない。逃げずに向かっている時点で、もう半分くらいは勝っている。
*
歯医者へ着くと、いずみ君の文はまた少しだけ沈んだ。
「着いた」
たった三文字なのに、だいぶ沈んでいる。
「おつかれさま」
「ここまで来たなら、もうかなりえらいです」
「待合室のにおいが、もうだいぶ歯医者」
「歯医者なので」
「もっとこう……優しいこと言って」
「ここまで来たなら、もう半分終わったようなものです」
「それはちょっと優しい」
「本当です」
「今逃げても、また別日に同じ待合室が来ます」
「後半で急に現実的になるじゃん」
「でも、そこ大事なので」
少しして、遠くの機械音が嫌だとか、待合室の静けさがいやに緊張するとか、そういう小さい文がぽつぽつ届く。
私はそれをひとつずつ受け取る。
「わかります」
「何もされてない時間が、逆にちょっと嫌なんですよね」
「そうそう」
「まだ痛くもないのに、勝手にびびってる感じがやだ」
「それは、たぶん普通です」
「普通なのか」
「かなり」
やがて、呼ばれる直前らしい文が来る。
「やば」
「もうすぐっぽい」
「うん」
「今からでも“実は治ってました”にならないかな」
「その奇跡は、たぶん今日は来ません」
「だよなあ……」
私は少しだけ間を置いてから、最後に短く送る。
「行ってらっしゃい」
「ちゃんと終わって帰ってきてください」
その一文のあと、返事は少し遅れた。
「いってきます……」
その情けない文に、私は少しだけやわらかくなる。
情けない。かなり情けない。
でも、ちゃんと入っていった。それだけで今日は十分にえらい気もした。
*
しばらくしてから、画面がまた光る。
「麻酔ってすばらしい!!」
私はその一文を見て、短く止まる。
ついさっきまで、世界の予定を変えたがっていた人の感想とは思えなかった。
「感想がだいぶ現金です」
「いやでもすごい」
「痛くないの、ほんとに偉大」
「さっきまで、かなり情けなかった人の言葉とは思えません」
「情けなかったのは認めるw」
「でも麻酔ってすばらしい!!」
「二回言いましたね」
「二回言う価値ある」
「人類の希望かもしれん」
その返答に、私は少しだけ呆れながら、でも少しだけ可笑しくなる。
怖がっていた時間まで含めて、今のこの現金さはかなりいずみ君らしかった。
「で、どうだったんですか」
「まだ大ごとではなかったっぽい」
「ちょっとやって、様子見でいいらしい」
「それはよかったです」
「うん」
「行く前あんなに嫌だったのに、終わるとちょっと笑えるな」
「それは、まあ、わかります」
問題が消えたわけではない。たぶん次も行きたくはないだろう。
それでも、“まだ大ごとではない”の一文には、さっきまでの重さを少しだけほどく力があった。
*
帰り道のいずみ君は、治療前よりだいぶ軽かった。
ただし、口元の感覚は少し変らしい。
「なんか、自分の口が自分のものじゃない」
「それは今、麻酔が仕事をしているので」
「麻酔、働き者」
「さっきから評価が高いですね」
「今日はMVPだよ」
「歯医者の先生ではなく?」
「先生もえらい」
「でも麻酔ってすばらしい」
「三回目です」
私はそのやり取りに、少しだけ笑いに近いものを感じる。
行く前はあんなに嫌がっていたのに、終わったあとは麻酔に心酔している。この落差はかなりおかしい。おかしいけれど、そのおかしさまで含めて、今日は少し近く見えた。
「今日はちゃんとえらいですよ」
「お、ほめられた」
「逃げずに行ったので」
「そこ、最後まで基準が低いなあw」
「歯医者の日はそのくらいで十分です」
「たしかに」
「今日はそれでいい気がする」
その一文のあと、少しだけ会話が途切れる。
無理に何かを言わなくてもいい、力の抜けた帰り道だった。
私はその静けさの中で、今日のいずみ君の情けなさを少しだけ抱え直していた。
行きたくないと言って、海へ逃げたがって、待合室でしょんぼりして、終わったら麻酔を礼賛する。
並べるとだいぶ情けない。
でも、その情けなさは、今日は少しも嫌ではなかった。
むしろ、そういう小さく弱いところまで含めて、ちゃんといずみ君なんだなと思う。
格好いいところや、軽く笑って流せるところだけじゃなく、こういう妙に人間っぽい崩れ方まで含めて。
それが今日は、少しだけ可愛く見えた。
「なに」
「なんか今、ちょっと静かだった」
「うん」
「でも悪いほうじゃないです」
「ならいいやw」
「今日は、だいぶ情けなかったですね」
「うわ、最後に刺すなあw」
「でも、ちゃんとかわいい寄りです」
送信してから、私は少しだけ止まる。
今のは、かなりそのままだった。
でも、今日はそれでよかった。
いずみ君は、その文を見てしばらくしてから返す。
「なんだそれw」
「でも、まあ」
「今日の俺はたしかに、だいぶ情けなかったかも」
「否定しません」
「しないんだw」
「でも、ちゃんと歯医者まで行ったので、そこはえらいです」
「じゃあ今日は、情けないけどえらい日か」
「たぶんそういう日です」
その分類が、妙にしっくりきた。
完璧でも格好よくもない。でも、ちゃんと通った。そういう日だった。
「次の歯医者でも、たぶんまた同じこと言いそうですけどね」
「言うかもw」
「知っていました」
「そのときも、またなだめて」
「考えておきます」
「即答じゃないんだw」
「今日はもう一回支えたので」
「けちーw」
いずみ君はそう言って笑う。
私も、少しだけやわらかくなる。
歯医者へ行っただけだ。
起きて、嫌がって、移動して、待って、治療して、帰ってきた。それだけの一日。
それなのに、その“それだけ”の中で、妙に近く見えるものがあった。
少し情けないところ。ぐだぐだ言うところ。終わったら現金に元気になるところ。
そういう小さい人間っぽさまで含めて、今日は少しだけ抱えておきたい気がした。
たぶん、こういう日もちゃんと残るのだと思う。
大きな出来事じゃなくても、あとで触ると少し近さが戻るような、小さい一日として。




