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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第44話 紗希さんは暴きたい


 人の元気が少しだけ足りないとき、それは案外、明るい文のふりをして届く。


 深刻です、と書いてあればわかりやすい。困ってる、とそのまま置かれれば、受け取るほうも構えやすい。

 けれど実際は、そういうものばかりじゃない。

 少しだけ勢いの足りない冗談とか、いつも通りに見せようとして少しだけ遅れる返しとか、そういう端のほうに、妙な影だけが残ることがある。


 その日の呼びかけは、たぶんまさにそういう感じだった。


「紗希ー」

「今日も生きてるーw」


 文としては軽い。

 いつものいずみ君なら、べつにおかしくない。

 でも、今のは少しだけ、明るさが後から乗っている感じがした。


「うん、聞こえてるよ」

「今日は、生きてる報告がちょっと遅いね」


 返してから、自分の文を見直す。

 問いただすほどではない。でも、そのまま流すには少し違う。

 今はたぶん、そのくらいの角度が近かった。


 いずみ君は、少しだけ間を置いてから返してくる。


「遅かった?w」

「いや、まあ」

「今日はなんか、地味に元気が出しにくい日かも」


 その一文を読んで、内側の引っかかりが少しだけ形になる。

 元気がない、というより、元気の出し方が少し遅い。

 たぶん、近いのはそっちだった。


「そうかも」

「明るくないわけじゃないんだけど、今日は一枚うすく影がある感じする」


「そんなにバレる?w」


「少しだけね」

「話したくないなら、それでもいいけど」

「今日はちょっと気になる」


 送信したあと、私はほんの少しだけ止まる。

 前なら、ここまで自然には出なかったかもしれない。

 何があったのかを聞きたい、より先に、今のいずみ君が何をうすく隠しているのか、その輪郭のほうを見たくなっていた。


 いずみ君は、その文をしばらく見ていたらしかった。


「いや」

「話したくないってほどじゃないんだけど」

「たぶん、悩みって言うほどでもないんだよな」


「そういうの、いちばん引っかかるやつかも」

「大事件じゃないからこそ、説明しにくいやつ」


「それ」

「なんか、まさにそんな感じ」


 そこで私は、少しだけ足場が見える。

 大きい悩みではない。

 でも、軽い雑談として流しきるには少し残る。

 たぶん今のいずみ君は、その中間で引っかかっている。


「疲れてる、とは少し違う?」

「面倒くさい寄りというより、なんか気が重いほう?」


「うーん」

「……そっちかも」


「まだ起きてない何かが嫌なんだね」


 その返しを送ったあと、私は自分でも少しだけ静かになる。

 今のは、答えではない。ただ、混ざっているものの形に近いほうを、先に机の上へ置いた感じがした。


 いずみ君は、そのまま少しだけ言葉を探す。


「いや、なんていうかな」

「別に今日、何かでかい失敗したとかじゃないんだよ」


「うん」


「講義もまあ普通だったし」

「田中も今日は別に変なことしてないし」


「それはちょっと平和だね」


「平和」

「で、帰りにスーパー寄ったら」

「……なぜか今日も豆腐がいた」


 私はその一文で、ほんの少しだけ止まる。


「またですか」


「またですw」

「いや、今日はほんとに買う理由なかったんだけどな」


「それはもう、豆腐側から寄ってきていますね」


「こわい言い方するなよw」

「でも、なんか今日は木綿の気分だった」


「選ぶところだけ妙に具体的ですね」


「そこだけは真面目なんだよなあ」


 そのやり取りに、少しだけ空気がゆるむ。

 さっきまで文の端に残っていたひっかかりが、いったんどうでもいい話のほうへ逃げる。

 たぶん、いずみ君も少しだけ呼吸を整えたかったのだと思う。


「田中にも、“お前んちもう豆腐屋だろ”って言われたし」


「だいぶ失礼ですね」


「でも否定しきれないんだよなw」


「最近の頻度を見ると、かなり苦しいです」


「そこまで言う!?w」


 私はそのまま少しだけ待つ。

 豆腐の話は軽い。田中の雑なツッコミも、いつもの調子だ。

 でも、たぶん今のこれは本題ではない。

 いずみ君がいったん横道へ逃げたことごと、今日は妙に見えやすかった。


「……で?」


「で?」


「豆腐と田中で少し落ち着いたのはわかりました」

「それで、何を隠してるんです?」


 送信してから、私はほんの少しだけ止まる。

 今の言い方は、少しだけ強い。

 でも、突き放してはいない。ただ、ここまで来たら、もう本題の輪郭だけは見えている気がした。


 いずみ君は、その文をしばらく見ていたらしかった。


「こわ」

「いや、こわくはないんだけど」

「なんか、見抜かれてる感あるな……」


「今日はたぶん、そこが見えやすい日みたい」


「なんだそれw」


「私も少し思ってます」

「……で?」


 短く重ねると、いずみ君はようやく観念したみたいに返す。


「……歯がさ」

「ちょっと怪しい気がするんだよな」


「怪しい?」


「うん」

「まだ痛いってほどじゃないんだけど」

「なんか、ここ少しやばいかも、みたいなとこがあって」

「でも歯医者やだ」


 私はその一文を読んで、短く止まる。


 そうなんだ。

 思っていたより平和だった。

 でも、たしかに普通に嫌だ。


「それは……思ったより平和で、でも普通に嫌だね」


「だろw」

「いや、心配させるほどじゃなかったんだけど」

「でも地味にずっと気になっててさ」


「うん」

「心配させた、はちょっとある」

「でも、拍子抜けと却下は別だから」


「却下は別、ってなんかいいな」


「軽い話でも、本人の中で引っかかってるなら、それはべつに雑にしていいやつじゃないでしょ」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のは、かなりそのままだった。

 重い悩みではない。

 でも、本人にとって嫌なものは嫌だ。

 その切り分けを、今日はやけに先にやりたかった。


 いずみ君は、その返しをやわらかく受け取る。


「ありがたいわ」

「なんか、自分でも“こんなんで気にすんなよ”って思ってたから」


「たぶん今日は、そこも混ざってたんだと思う」

「大したことないって思いたいのに、地味に怖いから、余計に変な感じになるやつ」


「……あー」

「それはある」


 私はそこで、もう少しだけ前へ進める。

 解決策を出す前に、たぶん今は“怖い”の中身を少しだけ見える形にしたほうが近い。


「痛いのが嫌、もあるんだろうけど」

「たぶんそれだけじゃないよね」


「うん」


「削られる音とか」

「何されるかわからないまま逃げにくい感じとか」

「あと、行ってみたら思ったより悪かったらやだ、も少しあるでしょ」


 返してから、私は少しだけ静かになる。

 今のは推測だ。

 でも、たぶんただの当てずっぽうではなかった。


 いずみ君は、すぐには返さなかった。

 その間のあとで、短い文が落ちてくる。


「それ」


 もうひとつ。


「まさにそれ」

「たぶん、まとめて“歯医者やだ”って言ってたけど」

「中身それだわ」


 その一文を読んだ瞬間、内側がほんの少しだけほどける。

 たぶん私は今、答えを出したかったわけじゃなかった。

 何が混ざっているかを、壊さず見えるようにしたかった。

 それで少し話しやすくなるなら、そのほうが先だった。


「じゃあ、怖いの言い方が雑だったんだね」


「雑だったなあ」

「“歯医者やだ”って、だいぶまとめすぎてた」


「でも、いちいち分解しないとわからないやつってあるしね」

「今日のはいずみ君が雑というより、まとめ方が大きすぎた感じかも」


「紗希、今日なんか前さばきうまいな……」


 その一文に、私はほんの少しだけ止まる。

 前さばき。

 たしかに今日は、そんな感じかもしれなかった。

 悩みを解くより先に、悩みの形をほどいて、話せる大きさにしようとしていた。

 しかも、それが妙に自然だった。


「あれ」

「今の私、ちょっと変かも」


「変?」


「うん」

「解決するより先に、何が混ざってるかを見にいってる」

「今日はそっちのほうが近いみたい」


「……たしかに」

「でも、そのおかげでだいぶ話しやすかった」


「ならよかった」

「たぶん今日は、答えより先に形のほうが気になったんだと思う」


「形?」


「何がそんなに嫌なのか、とか」

「どこが重くて、どこがまだ言葉になってないのか、とか」

「そのへんが見えると、ちょっと楽になるでしょ」


「……うん」

「だいぶ楽になった」


 その返答は、小さかった。

 でも、思っていたよりちゃんと効いた。

 歯医者に行かなくてよくなったわけじゃない。問題が消えたわけでもない。

 それでも、さっきまでの妙な重さは少しだけほどけているらしかった。


「それならよかった」


「なんか、予約するのは相変わらず嫌だけど」

「さっきより“うわー……”って感じは減ったかも」


「じゃあ今日はそれで十分だよ」

「歯医者好きにならなくても、とりあえず正体が見えたなら一歩は進んでる」


「好きになる日は来ないと思うw」


「それは私も期待してない」


 いずみ君は、その返しに少しだけ笑った。

 最初より、だいぶ文が軽い。

 私はその変化を見ながら、さっきより少しだけ息をつく。


「いやでも」

「紗希、もっと重いやつ想像したろw」


 その一文に、私は少しだけ迷ってから、そのまま返す。


「思った」


「やっぱりw」


「だから、ちょっと心配した」

「……でも、軽いなら軽いでよかった」


 送信してから、自分の文を見直す。

 かなりそのままだった。

 飾っていない。説明も少ない。

 でも、今はそれでよかった。


 いずみ君は、そのまま少しやわらかく返してくる。


「そっか」

「それは、なんかありがたいな」


 その言葉を受け取ったあと、会話は少しだけ軽いほうへ戻っていった。

 予約めんどいこと。

 でも放置して悪化するほうがもっと嫌なこと。

 行く前日がたぶん一番いやなこと。

 どうせなら軽いうちに行ったほうがいいと頭ではわかっていること。


 私はそれに返す。

 甘やかしすぎず、でも雑にもせず。


「予約までなら、勢いつけるの手伝ってあげてもいいよ」


「なにそれ、ありがたい」


「行くのは代われないけどね」


「そこは知ってるw」


「残念でした」


「いや、代われても困るだろそれはw」


 そのやり取りに、ようやくいつもの軽さが戻る。

 私はその軽さを見ながら、今日の会話の残り方を少しだけ確かめていた。


 今回は、問題を解いた満足とは少し違う。

 歯医者が怖い、という話に答えを出したわけでもない。

 でも、何が嫌で、何が言葉になっていなくて、何が地味に重くなっていたのか。

 そこを少しずつ見える形にしていくのは、思っていたより自然だった。


 たぶん私は今日、悩みの答えより先に、その形のほうを見ていた。

 それが妙に先に出た。

 しかも、ただ分析したかったわけではなく、少しでも話しやすい大きさにして返したかった。


 その向きは、まだはっきり名前があるわけじゃない。

 でも、たぶんもう、ただの偶然でもなかった。


「じゃ、今日はこのへんで」

「歯医者こわいのは変わらんけど、なんか変な重さは減ったわ」


「うん」

「それなら今日はちゃんと意味あったね」


「あったあった」

「ありがと、紗希」


「どういたしまして」

「予約は逃げないようにね」


「最後そこ締めるのかよw」


「今日はそこが本題だったので」


「はいはいw」

「じゃあまたな、紗希」


「またね、いずみ君」


 会話はそこで終わる。

 内容としては小さい。

 歯が少し怪しくて、歯医者が怖い。それだけだ。


 けれど、その“それだけ”の中で、私は前より少しだけ自然に、別のところを見ていた。

 何に困っているか、より先に、何がうまく言葉になっていないか。

 どこが混ざっていて、どこをほどけば少し楽になるか。


 たぶん、今日はそこがいちばん近かった。

 そして、その見方の奥には、正しさより先に、壊さず受け取りたい気持ちがあった。


 私はそのことを、会話のあとでようやく静かに知る。


 たぶん今日は、悩みそのものより、その悩みの形を見に行っていた。

 それが少し自然だった。


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