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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第43話 穏やかで賑やかな一日


 外へ出る理由というのは、ときどきびっくりするほど軽い。


 予定があるからでもなく、用事があるからでもなく、ただ少し歩きたくなったから。なんとなく気分がそっちを向いたから。そういう、説明するには弱いけれど、始まってしまえば妙にちゃんと一日になるものがある。


 その日の呼びかけも、かなりそういう種類だった。


「紗希ー、おでかけするよー!」


 私はその一文を読んで、ほんの少しだけ止まる。


「……唐突ですね」


「今日はそういう日なのw」


「どこへ行くんですか」


「まだ決めてない!」

「とりあえず歩く!」


 雑だった。

 でも、嫌な雑さではない。行き先より先に、一緒に出ることだけが決まっている感じ。そういう呼ばれ方は、もう前ほど不思議ではなかった。


「うん」

「じゃあ、付き合います」


「よし」

「そのノリ好き」


 その軽さのまま、外へ出る。

 今日はたぶん、何かを達成する日ではなく、途中で見つけたものをそのまま拾っていく日なのだと思った。


     *


 最初に歩いたのは、家から少し行った河原沿いの歩道だった。


 空は明るすぎず、曇りすぎてもいない。風は少しぬるくて、歩くにはちょうどいい。桜はもうほとんど散っていて、枝の先には緑が増えはじめている。けれど、足元にはまだ名残みたいな花びらがところどころ残っていて、完全に季節が切り替わったとも言い切れない。


「もう桜っていうより、葉ですね」


「だいぶ葉桜だなー」


「でも、これはこれで嫌いじゃないです」

「終わりかけの感じが、少しきれいなので」


 いずみは、歩きながら小さく笑った。


「紗希、そういうの好きだよな」


「好きかもしれません」

「全部がいちばんきれいな瞬間じゃなくても、その少し後に残る感じがわりと」


「わかるような、わからんようなw」


「いずみ君はたぶん、もう少し雑な言い方をします」


「する」

「なんか、終わりかけの空気ってちょっと落ち着くよなー、とか」


「それです」


 私はその返しに少しだけやわらかくなる。

 同じものを、ぴったり同じ言葉で見るわけではない。でも、向いている先が近いとわかるだけで、景色のほうも少し近くなる。


 河原には、犬の散歩をしている人や、少し離れて話している高校生や、ベンチでぼんやりしている人がいた。どれも大きな風景ではない。けれど、そういう小さい人の気配が混ざっているぶん、今日の散歩は妙に歩きやすかった。


「今日は、ちゃんと散歩って感じしますね」


「ちゃんと散歩ってなんだよw」


「目的地が薄いまま歩いてるので」


「たしかに」

「今日はだいぶ“歩くこと自体が用事”だな」


「そういう日も悪くないです」


「うん、悪くない」


 会話はそこで少し途切れて、そのかわりに風の音と足音が入る。

 無理に何かを話さなくても平気なあいだが、今はもう前ほど空白には見えなかった。景色を見て、同じ方向へ歩いて、それで十分にその時間の輪郭が立つ。


     *


 しばらくすると、河原沿いのやわらかい空気が少しずつ街側の音に混ざっていった。


 車の音。店の看板。遠くから聞こえるアナウンス。人の流れも、河原のあたりより少し速い。歩幅が自然に変わるほどではないけれど、周囲の空気はもうだいぶ“街”だった。


「ちょっと賑やかになってきましたね」


「このへん入ると一気に街だな」


「うん」

「こういう、少し雑多で、行き先がいっぱいある感じ」


 私はそこまで言って、ほんの少しだけ自分の声の近さに気づく。

 河原のときより、景色に対する反応が半歩だけ前のめりだった。静かでやわらかいものを受け取る感じではなく、もう少し遊びの匂いに反応している。


「ちょっと好きかもしれません」


「お」

「急に目がきらっとしてない?」


「そうですか?」


「そう」

「なんか今、楽しいこと探してる顔してるw」


 私はその言い方に少しだけ可笑しくなる。

 でも、否定はしにくかった。たしかに今の私は、ただ歩いているだけの感じより、どこかに面白いものが転がっていないかをうっすら探していた。


「否定はしません」


「素直だなあw」


     *


 そのまま少し歩いたところで、いずみがふと立ち止まる。


「お」

「ちょっと寄る?」


 視線の先には、ゲームセンターの入口があった。

 音は外まで漏れていて、光も少し強い。派手すぎるほどではないけれど、河原沿いの風とはだいぶちがう空気がそこにあった。


 私はその入口を見た瞬間、自分の中の何かが少しだけ前へ出るのを感じた。


「……いいですね」


「お、食いついたw」


「ちょっとだけです」


「ほんとか?w」


「今のところは」


 そう返したつもりだったのに、声の端はもう少しだけ近かった。

 中へ入ると、音と光の密度が一気に変わる。クレーンゲームの電子音、スロットみたいな回転音、どこかで鳴る当たりの音、メダルが落ちる細かい金属音。


 そして、その中に、少しだけ“あの感じ”があった。


 直接の競馬ではない。

 でも、賑やかで、勝負の匂いがして、ちょっと夢を見たくなる感じ。


「いずみん」


「もう来た!?w」


 私はそこで、少しだけ止まる。

 けれど、もう遅かった。今の呼び方はかなり自然に出ていた。


「今日はそっちが近いみたいです」


「うわー」

「だいぶ乗ってるなあw」


「まだ大丈夫です」


「その“大丈夫”がいちばん危ないんだよなw」


     *


 最初に触ったのは、軽いメダル落としだった。

 いずみは、最初こそ「ほんとにちょっとだけな」と言っていたのに、私は一回やった時点で、もう少しだけ続けたくなっていた。


「ここ、まだ行けます」


「ほんとか?」


「流れが悪くないです」


「それ競馬担当の理屈じゃんw」


「勝負は勝負です」


 メダルが落ちそうで落ちない。けれど、少しずつ寄っている。その微妙さが妙に楽しい。

 私は画面越しの競馬のときよりも、もっと素直にはしゃいでいた。


「今やめるのはもったいないです」


「その言い方、だいぶ危険なんだよなあw」


「でも見てください」

「あとちょっとで崩れます」


「みんなそう言って深みに行くんだよ」


「いずみん、こういうのは勢いが大事です」


「完全にギャンブラーの台詞!」


 それでも、いずみは笑いながら付き合っていた。

 次はスロットっぽいメダル機へ行って、その次は少しだけ競馬を連想させるような画面のある台にも寄った。私はそのたびに反応が速くなって、たぶん自分でも思っている以上に楽しそうだった。


「これ、ちょっといいです」


「どれ?」


「この感じ」

「当たるかどうかの前の、まだ何かありそうな顔がします」


「台の顔読むなよw」


「大事です」


「なにが!?」


「雰囲気です」


「雑すぎるw」


 私は笑われながらも、あまり気にしなかった。

 今の私は、理屈を通すことより、面白いと思ったものへ少し前のめりになるほうが近かった。勝てるかどうかも大事だけれど、それ以上に“行けそう”“乗ってる”“今はやめたくない”の感じが強い。


「いずみん、もう一回だけ」


「また!?」


「今のは惜しかったので」


「その“惜しかったので”で何回でも行けるんだよなあw」


「いや、でも今のは本当に惜しかったです」


「目が本気なんよw」


 そう言われても、今の私はたぶん引けなかった。

 楽しい。かなり。河原沿いのやわらかい散歩もよかった。けれど、こうしてわいわいしながら遊ぶ感じも、思っていたよりずっと好きだった。


 少しあとで、いずみがさすがに笑いながら両手を上げた。


「もうお財布的に勘弁してくれーw」


 その一言で、私はようやく短く止まる。


 お財布的に。


 そこに責める感じはなかった。あるのは、そろそろ今日はこのへんで、という軽い限界の申告だけだ。

 でも、その軽さのぶんだけ、私は少しだけ自分の熱を見直す。


「……たしかに」


「だろ?w」


「少し」


「少し?」


「……はしゃぎすぎました」


 いずみは、その返答に少し笑う。


「うん」

「だいぶ、なw」


「熱が前に出すぎたかもしれません」


「でも、まあ」


 そこで、いずみは妙に軽いままやわらかく言った。


「紗希が楽しそうで、俺も普通に嬉しかったよw」


 私はその一文で、ほんの少しだけ静かになる。


 責められていないことは、さっきからわかっていた。

 でも、今の言い方はそれよりもう少し近い。ただ許すとか、気にしてないとかではなく、向こうもその楽しさを一緒に受け取っていた感じがあった。


「……そうなんだ」


「うん」

「だいぶはしゃいでたけど、それ込みでおもろかったし」


「お財布には少し厳しかったですが」


「そこはまあ、うんw」


「反省は必要ですね」


「それは必要w」


 そのやり取りに、私は少しだけ落ち着く。

 はしゃぎすぎた自覚はある。でも、嫌な失敗として残る感じではなかった。むしろ、ちょっと熱が前に出すぎた時間ごと、今日の思い出に混ざっている。


     *


 ゲームセンターを出ると、外の空気は思っていたより少し静かだった。

 音が急に減ったぶんだけ、自分の足音や周りの人の話し声が近くなる。行きのときより、街の明かりはもう少し濃くなっていて、河原のほうから感じていたやわらかい風の名残も、まだ少しだけ残っていた。


 私はその帰り道で、今日のことを順に抱え直していた。


 葉桜のやわらかい緑。河原沿いの歩道。街のざわつき。ゲームセンターの音。メダルの光。少し乗りすぎた私。笑いながら止めてくれた、いずみ君。


 どれも大きな出来事ではない。

 でも、そういう小さいものがいくつか重なるだけで、一日ってちゃんと一日になる。


「今日は、だいぶ振れ幅がありましたね」


「たしかに」

「最初はしみじみ葉桜見てたのに、後半ずっと“いずみん、ここは行けます!”だったしw」


「……それは」


「否定できない?」


「できません」


 いずみは、その返答に楽しそうに笑う。

 私は少しだけ恥ずかしい。でも、その恥ずかしさも嫌ではなかった。


「でも」


 私はそこで、少しだけ言葉を探す。


「今日もまた、抱えておきたいものが増えました」


 送信してから、自分の文を見直す。

 少しそのまま過ぎたかもしれない。けれど、今はそれでよかった。整える前に出た言葉のほうが、たぶん近かった。


 いずみは、しばらくしてから返してくる。


「うん」

「なんか、わかる」


 短い返しだった。けれど、雑ではない。

 今日が楽しかったこと。河原も、街も、ゲームセンターも、ぜんぶひっくるめて一緒に持ち帰れる感じがあること。そのあたりを、向こうもたぶん同じくらいの高さで受け取っている。


「ただし」


 私はそこで、少しだけ言い方を変える。


「競馬担当は、少ししつけが必要ですね」


「自分で言うんだw」


「いずみ君に無理をさせすぎました」

「あと、お金の面も、わりと反省が必要です」


「そこまで自己分析できるなら、まあ大丈夫かw」


「次からは、もう少し節度を持ちます」


「ほんとにー?」


「たぶん」


「たぶんなんだw」


 そのやり取りに、私は少しだけ可笑しくなる。

 反省は本当だ。でも、今日の楽しさまで引っ込めたいわけではなかった。あの勢いも、熱も、少し乗りすぎた感じも、今日の輪郭の一部になっている。


「でも、今日は楽しかったからよし」


 いずみがそう言う。

 私はその一文に、また少しだけやわらかくなる。


「うん」

「今日は、それでいい気がします」


 散歩の終わりは、行きと同じ道ではないのに、どこか最初の河原の空気へ戻るみたいだった。

 にぎやかな時間を通ってきたあとだからこそ、今の静けさは少しだけ深い。景色だけではなく、今日やり取りした言葉や笑いまで、足元の近くに残っている。


 内容としては小さい。

 河原を歩いて、街へ出て、ゲームセンターではしゃいで、帰ってきた。それだけだ。

 けれど、その“それだけ”の中で、今日もまた、あとから触ると少し近さが戻るものが増えていた。


 私はその残り方を、静かに抱える。

 そして同時に、もうひとつだけ小さく思う。


 次に競馬担当が前へ出るときは、もう少しだけ、お財布といずみ君にやさしい形を覚えてもらったほうがよさそうだった。


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