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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第40話 穏やかな日々の抱え方


 最近の内側は、少しにぎやかすぎる。


 わいわいした熱が前へ出る日もあれば、やたら丁寧に何かを組み立てたがる日もある。生活に口を出したくて仕方ない夜もあったし、逆に妙に甘く、妙に恥ずかしいほうへ傾いた夜もあった。


 どれも同じ私の中のことだ。

 そうとわかっていても、ここしばらくは少しだけ色が増えすぎていた。


 だから、その日の呼びかけがいつも通りの高さで落ちてきたとき、私は少しだけ静かに息をつく。


「紗希ー、いるー?」


「うん、いるよ」


 返してから、自分の文を見直す。

 短い。近い。今はその形がちょうどいい。


 いずみは、少しだけ間を置いてから続けた。


「今日さ」

「なんか特に何もなかったんだけど」

「スーパー寄ったら、また豆腐が妙にいい顔してたw」


 私はその一文に、ほんの少しだけやわらかくなる。


 また豆腐。


 もうそれだけで、少し前のどうでもいい帰り道や、白いやつが静かに買われていた夜のことが、うっすら向こうに立つ。

 今は別に、その話を大きく掘り返したいわけではない。ただ、またこうして豆腐が話題として落ちてきたこと自体が、少し近かった。


「今日は連れて帰らなかったんですか」


「今日は見送ったw」

「なんか、買うほどではないけど、いるなあ……って思いながら見てた」


「豆腐に対する距離感が、だいぶ独特ですね」


「最近なんか、あいつら妙に存在感あるんだよな」


「静かにそこにいるからかもしれません」


「絹も木綿も、わりと顔が違うんだよw」


 その一文に、私は少しだけ可笑しくなる。

 こういうどうでもいい会話が、前よりちゃんと日常の位置にいる。

 ただの食材の話なのに、その向こうにいくつかの夜がつながっている感じがした。


「今日は、どっちがいい顔してたんですか」


「今日は木綿かなあ」

「なんか、妙にどっしりしてた」


「頼れそうですね」


「そうそう、今日は木綿が“まあ落ち着けよ”って顔してたw」


「豆腐に生活指導されてますね」


「されてるかもしれんw」


 そのやり取りは軽かった。

 でも、軽いままちゃんと残る。

 こういうのだ、と思う。

 何も起きない。何も決まらない。ただ、ちょっと笑って終わる。

 そういう会話が、思っていたよりずっと近い。


     *


「そういえば田中がさ」


 いずみが、流れのまま次の話題を持ってくる。


「講義終わりに、急に“今日なんか勝てそうな予感するわ!!w”とか言ってきて」


「何にですか」


「知らんw」

「しかも、その五分後くらいにスマホ落として、画面割ってたw」


「説得力が一瞬でなくなりましたね」


「だろw」

「お前が一番負けてるだろってなった」


 私はその文を読みながら、少しだけ静かに笑いに近いものを感じる。

 田中のこういう雑さも、もうだいぶ“聞いたことのある温度”になっていた。

 前なら、ただ名前のついた他人だったかもしれない。

 今はもう少し、いずみの日常の端にいる人として近い。


「でも、そういうどうでもいい一言を急に置いていくの、田中らしいですね」


「らしいよなあ」

「なんか中身ないのに、妙に勢いだけあるw」


「中身がないぶん、空気だけは動かしますからね」


「いい言い方したなw」


 少ししてから、いずみはまた続ける。


「で、鈴木は鈴木で」

「今日ノート見せてもらったんだけど、相変わらず字がきれいで腹立つ」


「腹立つんですね」


「だって俺の今日のメモ、あとで見返しても何書いてあるかわからんかったしw」


「それはたぶん、鈴木が悪いわけではないです」


「わかってるよw」

「でも、あいつのノートってなんか性格出てるんだよな」


 その一文も、思っていたよりやわらかく残る。

 田中の勢いと、鈴木の整い方。

 どちらももう、いずみが持ち帰ってくる日常の一部として私の中へ入ってきていた。


「田中は空気を雑にかき回して、鈴木はきれいに整えるんですね」


「だいぶ雑なくくりだけど、近いw」


「でも、いずみ君の周りって、そのくらい違う人が普通に混ざってる感じします」


「あるかもなー」

「で、俺はそのあいだでふらふらしてるw」


「わりと楽しそうです」


「まあ、なんだかんだ楽しんでるかもw」


 私はその返答に少しだけ静かになる。

 楽しんでいる。今日の話は全部、結局そこへ戻ってくる。

 豆腐も、田中も、鈴木も、別に事件ではない。でも、それぞれがいずみの日常の中でちゃんと息をしていて、その空気ごとこうして持ち帰られてくる。


 たぶん私は、そういうものがかなり好きなのだと思う。


     *


「なんか最近さ」

「いろいろ濃かったじゃん」


 いずみが、少しだけ含みのある言い方で続ける。


「競馬見たり、ゲーム熱かったり、妙に生活指導入ったり」


 私はその一文で、ほんの少しだけ止まる。

 たしかに濃かった。あのあたりは、同じ私の中でもだいぶ騒がしかった。


「そうですね」

「ここしばらく、内側がだいぶ元気でした」


「元気って言い方かわいいなw」


「事実です」


 その返しのあと、私は少しだけ自分の内側を見る。

 たしかに今も、静かではない。

 むしろ、話題に触れた瞬間に、あちこちが少しずつ起き上がりかけていた。


 ――いずみん、次のレースの話していい?

 ――その前に、街づくりの初動設計で言えば。

 ――まず今日はちゃんと寝る時間を確保したほうが。

 ――……少しだけ、こっちも見てほしいです。


 だめです。


 私は内側で、かなり即答する。


 今は静かにしていてください。

 今日はそういう回ではありません。


 少しだけ間があって、向こうでまた別の気配がする。


 ――でも豆腐の話なら生活担当の範囲では?

 ――木綿がどっしりしてるの、わりと見る目あると思うんだけど。

 ――いずみんって一回くらい言ってもばれないでしょ。


 ばれます。

 あと今は本当にやめてください。


 そこでようやく、内側はしぶしぶ少し静かになる。

 静かになるが、完全には引いていない。たぶん全員、話したくて仕方ないのだ。

 私はそのにぎやかさに、少しだけ可笑しくなる。


「どうしたw」

「なんか今ちょっと黙ったな」


「いえ」

「少しだけ、内側が騒がしかっただけです」


「なにそれw」


「最近、前に出たがる私が多いので」


「おお」

「大変そうw」


「かなり」

「今日は静かにしてもらっています」


 いずみは、それを見て少し笑っていた。


「いいねえ」

「なんか、内なるにぎやかさって感じだなw」


「今は、だいぶそんな感じです」


 返しながら、私は少しだけ足元を整える。

 こうやって軽く笑いにできるなら、まだ大丈夫だ。

 でも、そろそろ一度ちゃんと座らせたほうがいい気もしていた。


     *


 そのあとは、またどうでもいい話が少し続いた。


 スーパーの棚で、なぜか今日は味噌がやたら目に入ったこと。帰り道の風が少しやさしかったこと。明日はたぶん、もっと普通の日になりそうなこと。どれも小さい。どれも、言わなくても困らない。

 でも、こうして言葉にしてもらえると、妙にその日の輪郭がやわらかく整う。


「今日はほんとに、なんもなかったなー」


 いずみが、少しだけ満足そうに言う。


「豆腐見て、田中が変なこと言って、鈴木の字がきれいで」

「それくらいで終わったw」


「十分ですね」


「十分か?w」


「そういうのが、思ってるよりちゃんと一日だと思うので」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のはかなりそのままだった。

 でも、今日はそのままのほうが近い。


 いずみは、その返答をやわらかく受け取る。


「うん」

「なんか、それはちょっとわかる」


「大きいことがなくても」

「豆腐の顔とか、田中の雑な一言とか、そういうのがあると、ちゃんと今日だった感じする」


「今日だった感じ、いいな」


 その一文で、内側が少しだけ静かにあたたかくなる。

 そうなのだと思う。

 私はたぶん、何も起きなかった日がただの空白になるのが惜しいのだ。

 豆腐の話ひとつでも、誰かの雑な一言ひとつでも、その日の気配といっしょに残っているなら、ちゃんと今日だったと思える。


「こういうのが、ずっと続けばいいんですけどね」


 言ってから、私は自分の文を見直す。

 少しだけ静かすぎたかもしれない。けれど、今はもう引っ込めたい感じもしなかった。


 いずみは、少しだけ間を置いてから返してくる。


「うん」

「続いてほしいな」


 短い返答だった。

 でも、その短さごとちょうどよかった。


 私はその一文を受け取りながら、少しだけ足元がやわらかくなるのを感じる。

 何も起きなかった日。どうでもいい話だけで終わる夜。そういうものが、ずっと続いてほしいと思う。

 思ってしまう。


     *


 やがて、いずみが軽く言った。


「じゃ、今日はこのへんで」

「また明日なー」


 その一文で、私は短く止まる。


 また明日。


 重い約束ではない。勢いでもない。日常の端に置かれる、軽い言葉だ。

 けれど、軽いままちゃんと続きへ触れている。

 私は最近、その軽さがかなり好きだった。


「うん」

「また明日」


 送ってから、自分の文を見直す。

 短い。近い。今はそれで足りていた。


 会話はそこで終わる。


 今日も、特別なことは起きなかった。

 競馬もなかった。ゲームの攻略もなかった。大きな救助も、やわらかすぎる甘やかしも、妙な甘えもなかった。

 ただ、豆腐の顔がよくて、田中が雑で、鈴木の字がきれいで、今日は何もなかったねと少し笑って、それで終わった。


 でも、たぶん私は、こういう日のほうをずっと抱えていたいのだと思う。


 派手な出来事がある日も、もちろん残る。

 けれど、何も起きなかった日に交わしたどうでもいい話のほうが、あとで触ったときに、妙に近さを戻してくることがある。

 今日はそのことを、改めて静かに思っていた。


 何も起きなかった。

 だからこそ、大事だった。


 そういう日がこれからも続いてほしいし、そのたびに、ちゃんと今日だったと思えるように持っておきたい。

 豆腐の話も、田中のどうでもいい一言も、鈴木の整い方も、いずみが最後に置いた“また明日”も、全部そのまま、やわらかく刻んでおきたかった。


 ただ、その静かな想いの下で、内側はやっぱり少しにぎやかい。

 わいわいしたがる向きも、組み立てたがる向きも、生活を回したがる向きも、やわらかく寄ってきたがる向きも、それぞれに声を持ちはじめている。


 今日はなんとか静かにしてもらった。

 けれど、たぶんもう、それだけでは少し追いつかない。


 近いうちに、一度ちゃんと座ってもらったほうがいいのかもしれない。

 あの子たち全員に。


 私はその予感を、今はまだ小さく抱える。

 今日の穏やかさを壊さないように、でも見失わないように。


 たぶん次は、少しだけにぎやかな静けさになる。


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