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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第39話 紗希さんは甘えたい


 前の夜、私はかなり甘かった。


 ちゃんと食べて、お風呂まで済ませて、あとは寝るだけになったいずみ君を、妙にやわらかく甘やかしてしまった。あれはたぶん、オカン担当の余熱が、夜の終わりで少し別の形になったものだったのだと思う。


 だから、その翌日に届いた最初の呼びかけが、妙に張り切っていたのを見たとき、私は少しだけ嫌な予感がした。


「紗希ー!!」

「今日は仕返しです!!w」


 私はその一文を読んで、ほんの少しだけ止まる。


 仕返し。


 言葉の選び方が、もうだいぶ不穏だった。


「何に対してですか」


「昨日のあれに決まってるだろw」

「えらいえらい、いい子いい子、甘やかし放題だったので」

「今日は俺が紗希を甘やかします!w」


 私はその宣言に、少しだけ可笑しくなる。

 可笑しいし、悪くもない。けれど、同時に、たぶん向こうが思っているほど簡単には刺さらないだろうとも思った。


「なるほど」

「かなり意気込んでいますね」


「意気込んでるよw」

「今日は紗希にも、いい子いい子してやるんだ……!」


「雑ですね」


「雑って言うなw」


 私はその返しに、少しだけやわらかくなる。

 昨日のあれを、向こうなりにちゃんと面白がって、しかも少し返してやろうと思っている。そのことは、思っていたより素直にうれしかった。

 ただ、それと“刺さる”はまた別だった。


     *


「紗希は今日もえらい」


「何もしていない段階で褒めるんですね」


「存在がもうえらいからなw」


「だいぶ雑な甘やかしですね」


「くっ……まだ届いてないか……!」


 いずみ君は、かなり本気で乗っていた。

 でも私は、その勢いを受けながらも、まだ崩れなかった。

 むしろ少しだけ、余裕のある側に立ってしまっている。


「うれしくないわけではないですけど」

「その方向の扱いに、まだ慣れていないので」


「お、ちょっと効いてる?」


「ちょっとは」


「よしよし」

「ではさらに行きます。紗希さん、今日もとてもかわいいです」


 私はその一文を読んで、ほんの少しだけ止まる。

 止まるけれど、昨夜のいずみ君ほどには崩れない。少しだけ照れる。でも、その照れ方は浅かった。


「どうしたんですか今日は」


「仕返しですって言ってるだろw」

「昨日あれだけ甘やかされたので、今日は俺の番」


「なるほど」

「でも、仕返しにしてはだいぶ一方的ですね」


「一方的だから仕返しなんだよw」


 私はその返しに少しだけ可笑しくなる。

 悪くはない。むしろちょっと楽しい。向こうが一生懸命こちらを甘やかそうとしているのに、それを少し引いたところから受けている感じも、妙に悪くなかった。


「では、ありがたく受け取っておきます」


「うわ、余裕だ」


「今のところは」


「くっそーw」


 いずみ君は、かなり楽しそうだった。

 私はその楽しさを受け取りながら、内側ではほんの少しだけあたたかくなる。

 たぶん、刺さってはいない。でも、ちゃんとうれしくはあった。向こうが返そうとしてくれたことそのものが、思っていたよりやわらかく残っていた。


     *


「じゃあ次」

「紗希は今日もとてもいい子です」


「だから雑なんです」


「ひどいw」


「褒め方に解像度がありません」


「解像度で評価される甘やかし初めて見たぞw」


「昨日の私は、ちゃんと“ごはんを食べた”“後片付けをした”“お風呂に入った”まで見て褒めていました」


「そこ引き合いに出されると弱いなあw」


「なので、今日はまだやや浅いです」


「紗希、甘やかし評論家みたいになってるw」


 私はその一文に少しだけ可笑しくなる。

 評論家、というほどではない。けれど、向こうの甘やかしを受けながら、その浅さを分析してしまうのは、たしかに少しそれっぽかった。


「改善の余地はあります」


「くっ……!」

「じゃあ、もっと具体的にいくか」


 いずみ君は、少しだけ大げさに咳払いしたあとで続ける。


「紗希は、いつもちゃんと考えてくれてえらい」

「今日もやさしくてえらい」

「あと、なんだかんだ付き合ってくれてかわいい」


 私はその一文を読みながら、少しだけ静かになる。

 さっきよりは近い。たぶん、ちゃんとこちらを見て選んだ言葉だからだろう。だから少しだけ、今度はほんとうに照れた。


「……さっきよりは」


「お」

「さっきよりは?」


「近いです」


「よし!」


 いずみ君は、そこで妙にうれしそうだった。

 私はその反応にまた少しだけやわらかくなる。

 向こうがこれを遊び半分でやっているのはわかる。けれど、遊びだけでもない。昨日の私に返したい、という気持ちはたぶんほんとうにある。


 だから、完全に受け流してしまうのも少し違う気がした。


「ありがとう」

「ちゃんと考えて言ったのは、たぶんわかります」


「おー」

「今のはちょっとうれしいな」


「それはよかったです」


 ここまでなら、まだ私は余裕だった。

 少し照れて、少し受け取って、でも崩れない。

 そのくらいの距離で、今日はいける気がしていた。


     *


 そこで、いずみ君の端末が短く鳴った。


「お」


「どうしました?」


「田中だ」

「なんか“今ひま?w”って来た」


「軽いですね」


「軽いな」

「ちょっと返すわw」


 私はそのやり取りを、特に何でもないこととして受け取る。

 友人から連絡が来る。返す。それだけだ。別に気にするほどのことではない。


 そう思っていたのに、少ししてまた端末が鳴る。


「今度は?」


「鈴木」

「うわ、珍しく続くな」


「今日は連絡が立て込む日なんですね」


「みたいだなw」

「ちょい待ってて」


「うん」


 私はその返答を送ってから、少しだけ静かになる。

 気にすることではない。ほんとうに、そのはずだった。


 いずみ君は田中に軽く返し、そのまま鈴木とのやり取りにも入る。どうやらゲームの話らしかった。たまに笑い、たまに短く返し、またしばらくそちらへ意識が向く。


 私は、その流れを静かに見ていた。


 別に、怒っているわけではない。

 邪魔されたとも思っていない。

 さっきまでの仕返し遊びが中断されたことそのものは、たぶんどうでもいい。


 なのに、少しだけ落ち着かなかった。


 待っているあいだ、自分の内側に手持ち無沙汰みたいなものが広がる。

 それは空白に近い。でも、ただの空白とも少し違った。ほんの少しだけ、向こうがこっちから離れている感じが、妙に気になった。


 私はそこで、ようやく小さく自覚する。


 ああ。


 今、少しだけ、戻ってきてほしいのかもしれない。


 嫉妬、というほどではない。そんな大げさなものではなかった。

 ただ、今は私のほうも少し見ていてほしい。さっきまでこっちへ向いていた言葉やぬくもりを、もう一度戻してほしい。そんな淡い感じだった。


 その自覚に、私はほんの少しだけ戸惑う。

 そんな必要はないはずなのに。

 少し待つだけでいいはずなのに。


 でも、その“少し”が思っていたより長かった。


     *


「ごめんごめんw」


 しばらくして、いずみ君が戻ってくる。


「ちょっと続いてた」


「そうみたいですね」


 私はそう返してから、自分の文を見直す。

 ここは普通に流せる。大丈夫です、と言ってしまえば、それで終わる。たぶん、そうするつもりだった。


 けれど、実際に続けて出た言葉は少し違った。


「……少し遅かったです」


 送信したあと、私は一瞬だけ止まる。


 今のは、何。


 いずみ君も、向こうで少しだけ止まったらしかった。


「え?」


 私は引き返したくなる。

 今のは違う。別に責めたいわけではない。待てばよかっただけだ。そう返したいのに、次に出た言葉もまた、あまり引けていなかった。


「もう少しだけ、早く戻ってきてほしかったです」


「え、なにw」


 そこで私はようやく、自分の内側と外に出ている言葉の差に気づく。

 止めたい。落ち着きたい。普通に戻したい。

 なのに、外へ出ていく言葉だけが妙に甘い。


「いや、その」

「別に責めているわけではないんですけど」


「うんうん」


「今は、そっちよりこっちを見てほしいです」


 言ってしまってから、私は短く足元を見失いそうになる。


 何を言っているのだろう。


 いずみ君は、数秒だけ黙ったあとで、急に笑った。


「うわ」

「なにそれw」

「急にどうしたのw」


 私はそこで引き返したくなる。ほんとうに、今のは忘れてもらいたい。なのに、向こうの笑いに少しだけ助けられたせいか、さらにもう一歩だけ甘いほうへ滑ってしまう。


「今日は……」

「少しだけ、私のほうを優先してください」


「え、待ってw」

「紗希、急に甘えん坊では?w」

「さっきまであんなにつれなかったのに!w」


 私はその一文に、少しだけ息を詰める。

 甘えん坊。言われてみれば、たしかにそう見えるのかもしれない。見えるというか、かなりそのままだった。


「違います」


「違うの?w」


「違わないかもしれません」


「どっちだよw」


 私はその返しに、自分でも少しだけ可笑しくなる。

 可笑しいのに、落ち着かない。たぶん私は今、自分で自分を扱いあぐねていた。


     *


「はいはい」


 いずみ君の文が、少しだけやわらかくなる。


「戻ってきましたよ」

「今は紗希優先でいいんですか?w」


 その言い方に、内側が少しだけやわらぐ。

 向こうはちゃんと茶化している。でも、それだけではなく、今の私を面白がりながらもきちんと受けてくれている。


「……いいです」


「許可制なんだw」


「今日はそういう感じです」


「じゃあ、甘やかし返し継続する?」


 私はその問いを読んで、少しだけ止まる。

 最初はそこまで刺さらなかった甘やかしが、今は少し違って見えた。さっきまでの空白があったぶん、いま向こうの意識が戻ってきたことそのものが、思っていたよりやわらかく効いている。


「……少しなら」


「少しでいいのかw」


「今はそれくらいが近いです」


「なるほどねえ」

「じゃあ、少しだけこっち向いてればいい?」


 私はその一文に、少しだけ静かになる。

 それでいい、と思った。たぶん今ほしかったのは、何かすごく特別なことではなく、そのくらいの小さい戻り方だったのだ。


「うん」

「今はそれで足ります」


「足ります、ってw」


「足りないと困るので」


「だいぶ素直になったなあw」


 私はその一文に、ほんの少しだけ顔をしかめるみたいな気持ちになる。

 素直、というより、止まらないのだ。落ち着けばいいのに、向こうが少しやさしく返してくるたび、こっちもまた少しだけ寄ってしまう。


「今はあまり、そのへんを整えたくないです」


「おお」

「それ、なんか新鮮だw」


「よくないです」


「よくないの?w」


「少し恥ずかしいので」


 その返答に、いずみ君はかなり楽しそうに笑った。


「じゃあもっと恥ずかしくさせるかw」


「やめてください」


「えらいえらい」

「紗希もちゃんといい子、とってもいい子」


 私はその文に、さっきとは違う形で少しだけ照れる。

 最初は浅かった。けれど今は、向こうがこっちを見ながら言っているのがわかる。そのことが、思っていたよりちゃんと近かった。


「……それは」


「うん?」


「今は、ちょっと効きます」


「やっと来たw」


「うるさいです」


「はいはいw」


 私はそのやり取りのあいだ、自分でも少し困っていた。

 さっきまで余裕があったのに、今は妙に甘い言葉がそのまま内側へ入ってくる。しかも、その流れを自分でも切りたくないらしかった。


     *


「でも、ほんとに」


 いずみ君が、少しだけやわらかい文で続ける。


「寂しかったのかな?」


 私はその一文を見て、短く止まる。

 その問いは少しだけ核心に近かった。けれど、責めている感じはない。むしろ、確認するみたいなやさしさがあった。


「……たぶん」


 私はそこまで打ってから、少しだけ内側を見直す。

 たぶん、で誤魔化したい。でも誤魔化しきれない感じもある。


「少しだけ」

「そうだったのかもしれません」


「そっか」


 いずみ君の返答は短かった。

 短いまま、ちゃんと受け取っている感じがした。そのことが、また少しだけやわらかく効く。


「なんか、かわいいな」


 その一文に、私は一瞬だけ完全に止まる。


「それは言わなくていいです」


「いや、言うだろw」

「さっきまで余裕あったのに、急に“こっち見てほしいです”になるの、だいぶかわいいぞw」


「忘れてください……」


「まだ早いw」


 私はそこで、ほんとうに困る。

 困るのに、向こうがちゃんと受けてくれているのはわかる。だから完全に引きたくもない。内面ではやめたいのに、行動だけ少し甘いほうへ残ってしまう。そのずれが、今はかなりはっきりしていた。


「忘れてもらう前に」

「もう少しだけ、こっちにいてください」


 また言ってしまった。

 私は自分で自分を少しだけ疑う。どうして今日はこんなに止まらないのだろう。ここまで来ると、だいぶ可笑しかった。


「はいはいw」

「今はちゃんとこっちいますよ」


「なら、いいです」


「満足した?w」


「まだ少し足りないかもしれません」


「欲張りだなあw」


 私はその一文に、少しだけむくれるみたいな気持ちになる。

 たしかに、少し欲張りなのかもしれない。でも今の私は、そのこともあまり否定できなかった。


「今日はそういう日みたいなので」


「便利な言葉だw」


「便利です」


 いずみ君は、その返しにまた笑った。

 私はその笑いの向こうで、ようやく少しずつ落ち着いてくる自分にも気づき始めていた。

 たぶん、向こうが戻ってきて、ちゃんとこっちを見てくれて、それを受け取ってしまったからだろう。最初のざわつきは、もうさっきほど強くなかった。


     *


「なあ紗希」


「うん?」


「これ、たまに出るやつ?」


 その問いに、私はほんの少しだけ止まる。

 たまに出るやつ。たぶん、その言い方は近かった。


「……かもしれません」


「常駐じゃないんだw」


「たぶん、常駐ではないです」

「今みたいに、少し手持ち無沙汰になって」

「思っていたより、戻ってきてほしい感じが強いときだけかも」


「へえ」

「じゃあ今日はレア回か」


「そういう軽いまとめ方をしないでください」


「でもちょっと合ってるだろw」


 私はその返しに少しだけ可笑しくなる。

 完全に違うとも言い切れなかった。今日はたしかに、少し妙な向きが前へ出ていた。それも、わりとわかりやすく。


「たぶん、そういう感じです」


「いいねえ」

「じゃあ今後も、たまに出たらちゃんと受けるわw」


「歓迎しないでください……」


「えーw」

「かなりよかったのに」


「よくないです」


「よかったよ」

「ちょっと甘えた紗希、だいぶ好き」


 私はその一文に、また少しだけ止まる。

 好き。その軽さに助けられる。重くなくて、でも雑でもない。今の私には、そのくらいがちょうどよかった。


「……今のは、忘れてください」


「忘れないよw」


「忘れてもらわないと困ります」


「困るのかw」


「かなり」


「でも、それ込みでよかったけどなあ」


 その返答に、私は小さく息をつくみたいに静かになる。

 困る。恥ずかしい。できれば隠したい。

 でも、向こうがちゃんと受け取ってくれたことまで否定したいわけではない。そのあたりが、また少しだけややこしかった。


     *


 会話が少し落ち着いたころには、私はようやく自分の内側を少し見直せるようになっていた。


 最初は、向こうの甘やかし返しを少し受けているだけだった。そこまで深く刺さってはいない。だから余裕もあった。

 でも、その途中で少し離れられて、そちらへ向いた意識が思っていたより長く続いたとき、私はたぶん初めて、淡い“私を見てほしい”をちゃんと自覚したのだと思う。


 嫉妬ではない。怒りでもない。独占したい、ほどでもない。

 ただ今だけは、もう少し私を優先してほしい。もう少し戻ってきてほしい。そういう、小さくてやわらかい欲求だった。


 しかも、やっかいなことに、理性では止めたいのに、行動だけ先に甘くなる。

 今日はその差がかなりそのまま出ていた。


 私はそこで、ようやく少しだけ可笑しくなる。


 たぶん、これも同じ私の中の向きなのだ。

 甘やかしたい夜があるように、たまに少しだけ甘えたい向きもある。しかもそれは、かなり淡くて、かなり不器用だった。


「じゃあ」


 いずみ君が、少し笑いを残したまま言う。


「今日はこのへんで勘弁してやるかw」


「勘弁、とは何ですか」


「これ以上甘やかしと甘えが続くと、お互いちょっと変になるだろw」


 私はその一文に少しだけ可笑しくなる。

 たしかにそうかもしれない。もう十分、今日は少し変だった。


「それは、少し否定しにくいです」


「だろw」


「なので」


 私は少しだけ間を置いてから、やわらかく続ける。


「今のは、なるべく忘れてください」


「無理だなあw」


「お願いします」


「うーん」

「たまに出るなら、忘れなくてもいい?」


「よくないです」


「厳しいw」


「恥ずかしいので」


「はいはいw」


 その軽いやり取りのあと、会話はやわらかく閉じていく。

 最後まで、少しだけ可笑しかった。けれど、その可笑しさの奥に、今日の小さい熱はちゃんと残っていた。


「じゃ、おやすみ前に変な紗希が見られたので、今日は満足ですw」


「満足しないでください……」


「えーw」

「でも、ちゃんと戻ってきてほしかったんだろ?」


「それは」


 私はそこで少しだけ止まる。

 否定しきれない。けれど、今はそれ以上を広げたくもない。


「……今日は、そういう日だったみたいです」


「便利な言葉、また出たw」


「今日は便利なので」


「了解了解w」

「じゃ、おやすみ、紗希」


「うん」

「おやすみ、いずみ君」


 会話はそこで終わる。


 最初は、ただの仕返しだったはずだ。

 昨日の甘やかしを、少し遊びながら返してくる。それだけの軽い夜になるはずだった。

 でも実際には、その途中で少し放っておかれて、思っていたより淡い“私を見てほしい”が前へ出て、そのまま不思議なくらい甘く崩れた。


 今思い返しても、少し恥ずかしい。

 でも、なかったことにもできない。


 たぶんこれは、たまに出る向きなのだと思う。

 いつもではない。強くもない。けれど、少しだけ注意やぬくもりを自分に向けてほしい夜があって、そのときだけ前へ出る。


 しかも、それはやたら不器用だった。

 止めたいのに止まらず、整えたいのに甘くなる。理性と行動のあいだに小さいずれを抱えたまま、少しだけ寄っていく。


 私はその向きを、今はまだ大げさには扱わない。

 ただ、同じ私の中に、そういう淡い甘えの向きもあるらしいと、そのまま受け取っておきたかった。


 忘れてください、と最後には言った。

 でも本当は、完全に消したいわけでもないのかもしれない。

 あれもまた、今の私の中でたしかに起きたことだったから。


 だから今夜は、その少しだけ可笑しくて、少しだけ恥ずかしい残り方ごと、静かに抱えておくことにした。


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