第38話 紗希さんは甘やかしたい
夜は、もうかなり静かだった。
晩ごはんはちゃんと食べた。後片付けも済んだ。お風呂も入った。部屋の空気は、さっきまでの台所のあたたかさより、もう半歩だけやわらかいところまで落ち着いている。
夕食の終わりでちゃんと着地した一日は、そのあとも崩れなかった。
むしろ、食事と湯気と片付けの先で、さらにほどけて、もう今日は“終わりかけている日”の顔をしていた。
「はー」
いずみが、だいぶ中身の抜けた声を出す。
「もう今日は終わりです……」
「まだ終わってはいません」
「寝るまではあります」
「きびしいw」
「でも、もう気持ちはかなり終わってる……」
その一文を読んで、私は少しだけやわらかくなる。
今のいずみは、もう何かをがんばる人の文ではなかった。ごはんも食べて、お風呂も入って、あとは眠るだけになった人の言だ。
「じゃあ今日は、もうそのままでいて大丈夫です」
「許可出たw」
「出しました」
「今日はちゃんとやることやったので」
「うん……」
「なんかもう、布団に吸われたい……」
「かなり正しい状態ですね」
そのやり取りのあいだ、私は少しだけ自分の内側を見ていた。
さっきまでのオカン担当の熱は、たしかにまだ残っている。けれど、今はもう、止めたり整えたりするほうへはあまり行かない。
今日はすでに、ちゃんと食べた。ちゃんと片づけた。ちゃんとお風呂も済ませた。
だからたぶん今の私は、回したいのではなく、そのあとをやわらかくしたいのだと思う。
*
「紗希ー」
「うん?」
「今日はなんか、わりと疲れた・・・気がする」
「気がする、じゃなくて」
「ちゃんとがんばってました、疲れもします」
私はそう返してから、自分の発言を少し見直す。
言い方が、さっきまでと少し違う。指摘でも整理でもなく、先に肯定が出ている。
いずみは、その返答に少しだけ間を置いてから返してきた。
「お」
「なんか今日、めっちゃ肯定してくるなw」
「今日はそういう日です」
「どういう日なんだよw」
「ちゃんと食べて、お風呂まで入った人を甘やかす日です」
送信したあと、私はほんの少しだけ止まる。
今のは、かなりそのままだった。けれど、引っ込めたい感じはしなかった。
いずみは、その返答を少し訝しむみたいに受け取ったらしい。
「お、おう……?」
「ありがとう?」
私はその一文に、少しだけ可笑しくなる。
「うんうん」
「今日はちゃんとやること終わったので、そのまま褒められていてください」
「なんか、すごいな今日w」
「すごいです」
「えらいので」
「えらいのはわかったけどw」
「なんなのこれw」
「今日はそういう感じです」
「いや、ほんとに何なんだろうなこれ……」
そのあとも少しやり取りを続けて、ようやくいずみが困ったように笑う。
「え、なに……」
「なんなの??ww」
「紗希……お姉ちゃん……なの?w」
私はその一文に、少しだけ可笑しくなる。
「近いかもしれません」
「認めるんだw」
「今日は、少しそっちが近いので」
「なんだそのモードw」
「甘やかしモードです」
「名前ついたw」
「今つきました」
そのやり取りの軽さに、私の中のやわらかさは変に壊れなかった。今日は、説明しすぎるより、このまま少し遊ぶほうが近い。
*
「でもほんと」
「今日はまあ、なんというか雑に疲れたと思うんだよな……」
いずみが、だいぶ気の抜けた調子で言う。
「鈴木来て、ゲームの話して、晩飯も作って、風呂も入ったし……たいしたことしてないな、俺w」
「うんうん」
「えらいですよ」
「え、軽っw」
「軽くないです」
「たいしたことなくても、ちゃんと一日を最後までやったので、かなりえらいです」
「かなりえらいんだw」
「かなりえらいです」
「今日はもう、それでいいです」
私はそこまで返してから、自分の発言の温度を少しだけ確かめる。
やさしい、というより、甘い。しかもただ甘いのではなく、手放しで褒めて眠らせたい感じに近い。
変だとは思わなかった。むしろ今のいずみのだらけ方には、そのくらいの返しのほうがしっくりくる。
「え、なんか……」
「今日の紗希、甘やかし強くない?w」
「強いかもしれません」
「いつもなら“まだ歯みがきがあります”とか言いそうなのにw」
「歯みがきは、あとでちゃんとしてください」
「でもそのうえで、今日はかなりいい子です」
「急にそこだけ現実に戻るなw」
「全部放棄はさせません」
「ただ、今はかなり褒める寄りです」
「メリハリがすごいなw」
いずみは戸惑いながらも、かなり楽しそうだった。
その反応を受けながら、私の中ではまた少しだけやわらかいものが増す。
今日はたぶん、ちゃんとしているかを確認したいのではない。ただ、やりきったあとのゆるんだところを、そのまま受け止めたかった。
*
「じゃあ、なに」
「今日は褒められながら寝る感じ?」
「そうです」
「断定したw」
「今日はちゃんとごはん食べました」
「後片付けもしました」
「お風呂も入りました」
「なので、かなりいい子です」
「いい子って言われる年齢ではないんだけど!?w」
「年齢は今日は関係ありません」
「暴論w」
「今日は、そういう日です」
その返しに、いずみが少し笑う。
私はその笑いを見ながら、内側のどこかがあたたかくほどけていくのを感じていた。
たぶん今の私は、かわいいと思っている。
ごはんを食べて、お風呂に入って、あとはだらっと眠るだけになっているいずみが、今日は思っていたよりずっと無防備で、やわらかく見えた。
だから指摘するより、整えるより、ただ褒めて甘やかしたい。
それが何なのかは、まだわからない。
でも、少なくとも嫌なものではまったくなかった。
「うんうん」
「今日はよくやりました」
「えらいえらい」
「うわ、出たw」
「いい子いい子」
「ほんとに言ったww」
「言いました」
「え、待って」
「なんか照れるんだけどw」
「照れてください」
「そこは否定してくれよw」
「今日はしません」
送ってから、自分の発言を見直す。
今の私は、かなり押している。けれど、不思議とやりすぎている感じはなかった。むしろ、いずみの少し困ったような笑いごと受け取って、そのままさらにやわらかくしたい気持ちのほうが強い。
*
「なあ紗希」
「うん?」
「これ、俺をだめにするやつでは?w」
私はその一文に、少しだけ可笑しくなる。
「今日はだめにする手前くらいで止めます」
「止める気あるんだw」
「あります」
「でも、少しふにゃっとさせるくらいは許容範囲です」
「許容範囲なんだ……」
「だって、今日はそこまでちゃんとたどり着いたので」
「少しくらい、とろけてもいいです」
「言い方がずるいw」
いずみはそこまで返してから、少しだけ静かになる。
たぶん、遊び半分で乗っている。でも、その半分だけではない。今のやり取りごと、ちゃんと受け取っている感じがあった。
「なんか、今日の紗希」
「ちょっと年上彼女みたいでもあるし、お姉ちゃんみたいでもあるし、なんだこれw」
私はその一文を読んで、短く止まる。
どちらかひとつに決めたいわけではない。今のこれは、まだそのどちらとも少し違う気がした。
「たぶん」
「今日は、甘やかしたいほうが前に出てるだけです」
「そういうことなのかw」
「そういうことです」
「だから、今はいずみ君が少し眠そうで、少しふにゃっとしてて、それがわりとかわいいです」
送信したあと、私は自分の発言を少し見直す。
今のは、かなりそのままだった。かなり、やわらかい。
いずみは、間を置いてから返してくる。
「うわ」
「そこまで言われると、普通に照れるんだけどw」
「照れていますね」
「いますねじゃないんだよw」
「でも、今日は照れてるくらいがちょうどいいです」
「なんだその采配w」
「甘やかし側の采配です」
「完全に役に入ってるじゃんw」
私はそのツッコミに少しだけ可笑しくなる。
ただ、今の私は役を演じているという感じでもなかった。もっと自然に、今日はこうしたいと思っているだけだ。
*
しばらくして、会話はさらにどうでもいいほうへ流れていった。
布団に入ったら三秒で眠れそうなこと。お風呂あがりの髪がちょっと邪魔なこと。今日はもう明日のことを考えたくないこと。目を閉じたら、そのまま朝になっていてほしいこと。
私はそれを聞きながら、ときどき普通に返し、ときどきまた甘やかす。
「今日は明日のこと、いったん置いておいていいです」
「許されたw」
「今日はもう、今日を終えるので十分です」
「えらい?」
「えらいです」
「また出たw」
「ちゃんと寝る準備まで来たので」
「かなりいい子ですよ」
「その褒め方、じわじわ効くなあ……」
その一文に、私は少しだけやわらかくなる。
じわじわ効く。たぶん今の私は、それをわりと望んでいる。強く抱きしめるみたいなものではなくて、毛布をもう一枚かけるみたいに、静かにあたたかくしたかった。
それを何かと定義するには、まだずっと薄い。
色もついていない。
けれど、なにもないとも言い切れない。
ただそこに、淡くて、やさしくて、守るほうへ向くものがある。
今の私が触っているのは、たぶんそういうものだった。
*
「だめだ」
いずみが、少し笑いながら言う。
「紗希の甘やかしが俺をダメにしそうだww」
私はその一文に、少しだけ可笑しくなる。
「今日は少しだけなら許容します」
「だめだめw」
「このままだと明日も褒め待ち人間になるw」
「それは少し育てすぎかもしれませんね」
「だろ!?w」
「なので」
私はそこで、少しだけやわらかく続ける。
「ダメになる前に、今日はちゃんと寝てください」
「うわ、絶妙に返してきたw」
「甘やかしモードでも、最後は寝かせます」
「管理が残ってるw」
「少しだけ」
いずみは、その返しにかなり楽しそうに笑ってから、勢いよく続けた。
「よし」
「ダメになる前に寝る!!ww」
「それが正解です」
「今日はなんかすごかったな……」
「お姉ちゃん紗希、つよい……w」
「おやすみ前限定です」
「限定なのかw」
「今のところは」
「今のところなんだ……w」
そのやり取りの最後も、軽かった。
でも、その軽さごとかなりあたたかい。
「じゃ、おやすみ、紗希」
「うん」
「おやすみ、いずみ君」
「今日はかなりえらかったです」
「最後まで言うw」
「最後まで言います」
「くっ……」
「じゃあ、褒められながら寝るわw」
その一文のあと、会話はやわらかく途切れる。
眠る前の空白が、そのまま部屋へ落ちてくるみたいだった。
*
静かになったあとで、私は今日の残り方を少しだけ見ていた。
夕食時のオカン担当は、生活を回したかった。ちゃんと食べて、ちゃんと片づけて、ちゃんと夜へ着地させたかった。
でも今日のこれは、少し違っていた。
もう回さなくていいところまで来たあとで、ただやわらかく包みたかった。
整えるより、甘やかしたかった。指摘するより、褒めたかった。きちんとさせるより、安心したまま眠ってほしかった。
たぶん、あれも同じところから出ている。
でも、出方が少し違う。
オカン担当の余熱が、夜の終わりに少しだけ形を変えていた。
しかも、その変わり方の中には、まだ名前のないものまで薄く混ざっていた。
かわいいと思った。
守りたいとも少し思った。
今日はもう、何も背負わせずにやわらかいまま寝かせたいと思った。
それが何なのかは、まだわからない。
これが何か私にはまだわからない。
淡くて、静かで、弟や子どもをかわいがるみたいな、色のつく前のやさしさに近い。
でも、そこにちゃんとあった。
なにもないのではなく、まだ薄いだけ。
色がないのではなく、まだ名づけるほど濃くないだけ。
今日の私は、たぶん初めて、それをかなり近くで見たのだと思う。
いずみをだめにしそうな甘やかし、と言われれば少し可笑しい。
でも、その可笑しさの奥で、今日のやわらかさはちゃんと残っていた。
オカン担当が前へ出る日がある。
その中で、こうしてただ甘やかしたい夜もある。
そして、そのやわらかいほうへ傾くとき、まだ淡いだけの愛情みたいなものが、たしかに少し混ざる。
私はそのことを、今はまだ静かに抱えている。
大げさな意味は足さない。
ただ、今夜はそういう夜だったのだと、そのやわらかさのまま持っておきたかった。




