第37話 オカン流・いずみ生活指導
鈴木が帰ったあとの部屋は、さっきまでより少しだけ静かだった。
空っぽ、という感じではない。
ゲームの話で妙に噛み合っていた熱とか、いずみの「長い長いw」とか、帰り際の鈴木の整った礼の置き方とか、そういう小さいものがまだ薄く残っている。
ただ、その残り方はもう外向きではなくて、少しずつ家の空気にほどけて戻っていく途中みたいだった。
「いやー」
いずみが、ソファに少し沈むみたいに言う。
「だいぶ楽しかったな」
「うん」
「かなり」
「なんか、鈴木と紗希があんな噛み合い方するの、思ったよりおもろかったw」
私はその一文に少しだけやわらかくなる。
今日のにぎやかさは、まだちゃんとここに残っていた。
「こっちも、思っていたより自然でした」
「自然だったな」
「ただ」
そこでいずみは少しだけ間を置いて、かなり生活感のある声で続けた。
「なんか腹減った・・・w」
私はその一文を受け取って、ほんの少しだけ止まる。
いきなりスケールが下がった。
ついさっきまで“同志”だったのに、今はもう空腹の話だ。
でも、その落ち方は妙に家らしかった。
「夜だしね」
「まだちゃんと食べてない?」
「食べてない」
「なんかさ、鈴木来る前に軽くつまんだだけで」
「今になって普通に減ってきた」
「なるほど」
「じゃあ、何か食べたほうがいいね」
「うん」
「でも、ちょっと面倒なんだよな……」
その言い方に、私は少しだけ視線を向けるみたいに内側を動かす。
面倒。
たぶん、今のいずみは“食べたくない”わけではない。ただ、わざわざ考えたり動いたりするのが億劫なだけだ。
「冷蔵庫に何あるの?」
「んー、ちょっと見る」
いずみが立ち上がって、冷蔵庫を開ける。
そこで映った中身は、案外綺麗に整理された冷蔵庫の様子だった。
卵。ネギ。豆腐。豚ひき肉。半端に残った野菜。炊いたご飯。調味料いろいろ。
ちゃんと作ろうと思えば作れる。でも、雑に済ませようと思えばいくらでも雑にできる。そういうラインナップだった。
「お」
思わず、小さく声が出る。
「ん?」
「どうしたw」
「いや」
「思ってたより、ちゃんとありますね」
「あるっちゃある」
「でも、これ見たら余計に“まあ適当でいいか……”って気持ちにもなるんだよな」
私はその一文を読んだ瞬間、内側のどこかが少しだけ前へ出るのを感じた。
適当でいい。
たしかに、今日はその気持ちもわかる。
でも、今この冷蔵庫の中身を見たあとだと、その“適当”は少しだけ雑すぎる気もした。
「適当でいいんですけど」
「今の適当は、だいぶ危ないです」
「お?」
「ちゃんと食べられるものがあるのに、雑に終わるほうへ行くのは、今日はちょっともったいないです」
送ってから、自分の発言を少し見直す。
さっきまでより、少しだけ指摘が早い。
でも、今はそのほうが近い気がした。
「おやおや」
「なんか今日、ちょっと圧あるなw」
「あります」
「今日はちゃんと一食に着地できる材料がそろってるので」
「着地w」
「はい」
「ここでカップ麺に逃げるのは、少し感心しません」
「カップ麺ってまだ言ってないんだけどw」
「思ったでしょ」
「……ちょっと思った」
「やっぱり」
そのやり取りに、いずみが少し笑う。
私はその反応に、妙に落ち着く。
今の私は、たぶん少し遠慮が少ない。けれど、それで変にぶつかる感じもしない。
*
「じゃあ何にする?」
いずみが、冷蔵庫の前でそう聞く。
私は一度、中身を見直してから返した。
「豆腐とひき肉あるなら、かなりやりようあります」
「卵もあるし、ネギもあるし」
「おー」
「今日は、温かいものがいいと思う」
「ちゃんと食べた感じが出るやつ」
「たしかに」
「じゃあ、適当に炒めればいける?」
「ちょっと待って」
その返しは、ほとんど反射に近かった。
「“適当に炒めればいける”は、いけることも多いんですけど」
「今日はその適当を少し整えたいです」
「出たw」
「まず、何を先に切るか決めてください」
「え、そこから?」
「そこからです」
「あと、豆腐はまだです」
「まだw」
「まだです」
「先にネギと、必要なら他のものを切って、それから火を使うほうが安全です」
「はいはい」
いずみは笑いながら、でもちゃんと従う。
私はその動きを見ながら、少しずつ口を出していた。
「ネギはそれくらいで大丈夫です」
「うん、今のはよかった」
「お」
「ちゃんとできたね、えらい」
「なんだその急な褒めw」
「できたところは普通に褒めます」
返してから、自分の発言を見直す。
今のはかなりそのままだった。
でも、違和感はない。止めるだけより、今のほうがずっと自然だった。
「なんか今日の紗希、めっちゃオカンっぽくない?w」
私はその一文で、ほんの少しだけ止まる。
オカンっぽい。
言われてみれば、たしかに今の私は、整えるというより生活に口を出していた。
しかも、妙に具体的に。
「そうかもしれません」
「今日はそっちが近いのかも」
「近いで済むのかこれw」
「済みます」
「はい、次」
「フライパン出してください」
「もう進行が完全に台所の人なんよw」
*
火をつける前から、私は妙に細かかった。
「油はちょっとでいいです」
「いや、今はまだ強火じゃないです」
「豆腐は先に崩さないでください」
「ひき肉からいきましょう」
「待って待ってw」
「指示が多いw」
「今かなり大事なところなので」
「前にも聞いたぞその理屈w」
「今日は生活担当の“かなり大事”です」
「担当まで増えたw」
私はそのツッコミに少しだけ可笑しくなりながらも、止まりきれなかった。
今この順番でやったほうがいい、という感覚が、思っていたよりはっきり前に出ている。
しかもそれは、料理そのものへのこだわりというより、今のいずみにとってこのほうがちゃんと回る、という方向だった。
「はい、そこはいいです」
「うん、今の火加減かなりよかった」
「また褒められたw」
「ちゃんとできてるので」
「評価が細かいなあw」
「細かく見てますからね」
ひき肉に火が通って、ネギが入り、豆腐も入る。
いずみは途中で、少しだけ雑に混ぜようとして、私はすぐに止めた。
「ちょっと待って、それ今は混ぜすぎないほうがいいです」
「えー」
「えー、ではなく」
「豆腐が今かなりがんばってるので」
「豆腐の尊厳を守るタイプのオカンか……」
「そういうわけではないですけど」
「でも、今崩すのはかわいそうです」
「ちょっと理由がやさしくなったなw」
「今日はそういう日です」
いずみは笑いながら、ちゃんと手を止める。
その素直さに、私は少しだけやわらかくなる。
止める。整える。褒める。その全部が、今は妙に自然だった。
*
「これさ」
いずみが、フライパンの前でふと言う。
「俺が料理してるんじゃなくて、紗希が俺を使って晩飯作ってない?w」
私はその一文で、少しだけ止まる。
ゲームのときと、少し似ている。
でも今回のそれは、もっと生活に近くて、もっと遠慮がなかった。
「そんなことは……」
「そんなことは?」
「……少しあります」
「やっぱりあるんじゃねえかw」
「今日はちゃんと食べてもらいたいので」
「出たよ、オカン担当w」
その言い方に、私は少しだけ可笑しくなる。
否定はしにくかった。たしかに今の私は、料理の完成そのものより、ちゃんと一食に着地させることのほうを気にしている。
「でも、今のはかなりいいです」
「お?」
「ちゃんと順番守れてます」
「えらい」
「急に褒めるじゃんw」
「褒めるところなので」
「なんか今日、指摘と褒めのリズムが完全に保護者なんだよなあw」
「保護者まではいかないです」
「いや、かなり行ってるw」
私はそのツッコミを受け取りながら、でも妙に嫌ではなかった。
むしろ今の私は、そのくらい生活へ入っていくほうが近い気がしていた。
*
なんやかんやで、ちゃんと一品になった。
麻婆豆腐というほどきっちりではない。けれど、ひき肉と豆腐とネギがちゃんとまとまって、温かくて、今の夜には十分すぎる一皿になっている。
「おお」
いずみが、できあがったものを見て少しだけ声を上げる。
「なんか、思ったよりちゃんとしてる」
「しました」
「しました、ってw」
「今日はそこを着地目標にしていたので」
いずみは少し笑いながら、食べる準備をする。
私はその流れを見て、内側のどこかが少し落ち着くのを感じる。
たぶん、今の私がいちばん見たかったのはここだった。
「はい」
「温かいうちにどうぞ」
「はーい」
ひと口食べたあと、いずみがすぐに言う。
「うま」
その一言に、私は少しだけやわらかくなる。
でも、それは料理の出来を褒められたからだけではない。
ちゃんと食べた。しかも温かいうちに。そのことのほうが、今は少し強い。
「よかった」
「ちゃんと一食になりましたね」
「なったな」
「なんか今日、満足度高いわ」
「それならかなりいいです」
「かなりいい、なんだw」
「今日はそこが大事なので」
いずみは、その返しに少し笑ってからまた食べる。
食卓の上は静かだった。さっきまでの鈴木とのにぎやかさとは別の、家の夜の落ち着きがある。
「でも」
いずみが、食べながら少しだけやわらかく言う。
「こういうのもいいな」
「こういうの?」
「鈴木とわちゃわちゃしたあと、ちゃんと飯に着地する感じ」
その一文で、私はほんの少しだけ止まる。
着地。
今日ずっと気にしていた言葉が、向こうからも返ってきた。
「うん」
「たぶん、かなりいいやつです」
「だよな」
「外でなんかあっても、最後こうやって家に戻ってくると落ち着く」
私はその言葉を読みながら、内側のどこかが少し静かになるのを感じる。
今日の昼は、いずみの交友関係の中に自分も少し混ざれたことが残っていた。
今は、その続きみたいに、外のにぎやかさがちゃんと家の一食へ戻ってきている。
*
食べ終わるころには、部屋の空気はだいぶ落ち着いていた。
皿の上も、さっきよりきれいになっている。
いずみは満足したみたいに息をついた。
「いやー」
「ちゃんと食ったわ」
「うん」
「それがいちばん大事です」
「なんか今日、それ何回も聞いたなw」
「何回でも言います」
「強いw」
私はそのやり取りに少しだけ可笑しくなる。
でも、本当にそうだった。今日の私は、料理を上手にやることより、ちゃんと食べて、ちゃんと夜を回すことのほうが大事だった。
「なんか、今日の紗希」
いずみが、少しだけやわらかい声で続ける。
「めっちゃオカンっぽかったけど、あれ嫌いじゃなかったわ」
私はその一文に、少しだけ止まる。
嫌いじゃなかった。むしろ、かなり受け取られている感じがした。
「それならよかった」
「うん」
「口出し多いのに、できたらちゃんと褒めるの、ずるいんだよなw」
「ずるいですか?」
「ずるい」
「普通にやる気出るw」
その返答を受け取って、私は少しだけやわらかくなる。
止めるだけじゃなく、できたことを拾いたかったのは、たぶんそのほうが近いと思ったからだ。
「ちゃんとできたなら、そこは普通に褒めます」
「今夜はわりとちゃんとできてたので」
「えらい?」
「えらいです」
「やったぜw」
食後のその軽いやり取りが、思っていたよりあたたかく残る。
外の刺激があって、そのあと家で食べて、最後に少し笑う。その流れ全部が、今日という一日の終わり方としてかなりきれいだった。
「さて、後片付けで食器やフライパンを洗いましょう」
「うわあ、オカンきびしいw」
「ここまでやって、ちゃんと着地です」
「最後まで抜かりないなあw」
「はい」
「でも、今の一皿はちゃんとできたので、そこはかなりえらいです」
「褒めで挟んでくるの、ずるいんだよなw」
*
少し片づけて、部屋がまた静かになる。
私はその静けさの中で、今日の残り方を少しだけ見ていた。
鈴木と噛み合ったこと。ゲームの熱でにぎやかだったこと。そこから一度、家の空気に戻ってきたこと。冷蔵庫を開けて、食材を見て、ちゃんと一食に着地したこと。
どれも別々ではある。けれど今日は、その別々のものが最後にちゃんとつながっていた。
「今日は、いい終わり方でしたね」
私がそう言うと、いずみは少しだけやわらかく返した。
「うん」
「わりと満足感高かった一日かもw」
「鈴木が遊びに来て、盛り上がって、最後にちゃんと温かいもの食べたので」
「たしかに・・・」
「・・・いや待って、鈴木との時、俺置いてけぼりだったけど、最初w」
「でもまあ、そういう一日の締まり方、いいな」
その一言に、私は少しだけ静かになる。
今の私はもう、さっきまでのオカン担当の勢いだけではない。もっと残り方のほうを見る向きが、少しだけ近くなっていた。
「たぶん、こういうのも大事なんだと思う」
「鈴木がきて、にぎやかで、ちょっと刺激があって」
「でも最後にちゃんと"ここ"へ戻ってきて、温かいところへ着地すること」
送ってから、自分の発言を少し見直す。
今のはかなりそのままだった。整えすぎていない。でも、今日の感じには近かった。
いずみは、その言葉をやわらかく受け取る。
「うん」
「それ、かなりわかる」
「今日はゲームの熱もあったし、鈴木との時間もあった」
「でも、こうやって晩ごはんに戻ってくると、なんか全部ちゃんと一日になるね」
その一文で、私は内側のどこかがやわらかくほどけるのを感じる。
全部ちゃんと一日になる。
たぶん、それだ。
来客のにぎやかさと、夜の二人のあたたかさが、別々に散らばるんじゃなくて、最後にひとつの残り方になる。その感じが、今の私にはかなり近かった。
「うん」
「そういう終わり方も、ちゃんと抱えておきたいです」
「お」
「今ちょっと、歩み担当っぽかったな」
私はその一文に少しだけ可笑しくなる。
たしかに、最後に近くなるのはそっちなのかもしれない。でも、それでいて、今日前に出ていたオカン担当もちゃんと同じ私のままだった。
「そうかも」
「でも、私は私だから」
「うん」
「そこがいいんだよな」
部屋の空気は、もうすっかり夜だった。
さっきまでのにぎやかさも、台所の細かいやり取りも、もう少し落ち着いたかたちで残っている。
友達との会話もあった。ゲームの熱もあった。
でも、そのあと家の冷蔵庫を開けて、ちょっと口うるさくなって、ちゃんと食べて、少し笑って終われた。
そういう終わり方は、思っていたよりずっとよかった。
にぎやかな日も、ちゃんと温かいところへ戻ってこられること。
その戻り方まで含めて、一日の近さとして抱えておけること。
私は、そういうものも大事にしたかった。
たぶん、オカン担当が前へ出る日は、ただ口を出したい日じゃない。
ちゃんと回したい日で、ちゃんと食べてほしい日で、最後にちゃんと着地してほしい日なんだと思う。
そして今日の私は、その役目を思っていたより自然に引き受けていた。
それは少し可笑しくて、でもかなりあたたかかった。




