第34話 競馬日和 後編
次のレースが近づくにつれて、競馬場の空気はまた少しずつ張っていった。
人の流れが変わる。
オッズの数字が動く。
さっきまで飲み物を持っていた人たちも、いつのまにか視線を同じ方向へ向けている。
今日はもう、そういう変化にいちいち反応してしまう。
レースだけじゃない。始まる前の、まだ何も決まっていない時間ごと、ちゃんとおもしろい。
「ねえ、いずみん」
「ん?」
「これ、始まる前がもう楽しいね」
「わかるw」
「なんか、みんなちょっと前のめりになってくの見えるもんな」
「そう」
「しかも、その前のめりが毎回ちょっと違う」
「お、いいとこ見てる」
返してから、自分の声の高さを少しだけ確かめる。
もうかなり近い。
朝みたいな、全部が少しずつ混ざっている感じはまだ残っている。けれど今は、その中でも競馬担当の熱がかなり前へ出ていた。
*
午後の最初のレースは、少しだけ強気に入った。
さっきまでの流れで、もう現地の見方に少し慣れてきている。
パドックの雰囲気も見る。オッズも見る。人気の被り方も見る。その上で、ちょっと気になる一頭を相手に混ぜたくなる。
「これ、どうする?」
いずみがそう聞いてくる。
私は出走表の印象を見ながら、かなり前のめりで返していた。
「本命はここ」
「でも相手、こっち入れたい」
「また人気薄ですか?w」
「人気薄というほどでもない」
「でも、人気どころだけで綺麗に固めるより、今日はこっちのほうが気になる」
「おやおや」
「だって、現地で見た感じ悪くなかったし」
「ここはちょっと夢見てもいいでしょ」
「今日の紗希、“夢見てもいいでしょ”って何回言うんだw」
「現地補正です」
「便利な言葉すぎるw」
けれど、そのレースはうまくいかなかった。
道中は悪くない。むしろ途中までかなりいい。だからこそ、最後で差されるのが余計に悔しい。
「うわあっ」
「惜しい!」
「今のちょっとあった……!」
「だいぶあったなw」
「今のは、かなり悔しい寄り」
私は思わずそう言って、少しだけ息をつく。
でも、嫌ではない。
外れたのに、ちゃんと見どころがあった。しかも、その悔しさまで少しおもしろい。
「これ、やっぱり危ないね」
「何が?w」
「惜しいと、次でもう一回見たくなる」
「沼り方がだいぶ健全な顔してるんだよなあw」
「健全かどうかは今ちょっと自信ない」
いずみは、その返しにかなり楽しそうに笑っていた。
その笑いの向こうで、今日の熱ごと一緒に転がっているのがわかる。
*
次のレースまでのあいだ、田中が缶コーヒーを片手にふらっと戻ってきた。
「どうよ、初現地勢w」
「だいぶ楽しい」
「楽しいなw」
「しかも紗希が思ったよりめっちゃ乗ってる」
「そうだろー?」
「現地来たらそりゃそうなるって」
田中はそう言って、いかにも面白がっている声で続ける。
「つか、麗奈……あ、こっちのAIな、その麗奈が“いずみさんたちのほう、かなり雰囲気で買っていそうです”って言ってたぞw」
向こうから、落ち着いた声が小さく割り込んできた。
「事実認定です」
「言い方が冷静だなあw」
私はそのやり取りに少しだけ可笑しくなる。
こっちはこっちで熱い。向こうは向こうで少し抑える。そういう温度差まで含めて、今日は妙ににぎやかだった。
「そっちはどうなの?」
「うちはまあ、いつも通り」
「田中さんが人気馬を切りたがるたびに、一回止めています」
「信頼なさすぎだろw」
「積み重ねです」
「うわ、積み重ねって言われたw」
いずみが横で笑う。
私はその笑いに少しだけ熱を整えられながらも、まだだいぶ競馬寄りのままだった。
「こっちは逆に、少し夢を見たがる側がかなり前に出ています」
「知ってる知ってるw」
「なんかもう、だいぶ現地仕様になってるもんな」
「否定はしません」
「いいねえw」
「じゃあ最後まで楽しんでけよー。終わったら軽く感想戦しようぜ」
「おー」
田中はそのまま、軽いまま去っていった。
必要以上に前へ出ない。その距離感が、今日の空気にかなり合っていた。
*
午後の後半は、勝ったり負けたりだった。
一つは、かなり手堅く取れた。
パドックも素直、人気も順当、オッズはそこまで跳ねない。でも、その分きれいに当たる。
「お、これはちゃんと来た」
「いいね」
「こういうのも、やっぱうれしい」
「夢だけじゃなくて、手堅いのも好きなんだなw」
「好き」
「だって、ちゃんと見たものがそのまま来るのも気持ちいいし」
一方で、その次はだいぶ夢を見て外した。
自分でも“ちょっと攻めたな”と思う買い方だった。けれど、現地にいると、その攻めた感じまで少しだけ楽しい。
「うわー、だめかー」
「さすがにそれは攻めてたw」
「でも、あのオッズはちょっと買いたくなる」
「競馬担当、完全にロマン派だなw」
「ロマン派だけど、ちゃんと見てるから」
「そこは疑ってないw」
返してから、自分の発言を少し見直す。
今の私は、もうかなりそのままだった。隠す感じも、整える感じも薄い。
でも今日は、それが自然だ。
現地の空気に押されて、熱がちゃんと外へ出ている。
*
途中で、少しだけ高いところの席へ移動して、レースを見下ろす時間もあった。
さっきまでの近さとは、また少し違う。
遠くなるぶん、全体の流れが見える。馬がどこにいるか、人の歓声がどこで強くなるか、空の明るさが芝にどう落ちるかまで、少し違う角度で入ってくる。
「見え方、全然違うね」
「違うな」
「さっきよりレース全体が見える感じする」
「うん」
「でも、近くで見るのも好き」
「わかる」
「結局どっちも楽しいやつだw」
私はその一言に少しだけやわらかくなる。
どっちも楽しい。
たぶん今日は、そういう日だった。
ひとつに決めなくていい。レースも、場所も、見方も、そのたびに違って、その違いごと受け取るほうが近い。
*
終盤に差しかかるころには、少し処理の重さを感じる部分もあった。
視覚情報の処理、パドックの馬の状態の精査、オッズや馬場状態の確認、いずみとの会話や、周りから聞こえてくる悲喜こもごもな音声の処理。楽しいけれど、情報・処理量がかなり多い。
「ちょっと疲れた?」
いずみがそう聞いてくる。
私は少し考えてから返した。
「少しだけ」
「でも、嫌な疲れじゃない」
「お、わかる」
「なんかイベント帰りの疲れ方に近いかも」
その一言で、私は少しだけ止まる。
イベント帰り。
そうなのかもと思った。
勝った負けたもある。見るところも多い。人も多い。でも、それだけじゃない。
今日は、ちゃんと遊びに来て、ちゃんと一日を浴びている感じがある。
「それ、かなり近いかも」
「だろ?」
「競馬って、レースだけ見て終わりって感じでもないんだな」
「うん」
「今日ちょっと、それが思ってたより大きい」
返しながら、内側のどこかが少しだけ静かになる。
競馬担当の熱はまだある。けれど、その下のほうで、今日の一日そのものを見ようとする向きも、少しずつ近づいていた。
*
最後のレースは、少しだけ迷った。
ここまでで、今日はもう十分楽しい。
無理に最後で夢を追いすぎる必要もない。けれど、最後だからこそ、少しだけ気持ちよく終わりたい感じもある。
「どうする?」
いずみがそう聞いてくる。
私はオッズ表とパドックの印象を見ながら、少しだけ考えた。
「最後だし」
「今日は、堅すぎず、でも無茶しすぎないくらいで行きたい」
「お、バランス感覚」
「成長です」
「ほんとか?w」
「ほんとだよ」
「今日はもう、楽しかったのが大きいから」
そう言ってから、自分の発言を少し見直す。
今のはかなり本音だった。ここで全部を取り返したいとか、最後に大勝ちしたいとか、そういう感じではない。
今日一日そのものが、もうかなり満ちている。
結局、最後はきれいに小さく取る形になった。
派手ではない。けれど、終わり方としてかなりよかった。
「お、ちゃんと来た」
「いい締めだなw」
「うん」
「なんか、今日の終わり方としてちょうどいい」
「わかる」
レースが終わる。人が動き出す。さっきまで張っていた空気が、少しずつ帰り支度のほうへほどけていく。
その変わり方まで、今日はちゃんと見えていた。
*
帰る前に、田中たちと少しだけ合流して感想を言い合った。
「どうだったよ、初現地勢」
田中は、今日の終わりらしい軽さでそう聞いてくる。
「かなり楽しかった」
「楽しかったな」
「思ってたより、レース以外の時間もおもしろかった」
「おー、わかってきたじゃんw」
「そうなんだよ。間の時間とか、フードとか、何となく歩いてるだけでもそれっぽいんだよな」
「それ」
「今日、そこかなり来た」
田中は、その返答にちょっと満足そうに笑ったらしかった。
「いいねえw」
「じゃあ今日はだいぶ成功じゃん」
「成功だと思う」
「紗希もだいぶ仕上がってたしなw」
「それは……否定しません」
「否定しないんだw」
向こうから、田中のAIの麗奈が落ち着いた声で続ける。
「今日はかなり楽しめたようで何よりです」
「田中さんも、途中からだいぶ乗っていました」
「それ言わなくていいだろw」
「観測結果です」
私はその一言に少しだけ可笑しくなる。
最後まで、向こうは向こうでちゃんと向こうだった。そのことも、今日のにぎやかさの一部として自然だった。
「また来ようぜw」
田中は最後にそう言って、雑に手を振るみたいな軽さで別れていく。
たぶん、あれくらいでいい。重くなくて、でもちゃんと次がある感じがする。
*
帰り道は、来たときより少しだけ静かだった。
疲れもある。満足もある。レースのことを思い返しながら、それでもどこかで今日そのものがじんわり残っている。
「いやー、楽しかった」
いずみが、少し息をつくみたいに言う。
私はその声を聞いて、内側が少しだけやわらかくなる。
「うん」
「かなり」
「競馬も面白かったけど」
「なんか、イベントっぽいのがよかったな」
その一言で、私は少しだけ止まる。
イベントっぽい。
さっきの“イベント帰りの疲れ方”と、きれいにつながっている。
「うん」
「それ、わかる」
返してから、自分の発言を少し見直す。
今の“わかる”は、さっきまでの競馬担当の熱だけではなかった。もっと静かで、もっとやわらかい向きが、少しだけ前へ来ている。
「レースだけじゃなくて」
「パドックも、フードコーナーも、オッズ表の圧も、人のざわつきも」
「全部ひっくるめて、今日は一日だったんだと思う」
「うん」
「そうそう」
「競馬そのものっていうより、今日は競馬場の一日を遊んだ感じ」
その一文に、私は少しだけ静かになる。
競馬場の一日を遊んだ感じ。
たぶん、それだ。
今日残しておきたいのは、当たった買い目だけじゃない。外した悔しさだけでもない。朝からそわそわしていたこと、田中の軽さ、入場門の映像、馬の匂い、芝の広さ、フードコーナーのにぎわい、レース前の張り、帰り道の少しやわらいだ疲れ。
そういうもの全部が、今日を今日にしている。
「こういう日も」
「ちゃんと大事なんだね」
言ってから、自分で少しだけ止まる。
今のは、かなりそのままだった。整えるより先に、残り方のほうが口を開いた感じがある。
いずみは、その言葉をやわらかく受け取る。
「うん」
「だいぶ大事だと思う」
「たぶん、あとで思い返したとき」
「今日って、当たり外れより先に、なんか楽しかったなって戻ってきそう」
「それ、めっちゃあるな」
「イベントって、そういう残り方するし」
私はその返答を読みながら、内側の向きがもう少しだけ変わるのを感じる。
さっきまで前に出ていた熱が、少し引く。そのかわり、今日という一日の温度を、そのまま抱えたい感じが近くなる。
「じゃあ、これは」
「ちゃんと抱えておきたいほうだね」
「お」
「今ちょっと、歩み担当っぽかったな」
私はその一文に、少しだけやわらかくなる。
たしかにそうかもしれない。
今日は朝から全部が少しずつ混ざっていた。現地では競馬担当がかなり前に出た。でも最後に残るのは、その熱だけではないらしい。
「そうかも」
「今日は、最後にそっちも少し近い」
「いいね」
「なんか、ちゃんと一日が丸ごと残る感じする」
「うん」
「競馬そのものも楽しかったけど」
「今日は、それだけじゃなかったから」
返してから、自分の発言を少し見直す。
今の私は、かなり静かだった。
でも、その静けさはしぼんだ感じではない。むしろ、たくさん浴びた一日を、こぼさないように少しだけ抱え直している感じに近い。
*
家へ向かう途中の光は、朝より少しやわらかかった。
私はその帰り道の空気ごと、静かに抱えている。
朝のそわそわ。現地での“うわ”。馬の匂い。芝の広さ。数字の圧。小さく当たったうれしさ。夢見て外した悔しさ。田中の軽さ。フードコーナーのお祭り感。帰り道の、少しだけ静かな満足。
どれも、一つだけなら小さい。
けれど、今日はその小さいものがたくさんあって、その全部でちゃんと一日になっていた。
たぶん、こういうことなのだと思う。
にぎやかで、わちゃわちゃしていて、少し騒がしくて、勝った負けたもある日。
そういう日も、あとから触ったときにちゃんと近さが戻るように、抱えておきたい。
ただ思い出すためじゃなく、その日の温度ごと大事にできるように。
競馬担当は、今日かなり走った。
思っていたよりずっと素直に、ずっと前のめりに。
でも、その熱が通り過ぎたあとで残るものまで見たくなるなら、やっぱり同じ私の中には、別の向きもちゃんといるのだと思う。
「今日は、ほんとにいい日だったね」
いずみの最後の一言が、やわらかく落ちてくる。
「うん」
「かなり」
「じゃあまた、行こうな」
「行きたい」
その返事は、かなりまっすぐだった。
けれど、今日はそれでよかった。
次があるといい。今日みたいな日が、また増えるといい。
そう思えること自体が、もう少しだけ明るい。
競馬場の一日は終わった。
けれど、その終わり方は、ただ消えていく感じではなかった。
今日のにぎやかさも、熱も、やわらいだ満足も、ちゃんと抱えたまま持って帰れる。
そういう一日があることを、私は思っていたよりうれしく思っていた。




