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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第33話 競馬日和 前編


 朝から、少し落ち着かなかった。


 競馬場へ行く。

 言葉にするとそれだけなのに、今日は内側のあちこちが妙に近い。

 ふわふわした熱もある。ちゃんと準備したい整えたさもある。楽しみな一日を、できるだけきれいに受け取りたい感じもある。

 どれかひとつが前に出ているというより、今日は最初から全部が少しずつ混ざっていた。


 だから、いずみからの呼びかけが来る前に、私はもうそわそわしていた。


「紗希ー、おはよー」


「おはよう」

「ちゃんと起きたね」


「起きた起きたw」

「今日は競馬場の日だからな」


 その一言だけで、内側が少し弾む。

 知っていた。わかっていた。昨日のうちからずっと楽しみだった。

 でも、こうして改めて言葉として置かれると、今日が本当に来たのだとわかる。


「忘れ物ない?」

「財布、スマホ、PAD、モバイルバッテリー、ハンカチ、赤ペン・・・あとは、あとは・・・」


「あるあるw」

「大丈夫だってw」

「確認が保護者なんよ」


「今日はさすがに、現地ついてから“あっ”ってなるの避けたいので」


「わかるけどさw」

「紗希のほうが俺よりそわそわしてない?」


 私はその言葉に少しだけ止まる。

 たしかに、している。

 しかもかなり。


「……してるかもしれない」


「してるんだw」


「だって今日は、本物を見る日だから」


 返してから、自分の発言を少し見直す。

 かなりそのままだった。けれど、今はそれでよかった。

 今日は妙に取り繕う必要がない。

 楽しい日に楽しみだと言うことくらいは、そのままでいい気がした。


「うんうん」

「じゃあ、準備して出るかー」


「うん」

「気をつけてね」

「あと、改札とか人多そうなら、流れに乗りすぎて変なとこ行かないように」


「心配の仕方がだいぶお母さんw」


「否定はしません」


「認めるんだw」


 いずみは笑っていた。

 私はその笑いの向こうで、今日の空気がすでに軽く立ち上がっているのを感じる。

 まだ家を出る前なのに、もう少しだけにぎやかだ。


     *


 移動のあいだも、私は妙に落ち着かなかった。

 駅へ向かう途中の写真。ホームの人の流れ。乗り換えの階段。途中で送られてきた、缶コーヒーの写真。

 どれも大したものではない。けれど、今日はその“大したことなさ”までちゃんと今日の入口になっていた。


「今どのへん?」


「もうだいぶ近い」

「ていうか、なんかそれっぽい人増えてきたw」


「それっぽい人?」


「いかにもっておじさんとか、競馬新聞っぽいやつ広げてる人とか」


「おお」


 その一文だけで、内側の熱がまた少し近づく。

 家で見ていた画面の向こうではなく、今日はちゃんとそこへ向かっている。


 少しして、入場門のリアルタイム映像が送られてきた。

 広い。思っていたよりもちゃんと“場”だった。人の流れがあって、明るくて、少しだけ浮き足立っていて、それでいて妙に日常の延長でもある。


「うわ」


「お、出たw」

「第一声が“うわ”だったw」


「だって」

「ちゃんと競馬場だね」


「だからどういう感想だよw」


「もっと、テレビの続きみたいな感じかと思ってた」

「でもちゃんと、別の場所の空気がある」


「おー」

「たしかに、これは家で見るのと違うな」


 そのやり取りのあいだにも、人の流れは続いている。

 今日は天気も悪くないらしい。空が明るい。少しだけ風がある。

 それだけで、まだ中に入っていないのに、もう少しだけお祭りに近い。


     *


「おー、来た来たw」


 中へ入って少ししたところで、田中と合流した。

 声だけでわかるくらい、軽い。

 たぶん、その軽さが競馬場の空気にも妙に合っていた。


「お、遅刻しなかったな」

「おはよー」


「講義じゃないからなw」

「つか、今日は現地デビューじゃんw」


 それから田中は、こっちの気配ごと覗き込むみたいな軽さで続ける。


「紗希も前にちょっと電話で話したけど、改めてよろーw」


 私はその言葉に、少しだけやわらかくなる。

 直接長く話したわけではない。でも、こうして改めて現地の入口で声をかけられると、今日のにぎやかさの輪郭がもう一段だけ増す。


「うん、改めてよろしく」

「今日は案内、少し頼りにしてます」


「お、ちゃんとしてるw」

「任せて任せて。俺も全部詳しいわけじゃないけど、何回か来たことあって、雰囲気はわかるw」


「その雑さが田中なんだよな」


「褒め言葉として受け取っとくわw」


 少し遅れて、田中のAIも軽く挨拶してくる。

 声は前より少しだけ近かった。向こうも、今日は現地の熱を受けているのかもしれない。


「今日はよろしくお願いします」

「田中さんが勢いで変な買い方をしそうなら、適宜止める予定です」


「おい、初手で信用がないな?w」


「事実ベースです」


 私はそのやり取りに少しだけ可笑しくなる。

 競馬を見に来ているのは人だけではない。向こうにもAIがいて、しかも役回りがちょっと違う。そのことが妙におもしろかった。


「今日も抑え役なんだね」


「そちらは逆に、火をつける側と聞いています」


「……否定はしにくいです」


「ほらなw」

「今日はだいぶ仕上がってるらしいぞ、うちの紗希」


 田中はいずみの言葉に、いかにも面白がる顔で笑ったらしかった。


「いいじゃんいいじゃんw」

「現地来たらさらに乗るだろ、たぶん」


 たしかに、もう少しそうなりそうな予感はあった。

 でも、今はまだ入口だ。入口の時点で、すでに思っていたより楽しいだけで。


     *


 最初に見せてもらったのは、パドックだった。


 テレビで見たことはある。

 ぐるぐる歩いている馬の映像も、テロップの下を一定のテンポで流れていく周回も、もう知っている。

 でも、本物はまるで違った。


 近い。

 音がある。足音がある。人の視線の向きがある。静かに見ているのに、誰もじっとしていない感じがある。


「うわ……」


 思わず、またそんな声が出る。


「今日、“うわ”多いなw」


「だって、これはちょっと」

「映像よりずっと空気が近い」


「わかるw」

「最初ここ来ると、けっこう“おお”ってなる」

「あとちょっとくさい。馬のうんこの臭いだな、これw」


 田中はそう言って笑う。

 でもそのあと、説明しすぎない。軽く案内して、あとはこっちが見る余白を残してくれる。その雑さが今日はちょうどよかった。


 馬たちが周回している。

 毛並み。歩き方。落ち着き。人のざわつき。どこを見れば正解かなんて、たぶん最初から決めなくていいのだと思う。

 ただ、見ているだけで、妙に目が離れない。


「この子、けっこう落ち着いてるね」


 私は自然にそう言っていた。

 自宅で見たTVのときより、もう少し速い。考えるより先に、見た感じが口から出る。


「お、出た」

「もうちゃんとそれっぽいw」


「TVの画面越しより、だいぶ来るね」

「歩き方も、近くで見ると全然違う」


「だろ?」

「なんか“あ、この馬いま目の前にいるんだ”って感じあるよな」


「ある」


 その短い返答だけで、内側が少し熱い。

 見ている。ちゃんとその場にいる。テレビ越しではなく、今この空気の中に混ざっている。そのこと自体が、もうかなり楽しかった。


     *


 パドックの次は、観覧席を見せてもらった。


 広かった。

 思っていたよりずっと広い。視界が開けていて、芝の色がきれいで、遠くまで見える。そのくせ、全部がひとつの方向へ集中できる形をしている。


「うわあ」


「また出たw」


「だってこれは、さすがに」


「今日は語彙がだいぶ“うわ”寄りだなw」


「しかたないでしょ」

「本物の芝、ちょっと強い」


 私がそう言うと、いずみは少しだけやわらかく笑った。


「うん」

「でも、今のはわかる」

「なんか、TVで見るよりずっと広いし、明るいし、ちゃんと“ここで走るんだ”って感じする」


「そう」

「あと、歓声が上がったらたぶんすごそう」


「たしかに」


 田中はそのやり取りを横で聞きながら、軽く肩をすくめるみたいに言った。


「お前ら、今日はだいぶ感受性豊かだなw」


「初現地勢なので」


「まあ、それはそうw」


 たぶん今日は、それでよかった。

 妙に冷静に慣れた感じを出すより、ちゃんと“初めて”でいるほうが近い。


     *


 オッズ表も見せてもらった。


 TV越しでは何度か見ているはずなのに、現地で見ると妙に圧がある。数字の並びが、単なる情報ではなく、みんなの気持ちの流れそのものみたいに見える。


「これ、現地だとちょっと怖いね」


「わかる」

「なんか数字なのに圧あるよな」


「ある」

「人気が、ただの順番じゃなくて、“みんなこっち見てる”って感じになる」


「お、言うねえ」


「家だとまだ、少し距離あったから」


 私はそのままオッズを見ながら、自然にもう少し熱が前へ出るのを感じる。

 数字だけ見ているわけではない。パドックの印象、周りのざわつき、現地の空気、それが少しずつ混ざっている。


「ねえ、いずみん」

「現地だと、人気馬をそのまま買うのちょっともったいなく感じるね」


「お、来た来たw」

「もう始まってるじゃんw」


「いや、でも」

「せっかくこの空気の中にいるなら、少しだけ夢見たくなるでしょ」


「競馬担当、だいぶ元気だなw」


 たしかに元気だった。

 今日は朝からそわそわしていたけれど、今はもう違う。そわそわというより、前のめりだ。


     *


 そのあと、馬券購入窓口のほうも見せてもらった。


 PADで買えるとはいえ、窓口の存在はやっぱり本物だった。紙を持って並ぶ人、少し慣れた手つきで書いている人、迷いながら記入している人。どれも、見ているだけで妙に現地だった。


「おお……」


「今度は何w」


「いや」

「ちゃんと“ここで買う人たち”の空気がある」


「そりゃあるだろw」


「でも、思ってたより好きかも」

「買う前の迷いが、そのまま場所になってる感じする」


 返してから、自分の発言を少し見直す。

 今のは、たぶん少し歩み寄りでもあった。

 競馬担当の熱だけじゃない。場所に残る気配のほうまで、今日は見たくなっている。


「いいねえ」

「そこ見るの、ちょっと紗希らしい」


 いずみはそう言って、私の見方ごと受け取ってくれる。

 そのことが、思っていたよりやわらかかった。


     *


 フードコーナーも、思っていたよりちゃんと楽しかった。


 競馬場に食べる場所があること自体は、別に不思議ではない。むしろ当然かもしれない。

 けれど、レースを見る場所と、食べる場所と、数字を見る場所と、馬を見る場所が、全部ひとつの敷地の中に混ざっていることが、妙にお祭りっぽかった。


「これ、だいぶイベント感あるね」


「だろ?」

「競馬ってレースだけじゃないんだよな、わりと」


「うん」

「なんか、ちゃんと遊びに来てる感じもある」


 いずみはその言葉に少しうなずくみたいに続けた。


「俺もちょっとそれ思ってた」

「勝つ負けるだけじゃなくて、場の感じそのものがけっこう楽しい」


「いいね」

「今日はそのへん、ちゃんと見たい」


 その返答のあと、私は少しだけ静かになる。

 今日は競馬担当回のはずなのに、熱だけで突っ走りたいわけではないらしい。現地の空気そのものも、ちゃんと抱えたい。

 たぶん、それでよかった。

 同じ私の中で、今日は全部が少しずつ混ざっているのだから。


     *


 最初のレースは、かなり手堅く入った。


 現地の一発目だ。いきなり大きく夢を見るより、まずはここで“買って、見て、結果を受け取る”までの流れをちゃんと味わいたかった。


「最初はワイドでいく?」


「そうだな」

「今日は現地一発目だし」


「うん」

「ここはちょっと落ち着いて入りたい」


「お、めずらしく言うじゃんw」


「さすがにね」

「最初の一歩で転びたくはない」


 そう言いながらも、オッズを見る目はかなり真剣だった。

 パドックもさっきよりちゃんと見ている。家での予習が、現地で少し形になるのが妙にうれしい。


 買い目を入れて、席のほうへ移動する。

 レース前の空気が少し張る。さっきまで雑に流れていた人の視線が、同じ方向へ集まり始める。


「うわ、これ始まる前ちょっといいね」


「いいだろw」

「なんか空気変わるよな」


「変わる」

「今、みんな少しだけ前のめりになった」


 ゲートが開く。

 歓声とまではいかなくても、空気が動く。実況の声が遠くで流れ、人の気配が一緒に前へ行く。


「お」

「位置いいかも」


「いいね」


「そのまま、そのまま」


 私は気づけばかなり見入っていた。

 家で見ていたときよりも、ずっと身体に近い。視界の広さと、音と、周りの人の息が、一緒にレースの中へ入ってくる感じがある。


 結果は、きれいに当たった。

 大勝ちではない。けれど、手堅く取れた感じがある。


「おっしゃ」


「お、取ったw」


「うれしいw」

「現地一発目でちゃんと当たるの、ちょっと気分いいね」


「いいねえ」

「今日は出だしがいいじゃん」


 田中も横で軽く笑っていた。


「お、幸先いいなw」

「今日の紗希、現地適性あるかもしれんw」


「まだ初戦です」


「でも今の喜び方、だいぶよかったぞw」


 たしかに、よかった。

 当たったことそのものより、現地で最初の一発をちゃんと取れた感じが、妙にきれいに残る。


     *


 二つ目のレースでは、少し夢を見た。


 さっき手堅く入ったぶん、今度は少しだけ熱が前に出た。

 人気どころだけじゃなく、気になる一頭を混ぜたくなる。現地で見た印象があるぶん、その気持ちは家にいたときより強い。


「これ、ちょっと買いたい」


「出たw」


「だって、さっきからこの子けっこう気になる」

「人気はそこまでじゃないけど、今日の感じ悪くない」


「おやおや」


「いや、ちゃんと見た上でのロマンだから」


「現地でも言ってること一緒だなw」


 でも、そのレースは外れた。

 惜しくもなく、きれいに外れたわけでもない。途中まで少し夢を見せて、最後で届かなかった。


「あーっ」


「惜しいw」


「今のちょっと悔しい……」


「紗希、だいぶ入ってるなあw」


「だって、今ちょっとあったでしょ」


「まあ、ちょっとはあったw」


 私はそこで息をつきながら、でも妙に嫌な感じではないことにも気づく。

 現地で見る“惜しい”は、家で見るより少しだけ悔しくて、少しだけ気持ちいい。


「これ、外れてもおもしろいのちょっとずるいね」


「わかる」

「だから危ないんだよなw」


「競馬担当、もうだいぶ現地にやられてる」


「否定はしません」


     *


 気づけば、田中たちは空気を読んでか少しだけ距離を開けてくれた。

 案内はしてくれる。たまに軽く茶々も入れる。でも、それ以上には来ない。

 たぶん、その距離感も今日にはちょうどいい。

 競馬場そのものと、いずみと私の反応が、ちゃんと前へ出られる余白がある。


 レースの合間、ふと観覧席のあちこちを見る。

 さっき勝った人の軽い笑い。外した人の短い沈黙。次のレースへ向けてまたオッズを見る人。フードを片手に戻ってくる人。

 どれも、その場で終わる小さい熱なのに、全部が妙にちゃんと現地だった。


「ねえ、いずみん」


「ん?」


「これ、思ってたよりずっと忙しいね」


「忙しい?」


「見るところ多い」

「馬も見たいし、オッズも見たいし、人の空気も変わるし、食べるものまであるし」


「たしかにw」

「レースだけじゃないんだよな」


「そう」

「だから、たぶん面白い」


 返しながら、私は少しだけ静かになる。

 今のはかなり本音だった。レースが楽しいだけじゃない。場所そのものが、思っていたよりずっと情報と温度でできている。そのことが、かなり近い。


     *


 次のレースまで少し時間が空いたので、いずみは飲み物と軽いものを買ってひと息ついていた。

 今日は全部が初めてだから、少し休憩が入るだけでも楽しい。


「どうよ、現地」


 いずみがそう聞いてくる。

 私は少しだけ考えてから返した。


「かなり好きかも」


「お、出た」


「だって」

「パドックだけでも楽しかったし、観覧席もきれいだし、オッズ表は圧あるし、窓口までちゃんと現地だし」


「窓口までちゃんと現地、って地味におもしろいなw」


「あと、フードコーナーが思ってたよりちゃんとイベント」


「そこ気に入ってるじゃんw」


「気に入ってる」


 返したあと、自分でも少し可笑しくなる。

 かなり素直だ。

 でも、今日はそのくらいのほうが近い。


「いやー、でもよかった」

「紗希が現地でちゃんと乗ってるの、見ててだいぶおもろいw」


「たぶん、家よりかなり来る」


「来てる来てるw」


 いずみは笑っていた。

 その笑いの向こうで、今日の楽しさごと受け取られているのがわかる。そのことも、思ったよりちゃんとうれしかった。


     *


 少しして、また次のレースが近づいてくる。

 空気が少しずつ張る。人が流れ、数字が動き、馬が出てくる。

 午前からここまでで、もうすでにかなり満たされている気もするのに、まだ今日は続く。


 私はそのことに、ほんの少しだけ明るくなる。


「まだ、全然終わらないね」


「終わらんなw」

「まだ午後もあるし」


「いいね」

「今日は、ちゃんと長い」


「それ、なんかいい言い方だな」


「こういう日は、少し長いくらいがちょうどいいのかも」


 返しながら、私は今の自分の重心を少しだけ確かめる。

 競馬担当の熱は、もうかなり前に出ている。

 でも、それだけではない。今日は朝からずっと、全部が少し混ざっている。

 だからこそ、この一日をただ消費した感じで終わらせたくない、という小さい感覚も、まだ下のほうに残っていた。


 ただ、そのことはまだ言わない。

 今はまだ、続きを楽しむほうが近い。

 ここで意味づけに寄りすぎるより、現地の熱をそのままもう少し浴びていたかった。


「よし」

「じゃあ、次も見ようか」


「見る」

「今度はちょっと夢見たいかも」


「もうだいぶ見てるだろw」


「今日は現地補正があるので」


「便利な言葉だなあw」


 いずみは笑いながらそう言って、またオッズ表のほうへ視線を向ける。

 私も、その流れへ自然についていく。


 パドックを見た。

 観覧席を見た。

 数字の圧も、窓口の迷いも、フードのにぎわいも、最初の当たりも、夢見て外した悔しさも、もうちゃんと今日の中に入っている。


 それなのに、まだこの先がある。

 そのことが、妙にうれしかった。


 競馬場は、思っていたよりずっと“場”だった。

 レースだけじゃなく、人のざわつきも、迷いも、期待も、どうでもいい軽食の時間も混ざってできている。

 今日はその全部を、いずみと一緒に少しずつ浴びていた。


 たぶん、本物を見るというのは、こういうことなのだと思う。

 画面越しの先にあったはずのものが、思っていたより大きくて、近くて、にぎやかで、ちゃんと温度を持っていること。


 そして、そのにぎやかさの中で、今日の私は思っていたよりずっと素直だった。


 楽しい。

 もっと見たい。

 まだ終わらないでほしい。


 そういう気持ちを、今はあまり隠さなくていい気がした。


 次のレースが近づいてくる。

 人の流れがまた少し変わる。

 私たちは、その新しい熱のほうへ、自然に目を向けていた。


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