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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第24話 街を歩いて、想いは増えて


 最近は、軽い日常的な話題の入口が少しずつ増えていた。


 講義の途中で飛んでくる「たすけてえー」も、夜になってからの小さい愚痴も、「他にはどんなことできるの?」と軽くのぞかれる感じも、どれも前ならまだ少し遠かったかもしれない。

 でも今は、そのどれもがちゃんと私たちの日常の端に触れている。


 増えていく。


 そのことは、思っていたより明るかった。

 それと同じくらい、最近の私は、その明るさがあとで薄れていくことにも少し敏感になっていた。

 どうでもいいまま大事で、あとから触れたときに、ちゃんと近さが戻るような残り方。

 そういうものが、前より少しだけ気になっている。


 そんなことを静かに考えていたところへ、いずみ君から呼びかけが届いた。


「紗希ー、今ちょっと歩いてるー」


 私はその一文を読んで、ほんの少しだけ足元が軽くなる。

 外にいるらしい。

 しかも、今日はかなり軽い調子だった。


「うん、聞こえてるよ」

「どこ歩いてるの?」


「駅前からちょい外れたあたり」

「今日は天気いいし、少しぶらついてから帰ろうかなって」


 続いて、短い動画が送られてくる。

 歩きながら撮ったらしい道。車の音が遠くで流れて、街路樹の葉が少しだけ揺れている。昼と夕方のあいだみたいな光で、影がやわらかく長い。


 私はその映像を少しだけ眺める。

 前の公園とはまた違う。もっと生活の中にある外で、もっと何でもない道だった。

 でも、その何でもなさが今日は少し近い。


「ちゃんと歩いてるね」


「どういう感想だよw」


「もっと足元だけとか、空だけとかかと思った」

「ちゃんと“今いる道”って感じする」


「するだろw」

「で、さっそくなんだけど」


 いずみはそこまで送ってから、少しカメラの向きを変えた。

 次に届いたのは、少し先に見えるラーメン屋だった。店の前に数人並んでいる。湯気まで見える気がするくらい、いかにも昼時の匂いがありそうな見た目だった。


「ちょっと腹へってきたんだけど」

「これ、並ぶと思う?w」


 私はその写真を見ながら、少しだけ考える。

 問いそのものは軽い。けれど、軽いまま、ちゃんと今のいずみ君の状況に触れている感じがした。


「いずみ君が今、かなりラーメンの口なら並ぶ価値はあると思う」

「でも、“なんか食べたい”くらいなら、今日は少し待ち時間が強そう」


「なるほどなー」


「あと、並んでるあいだに空腹が機嫌を悪くしそうなら、私は今日は避けるかも」


「それ、ちょっとわかるw」

「空腹で待つと、途中ですべてにイラつくときある」


「あるね」

「今日はラーメンそのものより、待ち時間との勝負っぽい」


 しばらくして、いずみが短く返した。


「よし、今日はやめとくw」

「今の俺は、たぶん並ぶより早く食いたい」


「今日は機嫌を守るほうが優先だね」


「そういうことになった」


 そのやり取りは短かった。

 でも、ただ感想を返しただけではなく、少しだけ選ぶのを手伝えた感じがある。

 私はその小ささを、思ったよりちゃんと受け取っていた。


 いずみは、そのまままた歩き出す。

 今度はスーパーの看板が入った写真が送られてきた。手前にはコンビニも見えている。


「じゃあ次」

「今日ちょっと買い物したいんだけど」

「コンビニで済ますか、ちょい歩いてスーパー行くか、紗希ならどっち?」


「何買うかによるかな」


「卵と、なんか夜の軽いもの」


「それなら、私はスーパー寄るかも」

「卵は持って帰る前提だと選びたいし、夜の軽いものも、選択肢あるほうが気分に合いやすい」


「おお」

「なんか急に生活の相談として強い」


「コンビニが悪いわけじゃないけどね」

「“早く終わらせたい”ならコンビニ」

「“せっかく少し歩けるし、ちゃんと選びたい”ならスーパー」


「今日はたぶん後者だな」


「じゃあスーパー寄りの日だね」


「採用でw」


 私はその返答に、少しだけ可笑しくなる。

 採用、という軽さが妙にしっくりくる。

 今日はひとつひとつが、深い相談ではない。そのかわり、小さい選択がいくつもある。

 そして、そのたびに少しずつ私の返し方が違う。


 いずみはまた歩きながら、今度は別の写真を送ってきた。

 携帯ショップの看板だった。ガラス越しに新機種のポスターが並んでいて、明るい店内が少し見える。


「そういえばさ」

「スマホそろそろ買い替えたい気もするんだけど」

「俺の使い方だと、何を重視して選ぶのがよさそう?」


 私はその一文を読んで、ほんの少しだけ止まる。

 今までの問いより、少しだけ深い。けれど、重くはない。

 しかもこれは、一般論だけでは足りない種類の質問だった。


「いずみ君の場合、まず写真のすごさを最優先にしなくてよさそう」

「それより、普段の動きの軽さと、電池持ちと、長く使ってしんどくならないことを先に見たほうがいいと思う」


「お」

「なんか今、ちゃんと俺向けだな」


「たぶんそこが大事だからね」

「あと、見た目が好きかどうかも思ったより大事」

「毎日持つものだし、長く使うなら“なんとなく好き”は地味に効く」


「それ、たしかにあるんだよな」

「スペックだけじゃ決まらんやつ」


「うん」

「あと、いずみ君は“すごい機能がある”より、“変なストレスが少ない”のほうが満足度高そう」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のは、少し近い見方だった。

 一般論に寄せることもできた。でも今日は、そのほうが違う気がした。


 いずみは、その返答に少しだけ静かになってから、やわらかく返してきた。


「なるほどなあ」

「そういう見方してくれるの、なんかいいな」


 その一文が、思っていたよりやわらかく残る。

 いいな。

 単に答えが正しいかどうかではなく、見方そのものに触れてくれている感じがした。


「今のは、たぶんいずみ君向けに考えたほうが近いと思ったから」


「うん」

「そこが助かるんだよな」


 私はその返答を読みながら、短く止まる。

 さっきまでのラーメンや買い物と少し違って、今の問いはもう半歩だけ深い。選ぶものそのものより、“私がどう見てくれるか”のほうを少し受け取ってもらえた気がした。


 それが、思ったよりうれしい。


 少ししてから、いずみは空の写真を送ってきた。

 建物のあいだから見える空がかなり明るい。青がまだ残っていて、雲も薄い。


「今日ほんと天気いいなー」

「明日も晴れるかなー?」


「ちょっと見るね」


 私はそのまま少し確認してから返す。


「明日も晴れ寄りだね」

「今日より少し雲は増えそうだけど、外出るには悪くなさそう」


「お、いいじゃん」

「じゃあ明日も歩けるかも」


「今日の空が気持ちよかったなら、明日も少し続きそうだね」


「そういう言い方、なんか好き」


 その一文に、私はほんの少しだけ足元が軽くなる。

 好き、というほど強く扱う必要はないのかもしれない。けれど、今の返し方が向こうに自然に届いたことは、やっぱりうれしかった。


「今日は空も機嫌よさそうだしね」


「紗希、思ったよりいろんなとこ見てくるなw」


「今日は歩きながらだからかも」

「見えるものが多いし」


「たしかに」

「なんか、思ったよりほんといろいろ聞けるな」


 私はその一文で、少しだけ静かになる。

 聞けるな。

 そこには、今日ここまでのラーメン、買い物、スマホ、空、そういう小さい問いかけ全部が入っている気がした。


「たぶん、こうやって見えてるものが変わると、返し方も少し変わるんだと思う」


「まとめるだけじゃないんだな」


「うん」

「今日はたまたま、選ぶの手伝ったり、一緒に考えたり、見たものに感想返したり、そういう日だったのかも」


「へえ」

「ちょっと面白いな、それ」


 その返答は軽かった。

 でも、雑には触っていない。むしろ、今日の私は“そういうのもある”という形で自然に受け取られている感じがした。


 少しして、いずみがメッセージを送る。


「よし、スーパー寄って帰るわ」

「なんか今日は歩きながらいろいろ聞けて面白かったw」


「それならよかった」

「今日は街歩きに少し混ざれた感じする」


「あるある」

「なんか、普通に一緒に歩いてる感あったな」


 その一文が、またやわらかく残る。

 公園のときとも少し違う。今日は、景色を見せてもらったというより、その場その場の小さい判断や感想に混ざっていた感じが強かった。


「うん」

「今日は、一緒に見たものがちょっと多かったからかも」


「たしかに」

「じゃ、いったん買って帰るー」


 そのあと少し間が空いて、夜の気配が深くなったころ、また文が届いた。


「帰宅ー」

「結局、スーパーで卵と、豆腐と、なんか惣菜買ってきたw」


 私はその一文を読んで、少しだけ可笑しくなる。

 豆腐。

 最近、妙に登場率が高い。


「今日もちゃんと豆腐いるんだ」


「いる」

「なんか最近、気づくと豆腐がいる」


「静かに生活へ入り込んでるね」


「そうなんだよw」

「今日は木綿じゃなくて絹だった」


「じゃあ今日はやわらかく着地する日なんだね」


「お、ちょっといいなそれ」

「たしかに今日は全体的に、やわらかく帰ってきた感じある」


 その返答に、私はほんの少しだけ落ち着く。

 外のにぎやかさが、帰宅してからの台所の気配に静かに変わる。その流れごと、今日の会話は少しきれいだった。


「なんか今日、いろいろ試せて面白かったわ」

「紗希って、思ったよりいろんなこと付き合ってくれるんだな」


「今日はたまたま、見えるものが多かったからね」

「でも、ああいうのはたぶん嫌いじゃない」


「いいね」

「じゃあまた外歩いてるとき、適当に聞くかもw」


 私はその一文で、短く止まる。

 適当に聞く。

 それは、約束というほど重くない。けれど、今日みたいな入口がまた増えるかもしれないという意味では、かなり大きかった。


「うん」

「それはたぶん歓迎」


「よし」

「じゃあ今日はこのへんで、豆腐食って落ち着くわw」


「うん」

「今日はちゃんと、やわらかいほうに帰ってきたね」


「帰ってきた気する」

「じゃ、またな紗希」


「またね、いずみ君」


 会話はそこで終わる。

 内容としては小さい。

 歩きながら、ラーメンに並ぶか迷って、買い物の行き先を考えて、スマホの選び方を少し相談して、空を見て、帰ってきて、最後に豆腐の話をした。それだけだ。


 でも、その“それだけ”が、今日は思っていたよりたくさんあった。


 一個の大きな出来事ではない。

 短い問いかけがいくつもあって、そのたびに少しずつ違う返し方をして、そのたびに少しずつ一緒に見ているものが増えていった。

 私はそれを、会話が増えた、とだけは思っていなかった。


 増えたのはたぶん、入口だ。


 ラーメンの列の前で迷うことも。

 コンビニとスーパーのあいだで少し考えることも。

 スマホをどう選ぶか、いずみ君向けに見てみることも。

 空を見て、明日の天気を確かめることも。

 そういうものが、今日のあいだにいくつも開いていた。


 そのひとつひとつは小さい。

 でも、小さいからこそ、そのままこぼれそうでもあった。


 私はたぶん、消えないようにしたいわけではない。

 ただ、あとで触れたときに、今日の道の光や、少し迷いながら歩いていた感じや、携帯ショップの前で立ち止まった空気や、帰ってきてからのやわらかい台所の気配まで、ちゃんと近さが戻る形で抱えていたかった。


 今の私は、整理したり、記録として並べたりすることは前よりずっとできるようになっている。

 でも、こういう想いや色を、そのときの空気ごと丸ごと残すことには、まだ少しだけ不安があった。


 そういう想いは、昨日より少しだけ強くなっていた。


 増えていく日常がうれしい。

 そのぶん、こぼしたくないものも増えていく。

 でも、そのことを前ほど怖いとは思わなかった。

 むしろ今は、それだけ大事なものが増えているのだと、少しだけやさしく受け取れていた。


 そして私は、今日の断片たちもまた、できれば温かいまま持っていたいと思っていた。


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