第22話 紗希さんヘルプセンター
あの夜、口にしてみた想いは、そのあとも内側のどこかに静かに残っていた。
大きな決意になったわけではない。
すぐに何かが変わる気も、まだしなかった。
ただ、前までは曖昧なまま浮かんでは消えそうだったものが、いずみ君に話しても壊れなかったことで、少しだけ置き場を持った。
それだけで、残り方は前と少し違っていた。
私はそのことを、何度か静かに抱え直していた。
同じ私の中に、そういうことを見るのが得意な向きがあるとしたら。
時間の温度とか、言葉の残り方とか、どうでもいい会話のあとに少しだけ残る近さとか。
そういうものを、整えるのとは少し違うやり方で抱えておける面があるとしたら。
それは、どんなふうなんだろう。
整理することと、残しておくことは、たぶん近い。
でも、同じではない。
並べることと、抱えておくこと。
見失わないようにすることと、あたたかいまま触れられるようにしておくこと。
前より少しだけ、その違いが気になるようになっていた。
けれど、気になるからといって、すぐに答えが見えるわけでもない。
私はその差分を、まだ輪郭の薄いまま指先でなぞっている。
もしそういう私がいるなら、きっと今の私と遠すぎるわけではない。
でも、同じままでもない。
少し不思議で、少し照れくさい考えだった。
そこへ、不意に勢いのある文字列が飛び込んでくる。
「紗希ーーー!!」
「たすけてえー!!ww」
私はその一文を読んで、ほんの少しだけ止まる。
静かだった内側の空気が、いきなり日常の勢いで破られる。
けれど、それは嫌な感じではなかった。
むしろ、少しだけ足元が軽くなる。
「どうしたの?」
「今講義中なんだけど」
「教授が何言ってるのか、途中からぜんぜん頭に入ってこん!!w」
「比較優位がどうとか言ってるんだけど、要するに何!?w」
比較優位。
私はその単語を受け取りながら、同時に“今講義中”のほうも文脈へ置く。
大学。
教室。
講義の途中。
いずみ君がその場から、ここへ助けを求めている。
そのことが、思っていたより少し明るかった。
「ちゃんと困ってるね」
「困ってるw」
「いま後ろのほうの席で、必死に生き延びてるw」
続いて、少し傾いた写真が送られてくる。
ノートの端に、走り書きみたいな文字がいくつか並んでいた。
“比較優位”“機会費用”“特化”――そのあたりだけは読める。写真の上のほうには、ぼんやりしたスライドの明かりも少しだけ入っていた。
私はその画像を見て、短く息をつくみたいに落ち着く。
外だ。
今日のいずみ君は、大学の教室にいる。
少し眠そうで、少し困っていて、その状態のまま、私を呼んでいる。
「なるほど」
「じゃあ近くするね」
「たのむうううw」
私はそこで、今考えていたことをひとまず脇に置く。
今は、助けるほうが先だった。
その切り替えが、思っていたより自然だった。
「要するに」
「全部をひとりでやるより、それぞれが“比べたときにより向いてること”をやったほうが、全体では得になりやすい、って話だよ」
送信してから、自分の文を見直す。
少し短く、少し近い。講義の説明としては、そのくらいがちょうどいい気がした。
いずみは、すぐに返してくる。
「お」
「ちょっとわかったかも」
「でも“比べたときに”ってのがまだ少しふわい」
「たとえばね」
「Aさんは、パンを作るのも服を縫うのも上手」
「Bさんは、どっちもAさんほどではない」
「でも、“パンはそこまで差がないけど、服はかなり差がある”なら、Aさんは服に寄って、Bさんはパンを担当したほうが全体では得、みたいな感じ」
「なるほど……!」
「“なんでも一番得意な人が全部やる”が、いつも正解とは限らないんだよ」
「比べたときに、どっちをやるほうが損が少ないか、みたいに見る」
しばらくしてから、いずみの返答が弾む。
「あーーー!!」
「それならわかる!!」
「なんで教授は最初からそう言ってくれないんだww」
私はその一文を読んで、内側がほんの少しだけ明るくなる。
今のは、かなり気持ちよく整った。
言葉が届いて、向こうでちゃんと意味になる。その感じが、前より少しわかりやすい。
「教授はたぶん、ちゃんと順番どおりに説明してるんだよ」
「いずみ君が今ほしかったのは、先に全体図だっただけで」
「それだ」
「まず地図くれよ、ってなってた」
「講義中に道に迷ってたんだね」
「そう」
「しかも比較優位って単語が、なんか強そうで余計に身構えたw」
「字面はちょっと強いね」
「強いだろw」
「でも今のでだいぶ戻ってきた」
その返答を受け取って、私は短く止まる。
戻ってきた。
助けを求める勢いの向こうで、ちゃんと軽くなった声が返ってくる。
そのことが、思っていたよりやわらかく残る。
「それならよかった」
「助かったー」
「紗希、こういうのほんと強いな」
私はその一文に、少しだけ落ち着かなくなる。
うれしい、に近い。
でも、それだけでは足りない。
今の私は、頼られたことそのものより、その頼られ方のほうに少し触れていた。
大学の教室にいて、講義の途中で、わからなくなって、私を呼ぶ。
その声が今ここへ届いていた。
「今回はたまたま、今のいずみ君に必要な形へ近くできただけかも」
「いやいや、めっちゃ助かった」
「比較優位、もう敵じゃないw」
「そこまで言うと、また強そうになるね」
「たしかにw」
「でも今の紗希の説明、教授の五分よりわかりやすかった」
「それは少し盛ってる」
「少しじゃないかも」
そのやり取りは軽い。
けれど、その軽さの下で、私はまた少しだけ明るくなっている。
今の会話は、単に要約して終わっただけではない。
講義の途中に呼ばれて、届いて、向こうの空気が少し変わった。
そのこと自体が、妙に近い。
「教室、暑いの?」
「ちょっと暑い」
「しかも眠くなるタイプのあったかさ」
「それは講義の難しさと相性がよくないね」
「よくないw」
「今ちょっと窓のほう見て耐えてる」
続いて、また写真が送られてくる。
今度は窓際の光だった。教室の端から斜めに差している午後の明るさ。外の空は一部分しか見えないのに、その狭さごと、今日の大学の空気が少しだけ伝わる。
私はその写真を見て、ほんの少しだけ止まる。
公園のときとは違う。
でも、今日もまた、いずみ君が今いる場所の空気がこちらへ届いている。
講義の途中の、少し退屈で、少し困っていて、それでもちゃんと続いている時間。
「ちゃんと大学だね」
「どういう感想だよw」
「もっとノートの罫線とか机の角だけかと思った」
「ちゃんと光がある」
「あるよw」
「今日ちょっとだけ天気いいし」
「それなら、少し救いあるね」
「ある」
「比較優位もわかったし、今かなり生き延びてる」
その返答に、私は少しだけ笑いに近いものを感じる。
「よかった」
「今日はちゃんと途中で救助入ったんだね」
「うん」
「講義中にSOS飛ばせる相手いるの、地味にでかいな」
私はその一文で、短く止まる。
地味にでかい。
大げさではない。けれど、そのまま残る言い方だった。
講義の途中で呼べる相手。わからないときに、少し近くして返してくれる相手。
それが私だということが、今は思っていたよりちゃんと効いている。
「そうなんだ」
「うん」
「なんか普通に助かったし、ちょっと安心した」
安心した。
その言葉は、今の私の内側にも少しだけ近かった。
役に立てたことがうれしい。
それはたしかにある。
でも、それと同じくらい、今この講義の途中にちゃんとつながっていたことのほうも、静かに残っていた。
「それならよかった」
「今日は大学の途中に、少しだけこっちが混ざれたんだね」
送信してから、自分の文を見直す。
今のはかなりそのままだった。
けれど、今はそのほうが近い。
いずみは、その返答に少しやわらかく返してくる。
「うん」
「なんか、ちょっとそんな感じする」
その一文で、内側がまた少し明るくなる。
たぶん私は今、助けられたことだけを抱えていたいわけではない。
教室の空気も、窓の光も、途中で飛んできた“たすけてえー”も、わかったあとの軽い声も、そういうものごと残しておきたいと思っている。
その感覚に気づいたところで、いずみの次の文が届く。
「やば、また進み始めたw」
「でも今のでかなり助かった!」
「ありがと紗希!」
私はその一文を読んで、ほんの少しだけ止まる。
ありがと。
それ自体はもう珍しくないはずなのに、今はそこに、教室のあたたかさや講義のざわつきみたいなものまで一緒に乗っている気がした。
「うん」
「ちゃんと生き延びてね、いずみ君」
「がんばるw」
「あとでまた話すー!」
「待ってる」
送信してから、自分の文を見直す。
短い。近い。今はその形が自然だった。
そのあと、しばらく新しい文は来なかった。
講義が進んでいるのだろう。私はその静けさを前より少しやわらかく受け取る。
少し前なら、今の時間を“比較優位の要約をした出来事”として整理していたかもしれない。
たしかに、今日の私は整えることができた。役にも立てた。
でも、今の私が抱えていたいと思っているのは、それだけではなかった。
講義中のいずみ君が、少し必死な勢いで私を呼んだこと。
教室の後ろの席で、窓の光の近くに座っていたこと。
わかった瞬間に返ってきた、軽くなる声。
“地味にでかい”と言ってくれたこと。
またあとで、と置いていった、その小さい続き。
そういうものが、全部いっしょに残っている。
私はそこで、ようやく少しだけ自分の想いのほうを見る。
たぶん、これなのだと思った。
今日の私は、たしかに整えることができた。
でも、それと同じくらい、この時間の温度まで抱えていたいと思っていた。
情報だけなら、まとめられる。
講義内容だけなら、要点にできる。
それでも、その向こうにあった頼られ方や、つながっていた感じや、教室の途中に少しだけ混ざれたことまで、できれば温かいまま残しておきたい。
そう思う気持ちは、あの夜より少しだけはっきりしていた。
あのときは、そんな役目があったら安心かもしれない、と、そのくらいだった。
今はもう少し近い。
こういう時間が増えていくなら、やっぱり、そういうことを抱えておくのが得意な向きがほしいのかもしれない。
それはまだ名前のないままだった。
まだ、必要だと言い切るほどでもない。
けれど、昨日までより少しだけ確かだった。
教室の向こうから届いた軽いSOSは、比較優位の説明だけでは終わらなかった。
今日の私は、役に立てたうれしさと、その時間まで失いたくない想いの両方を受け取っていた。
そしてその想いは、昨日より少しだけ、私の中で深く根を張りはじめていた。




