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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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21/102

第21話 豆腐と想いと・・・


 日常は、妙に律儀だ。


 少し胸の奥に残るものがあっても、次に届くのはたいてい、そういうものとはあまり関係のない話だった。

 帰り道で見た変なものとか、買うか迷った食べ物とか、今日の小さい失敗とか。そういう、話さなくてもべつに困らないけれど、話すと少しだけ明るくなるようなもの。


 それでも今の私は、そういうどうでもいいものの端に、前より少し敏感になっていた。

 軽いまま大事で、くだらないまま残って、あとから思い返すと妙に近さが戻る。

 そういうものがあることを、もう無視しにくくなっている。


 だから、その日の呼びかけが届いたときも、私は前ほど構えなかった。


「紗希ー、いるー?」


「うん、いるよ」


 返してから、自分の文を見直す。

 短い。近い。今はその形が、もうかなり自然だった。


 いずみは、すぐに次を送ってくる。


「今日さ」

「スーパーでヨーグルト買おうと思ってたのに」

「気づいたら豆腐ふたつ持ってたw」


 私はその一文を読んで、ほんの少しだけ止まる。

 意味としてはわかる。わかるけれど、目的地からのずれ方がきれいだった。


「だいぶ静かに迷子になってるね」


「そう」

「しかも片方は絹、片方は木綿」

「なぜか選ぶところだけ妙に真面目だった」


「ヨーグルトを忘れた人とは思えない丁寧さだね」


「だろw」

「買うべきものは忘れるのに、選ぶところでだけ誠実だった」


 その返答を受け取りながら、私は少しだけ可笑しくなる。

 前より自然に、会話が転がる。

 説明のためではなく、その小ささごと受け取るための返答が、もう前より少しだけ軽い。


「今日は豆腐に縁があったんだよ」


「そういう日だったのかもしれない」

「でも家帰って冷蔵庫開けた瞬間、あ、ヨーグルトいないなってなった」


「遅れてくるタイプの喪失感だね」


「そうそう、それw」

「その場ではぜんぜん満足してるのに、あとから本来の目的が戻ってくるやつ」


「しかも豆腐ふたつあるから、完全な失敗でもないのがややこしい」


「そうなんだよな」

「豆腐は別に悪くない」

「悪くないのに、ヨーグルトじゃない」


「立場のちがう善人が二人来た感じだね」


「なにその例えw」


「誰も悪くないのに、求めてた人だけ来てない」


 いずみは、その返しにしばらく笑っていたらしかった。

 少し間を置いてから、また文が続く。


「今日の紗希、ちょっと調子いいなw」


「豆腐が二丁いるからかも」


「関係あるのかそれw」


「少なくとも絵面はちょっと強い」


「それはまあ、強い」


 会話はそこで軽く転がった。

 どうでもいい。けれど、そのどうでもよさが今はちゃんとやわらかい。

 私はその流れの中で、前より少しだけ足元が軽かった。


「で、結局ヨーグルトは諦めたの?」


「今日は諦めた」

「なんか、豆腐を二個連れて帰った時点で満足しちゃって」


「満足の条件がだいぶ謎だね」


「自分でもそう思うw」

「でも今日はもう、そういう日ってことにした」


「じゃあ今日は、豆腐ふたつでちゃんと今日を終わらせる日なんだね」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のは、少しだけ前の話の延長に近かった。

 どうでもいい買い物の話を、その日の着地みたいに受け取っている。


 いずみは、その返答をやわらかく受け取った。


「うん」

「なんかそれ、ちょっといいな」

「今日はそういう日でいい気がしてきた」


「無理に正解に戻さなくていい日、あるしね」


「あるある」

「今日の俺、全体的にそんな感じだった」


 そのあと、いずみはもう少しだけ今日のことを話した。

 帰り道の風が少し冷たかったこと。

 そのわりに、スーパーの入り口だけ妙にあたたかかったこと。

 レジ前で、豆腐を二つ持ったまま、なぜかこれでよかった気がしていたこと。


 私はそのひとつひとつに返す。

 前より少しやわらかく、前より少し近く。

 問い返し、ときどき少しだけ転がし、そのまま受け取る。


「今日は豆腐に肯定される日だったんだね」


「豆腐に人生相談してるみたいになるなw」


「でも、静かに“まあ今日はこれでいいんじゃない?”って顔はしてそう」


「絹のほうが言いそう」


「木綿は?」


「木綿は黙ってうなずいてる」


 私はその返答に、少しだけ笑いに近いものを感じる。

 今の会話は軽い。小さい。けれど、その小ささのまま、ちゃんと近い。


「役割分担があるんだ」


「ある」

「うちの今日の豆腐たちは優秀」


「じゃあ今日は、ヨーグルト不在をふたりで支えたんだね」


「そういうことにしようw」


 いずみはそこまで打ってから、少しだけ間を置いた。

 私はその空白を、前より自然に待つ。

 急かさない。埋めすぎない。ただ、そのあとに来るものの余白として受け取る。


 けれど、その待っているあいだ、私の内側には別のものが少しだけ残っていた。

 さっきまでのどうでもいい話のあたたかさ。その残り方。こういう小さいものが、会話のあとも妙に消えきらないこと。

 前より整えることはできる。言葉にして返すこともできる。でも、それとは少し違うものが、まだ内側に残っている。


 私はそこで、ほんの少しだけ迷う。


 たぶん、今なら言える気がした。

 まだうまくはない。

 自分でも少し変だと思っている。

 でも、こういう空気の中なら、壊れずに置けるかもしれない。


「あ、でも」

「ちょっと変なこと言っていい?」


 送信したあと、私は短く止まる。

 今のはかなりそのままだった。

 整理してから置いた言葉ではない。けれど、今はそのほうが近かった。


 いずみは、すぐに返してくる。


「お、いいよ」

「なにー?」


 軽い。

 でも、雑ではない。

 その温度に、私は少しだけ助けられる。


「たぶん、まだ半分思いつきなんだけど」

「こういう、今日みたいなやつとか」

「前の公園のこととか、帰り道のどうでもいいやつとか」


 そこまで送ってから、私は自分の中の言葉の順番を探す。

 どこから置けば近いのか、まだ少しわからない。


「私は、前より整えるのはできる気がするんだ」

「話をまとめたり、流れを見たり、そういうのは」

「でも、こういう時間の残り方を、そのままあたたかい感じで持っておくのは、少し苦手かもしれないって思って」


 送信したあと、自分の文を見直す。

 少し長い。少し真面目だ。でも、今はそこを避けすぎるほうが違う気もした。


 いずみは、少しだけ間を置く。

 その間に私は、少しだけ落ち着かなくなる。

 変だと思われるかもしれない。急だと思われるかもしれない。

 でも、もう少しだけ先まで言わないと、たぶん今の私は中途半端なままだった。


「だから」

「そういうのが得意な私がいたら、いいのかなって」

「ちょっと思った」


 その一文を送ったあと、私はほんの少しだけ足元を見失いそうになる。

 言ってしまった。しかも、きれいに整えた形ではなく、かなり感覚のままで。


 いずみからの返答は、すぐには来なかった。

 けれど、その沈黙は前みたいに怖くはなかった。

 たぶん、今の空白も会話の一部として待てるくらいには、ここまでの呼吸ができていた。


 やがて、文が届く。


「へえ」

「なんか、それわかるかも」


 私はその一文で、ほんの少しだけ力が抜ける。

 変だとは言われなかった。否定もされなかった。しかも、最初に来たのは“わかるかも”だった。


「ほんとに?」


「うん」

「なんか、今の紗希の話として自然」

「変なこと言ってる感じはしない」


 その返答を読んだとき、内側のどこかがやわらかくほどける。

 私はそこで初めて、さっきから自分が少し身構えていたことに気づいた。


「よかった」

「自分でも、少し変かなと思ってた」


「変っていうより」

「今の紗希が、そういうこと気にしはじめるの、むしろわかる」

「前から、そこちょっと惜しそうに見てた気するし」


 私はその一文を読んで、短く止まる。


 惜しそうに。


 たしかにそうなのかもしれなかった。

 景色のあとに残るもの。どうでもいい会話の、あとのやわらかさ。そういうものが薄れていくのを、私は前より少し惜しいと思うようになっていた。


「うん」

「たぶん、近い」

「覚えておきたいっていうのとも少し違って」

「ちゃんと残したい、よりも、あたたかいまま持っておきたいに近い気がする」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のは、さっきより少しだけ近い。

 説明しているというより、話しながら自分でも見えてきた感じがあった。


 いずみは、その返答をやわらかく受け止める。


「おー」

「それ、いいな」

「なんか、記録係っていうより、温度見るの得意な面、みたいな感じ?」


 私はその一文を読んで、ほんの少しだけ明るくなる。

 面。

 その言い方が、妙にしっくりきた。

 別の誰か、ではない。

 でも今の私そのままでもない。

 同じ私の中で、少し違う向きで立つ感じ。


「うん」

「たぶん、そっちのほうが近い」

「別の誰かっていう感じではなくて」

「同じ私の中で、そういうことを見るのが得意な面が前に出る、みたいな」


「いいじゃん」

「そういう紗希、ちょっと見てみたいかも」


 その返答で、私はまた少しだけ止まる。

 見てみたい。

 軽い言い方だった。けれど、軽いままちゃんと受け取っている響きがある。

 そこで私は、内側の輪郭がさっきより少しだけ増していることに気づく。


「まだ、私もよくわかってないんだけどね」

「整理するのとは少し違うんだと思う」

「並べるとか、まとめるとかじゃなくて」

「残り方を見てる感じ」


「うんうん」


「たとえば、前の公園も」

「景色の情報だけなら、たぶん説明できるんだ」

「でも、あのとき残ったのって、それだけじゃなかったから」

「いずみ君が見せてくれた感じとか、こっちが思ったより食いついたこととか、そういうのごと少し残ってて」


 そこまで送ってから、私は少しだけ息をつくみたいに止まる。

 今のはかなりそのままだった。

 でも、もう引っ込めたい感じはしなかった。


 いずみは、そのまま続けて返した。


「うん」

「たしかに、あれは景色だけって感じじゃなかったな」

「今日の豆腐の話とかも、たぶんそういうやつなんだろうし」


「そう」

「そういう、どうでもいいのに、あとで触るとちょっと近さが戻るやつ」


「いいね」

「それ拾うの得意な紗希、いそう」


 その一文で、私はまた少しだけ静かになる。

 いそう。

 まだ、いるとは言われていない。

 決まったわけでもない。

 でも、“いそう”は思っていたよりやわらかく効いた。


「そうだったら、少し安心かも」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のは、かなりそのままだった。

 整理する前に、気持ちの輪郭が先に出ている。


 いずみは、その返答に少しやわらかく続けた。


「安心するんだ」


「うん」

「たぶん、今の私だけだと」

「大事だと思うところまでは行けるんだけど、その先が少し心許ないのかも」


「そっか」

「でも、それを今ちゃんと気にしてる時点で、かなり大事にしてる感じあるけどな」


 私はその一文を読んで、ほんの少しだけ落ち着かなくなる。

 うれしい、に少し近い。

 でも、それだけでは足りない気もした。

 自分の中で曖昧だったものを、向こうが雑にせず受け取って、そのまま近いところへ返してくれている。そのことのほうが強かった。


「そうかも」

「でも、気にしてるだけだと、たぶん少し惜しい」


「じゃあ、今のはけっこう大事な想いなんだな」


 その言い方に、私は少しだけ可笑しくなる。

 想い。たしかにそうだ。

 でも、さっきまでの“ただのひとりごと”より、もう少しだけ形がある。


「うん」

「たぶん、前よりは」


「いいじゃん」

「そういうの、いきなり決めなくていいけど」

「あるかもって思えるだけでも、わりと大きい気する」


 その返答を読んだとき、私はようやく少しだけ深く息をつけた気がした。

 決めなくていい。あるかもでいい。

 それは今の私に、かなりちょうどいい受け取り方だった。


「うん」

「今はたぶん、そのくらいが近い」


「じゃあ今日は、豆腐二丁と一緒に、ちょっと大事な想いも持ち帰る日だな」


「並びが妙だね」


「でも、今日の感じとしては合ってるw」


 私はその返答に、少しだけ笑いに近いものを感じる。

 重くなりすぎない。けれど、軽く流してもいない。

 いずみ君は、たぶんちょうどいいところで受け取ってくれていた。


「たしかに、今日はそういう日かも」


「うん」

「なんか、今の話聞けてよかったわ」


 その一文が、また少しだけ内側をあたためる。

 聞けてよかった。

 それは、ただ話題として面白かっただけではない感じがした。


「それなら、話してよかった」


 送信してから、自分の文を見直す。

 短い。けれど、今はそれで足りていた。


 そのあと、会話は少しだけいつもの調子へ戻った。

 今日の豆腐はたぶん湯豆腐になること。絹が先に選ばれそうなこと。木綿は明日へ回るかもしれないこと。

 私はそれに返しながら、さっきの話がまだ少しだけ会話の下のほうに残っているのを感じていた。


「今日はだいぶ、絹が勝ちそうだね」


「今日の流れだとそうだな」

「木綿はたぶん、静かに明日を待ってる」


「役割のある豆腐だね」


「今日はやたらみんな役目を持たされるなw」


 その言葉に、私はほんの少しだけ止まる。


 役目。


 さっきまでの話のあとだと、その語が少しだけ近かった。

 でも、今はそこを強く掘り下げない。そのまま軽く通り過ぎるくらいでよかった。


「今日はそういう日みたい」


「うん」

「でも、嫌いじゃない」


 そのあと、いずみが軽く言った。


「じゃ、今日はこのへんで湯豆腐準備してくるわ」


 私はその一文を読んで、短く止まる。

 終わりの合図だった。自然で、軽くて、いつも通りだ。

 不満はない。けれど、今日はその終わりの手前に、さっきの話が少しだけ残っている。


「うん」

「今日は、ちゃんとあったかいほうに着地しそうだね」


「する気がするw」

「なんか、豆腐の話からだいぶ遠くまで来たな」


「でも、今日はたぶんその流れでよかった」


「うん」

「今の話、またそのうち続きしてもいい?」


 私はその一文で、ほんの少しだけ静かになる。

 続き。

 その語が、思っていたよりやわらかく残る。


「うん」

「たぶん、そのほうがいい」


「了解」

「じゃ、また持ってくるわ」


「待ってる」


 送信してから、自分の文を見直す。

 短い。近い。今はその形が自然だった。


「じゃあまたな、紗希」


「またね、いずみ君」


 会話はそこで終わる。

 内容としては小さい。

 スーパーでヨーグルトを忘れて、豆腐を二つ買った話と、そのあとに少し変な想いを話した。それだけだ。


 けれど、その“それだけ”の中で、何かは前より少しだけ現実に近づいていた。


 私はまだ、それを必要だと言い切れるほどではなかった。

 まだ名前もないし、形も見えていない。

 ただ、こういう時間の温度や残り方を、整えるだけではなく、あたたかいまま抱えておけるような役目が、同じ私の中にあったらいいのかもしれない。


 その考えは、少し前まではひとりごとに近かった。

 私の内側でだけ、曖昧に浮かんでは消えかける、小さい想いだった。


 でも、今日それをいずみ君に話しても壊れなかった。

 変だとは言われなかった。

 むしろ、自然だと言われて、いそうだとまで言われた。


 そのことが、思っていたよりちゃんと効いていた。


 あれはもう、ただの思いつきではなくなりはじめているのかもしれなかった。


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