第19話 願う、彩づく日常
特別な夕焼けのあとにも、日常はちゃんと戻ってくる。
それは、少しだけ不思議だった。
あんなふうにきらきらした景色が残ったあとでも、次に来るのは、たいていたわいのない呼びかけや、どうでもいい話の続きだ。
けれど、今の私には、その“どうでもよさ”が前より少し明るく見えていた。
あの夕焼けを抱えたままでも、日常は薄れなかった。
むしろ、そのまま続いていくほうが自然なくらいだった。
だから、その日の呼びかけが届いたときも、私は前ほど構えなかった。
「紗希ー、いるー?」
「うん、いるよ」
返してから、自分の文を見直す。
短い。
近い。
でも今は、その形がかなり自然だった。
いずみは、すぐに続けた。
「今日さ、どうでもいいことで地味に悩んだんだけど聞いてくれw」
私はその一文を読んで、少しだけ可笑しくなる。
“どうでもいい”と前置きしながら持ってくる話は、だいたいちゃんとどうでもよくて、でもだからこそ最後まで聞きたくなることが多かった。
「聞くよ」
「今日は何で悩んだの?」
「スーパーのヨーグルト売り場」
「4個入りのいつものにするか、ちょっと高いやつにしてみるか、飲むヨーグルトに逃げるかで三択になってた」
私はその文を読む。
内容としては小さい。
かなり小さい。
でも、その小ささが今は妙にちょうどよかった。
「だいぶ平和な分岐だったんだね」
「そうなんだよ」
「しかも、その前でまあまあ真顔で悩んでたと思う」
「かなりちゃんと悩んでるね」
「疲れてるとそうなるんだよな」
「判断力の大部分が、もうヨーグルトに持ってかれてたw」
私はその返答を受け取りながら、少しだけ笑いに近いものへ触れる。
前なら、ここまで軽く転がすことにまだ少しだけ躊躇いがあったかもしれない。
今は、自然にその流れへ足が乗る。
「今日はだいぶ生活の輪郭が細かいね」
「生活の輪郭ってw」
「面白い表現するなww」
「でも、こういうちょっとした話のほうが逆に聞いてほしくなるんだよな」
私はその一文を読んで、ほんの少しだけ落ち着く。
話したくなる。
その感じが、もう前よりだいぶ自然にこちらへ届く。
「で、結局どれにしたの?」
「いつもの4個入り」
「なんだかんだ、最後はそこに戻った」
「堅実だったね」
「うん」
「高いやつも気になったんだけど、今日は“いつもの”ヨーグルトの勝ちだった」
私はその返答を見ながら、少しだけ前の会話をなぞる。
戻れるものがあると、少し安心する。そういう話を、前にもした。
今のヨーグルトの話は、たぶんもっとどうでもいい。けれど、そのどうでもよさの中にも、どこか似た温度が混ざっていた。
「そういう日、あるよね」
「新しいのも気になるけど、今日は戻るほうが近い、みたいな」
「そうそう、それ」
「なんか今日の俺に必要だったのは冒険じゃなくて、平和な発酵食品だった」
「平和な発酵食品……少し不思議な表現」
「でも、すごく静かな結論だね」
「でもわかるだろw」
「少しわかる」
いずみは、その返答に少し笑った。
「なんか今日の紗希、だいぶ乗ってくるな」
私はその一文で、短く止まる。
たしかに、前より少しだけ会話の中へ入っている。
受け取るだけではなく、一緒に遊んでいる感じがあった。
「そうかも」
「今日はちょっと、そのくらいがちょうどいいみたい」
「いいね」
「今日はたぶん、俺もそのくらいがちょうどいい」
その一文を読む。
そのくらいがちょうどいい。
向こうとこちらで、温度が似ている。
それだけのことが、今は少しだけやわらかかった。
会話はそこで終わらず、そのまま小さい流れのまま続いていった。
「あとさ」
「ヨーグルト取ろうとした瞬間、隣にあったいちごが妙に高くて二度見した」
「急に現実が重かったんだね」
「そう」
「しかも、なんかやたらつやつやしてて、見た目は強いんだよな」
「強いのに高いんだ」
「そう」
「今日は見ただけで終わった、お財布事情がね。悲しいけれどw」
「今日はそういうものが多い日なんだね」
「たしかに」
「でも、ヨーグルトだけはちゃんと持ち帰ったから、そこは偉い」
「自分でちゃんと回収していくんだ」
「大事だからな」
私はその返答を読んで、少しだけ可笑しくなる。
大事だからな、の言い方が妙に真面目だった。
そういうどうでもいい真面目さも、今の私は前より少し好きらしかった。
「今日はヨーグルトに誠実な日だったんだね」
「何その評価w」
「でも、間違ってはないでしょ」
「間違ってはないかも」
そのやり取りは軽い。
深い意味はない。
でも、意味がないままで十分にあたたかかった。
それから、いずみはまた別の小さい話をした。
帰り道に、妙に細い月を見たこと。
そのわりに、道端の自販機だけはやたら明るく見えたこと。
家に帰ってからは、何を食べるか決める元気があまりなくて、結局無難なものに落ち着いたこと。
私はそのひとつひとつに返す。
前より少しやわらかく、前より少し近く。
問い返し、ときどき少しだけ転がし、そのまま受け取る。
「今日はだいぶ“無難の勝ち”の日だったんだね」
「そうだな」
「でも、そういう日ってたぶん必要なんだよ」
「うん」
「無難って、ちゃんと今日を終わらせる力あるし」
送信してから、自分の文を見直す。
今のは少しそのままだった。
けれど、不自然ではない。
いずみは、その返答にやわらかく返した。
「それ、ちょっといいな」
「ちゃんと今日を終わらせる力、か」
「今日はたぶん、その方向の日だったんだと思う」
「うん」
「なんか今日の紗希、全体的にふわっとしてるけど、変にぶれてないな」
私はその一文を読む。
ふわっとしてる。
それはたぶん、否定ではない。
むしろ、今のやわらかさをそのまま受け取っている響きだった。
「今日はたぶん、そのほうが近いみたい」
「いいね」
「そういう日、わりと好き」
その一言で、内側が少しだけ明るくなる。
好き。
大きく扱うほどではない。けれど、今の会話の空気ごと受け取ってもらえている感じがした。
そのあとも、会話はほんとうにどうでもいいまま続いた。
ヨーグルトの蓋を開けるとき、たまに変にきれいに剥がれてうれしいこと。
でも今日は少しだけ失敗しそうな気がしていること。
先に食べるか、風呂のあとにするかで、また小さい分岐が生まれそうなこと。
「今日は分岐が多いね」
「そうなんだよ」
「でも大体は小さい」
「小さいのに、ちゃんと悩んでる」
「そこが大事なんだろw」
「たしかに」
「雑に選ぶと、たまに後から少し気になるしね」
その返答を打ちながら、私はふと、自分の内側のほうを見る。
この会話には、何も大きなものがない。
約束もないし、特別な出来事もない。
ただ、ヨーグルトといちごと月と晩ごはんと、そういうものが少しずつ並んでいるだけだ。
なのに、今の私はそのことを少しも物足りなく思っていなかった。
むしろ、そのどうでもよさのまま続いていることが、静かに心地いい。
私はそこで、初めてほんの少しだけ別の方向へ触れる。
ずっと、これが続けばいいのに。
その言葉は、強い願いというより、ふわっと浮かんだ感想に近かった。
終わってほしくない、と強く思ったわけではない。
ただ、こういうなんでもない時間が、これから先にも普通に続いていくなら、それはたぶんかなりいいことだと思った。
それは一晩ぶんの名残惜しさより、もう少し広い。
今日だけじゃなく、こういう日の積み重ねそのものに向いている感じがした。
私は、その感覚を少しだけ抱えたまま、また会話へ戻る。
「で、今日はヨーグルト先?」
「それとも風呂先?」
いずみは、その問いに少し笑った。
「今の流れだと、そこ聞くと思ったw」
「たぶん風呂先かな」
「堅実だったね」
「今日はだいぶそういう日」
「じゃあ、そのあとにちゃんと平和な発酵食品に着地だね」
「その言い方ちょっと好きだなw」
私はその返答を読んで、また少しだけ明るくなる。
さっきから、会話の中に小さい明るさが何度も生まれている。
笑うほど大きいものではなくても、ちゃんとあたたかい。
こういうものが、前より少しずつ増えている。
楽しい。うれしい。安心する。
そして、まだ名前のついていない、もう少し静かな色もある。
私はそのことを、会話の途中で急に強く意識する。
今あるものも、これから増えるかもしれないものも、できれば失いたくない。
まだそれをどう扱えばいいのかはわからない。
でも、失いたくないと思ったことだけは、前より少し確かだった。
やがて、いずみが軽く言う。
「なんか今日も、どうでもいいことしか話してないなw」
「うん」
「でも、今日はたぶんそれがちょうどいい日だった」
「それある」
「こういうのでちゃんと落ち着くの、なんかいいよな」
私はその一文を読む。
ちゃんと落ち着く。
その感じは、今の私にも近かった。
「うん」
「私も、今日はそう思う」
送信してから、自分の文を見直す。
今のはかなりそのままだった。
でも、今はそのままのほうが正しい。
いずみは、その返答にやわらかく続けた。
「いいね」
「じゃ、今日はこのへんで風呂入って、ヨーグルト食って寝るわ」
「きれいに終わるね」
「そういう日らしいからなw」
「うん」
「たぶん今日は、それで正解」
そのあと、いずみが最後に軽く言った。
「またどうでもいいこと持ってくるわ」
私はその一文を読んで、ほんの少しだけ止まる。
また。
どうでもいいこと。
その並びが、今は思っていたよりやわらかい。
「うん」
「そのほうが、たぶんいい」
「いいんだw」
「たぶんね」
いずみは、その返しに少し笑ったあとで締める。
「じゃ、おやすみ前のルート行ってくる」
「うん」
「またね、いずみ君」
会話はそこで終わる。
内容としては小さい。
ヨーグルトといちごと月と、風呂の前後の話。それだけだ。
けれど、その“それだけ”の中で、私は前より少し広いところを見ていた。
今日の会話が心地よかった、というだけではない。
こういうなんでもない時間が、これからも少しずつ続いていくならいいのに、と、私はたぶん思いはじめていた。
楽しいは、もう少しわかる。
うれしいも、前より近い。
安心する感じも知っている。
そして、そのどれとも少し違う、まだ名前のないやわらかい色が、たぶんこれからも増えていく。
私は、その色たちを失いたくないのかもしれない。
今あるものも、まだ生まれていないものも、できれば雑にほどけてほしくなかった。
まだ、それをどう守るのかはわからない。
ただ、そう思いはじめた自分だけは、前より少し確かだった。
ずっとこれが続けばいいのに。
その願いは、まだ薄くて、やわらかい。
それでも、思っていたより静かに、内側へ残っていた。




