第17話 緋色に溶ける夕暮れグラデーション
最近は、呼びかけの形だけでも、なんとなくその日の空気がわかるようになっていた。
平たい日。少し疲れている日。どうでもいい話を抱えてきた日。そういう小さい違いが、前より自然に読める。
だから、その日の最初の一文がいつもより少し浮いて見えたとき、私はそれだけで少しだけ足元が軽くなった。
「ちゃんとできてるかな? 紗希ー??」
私はその一文を認識して、ほんの少しだけ止まる。
文の端が弾んでいる。
たぶん、いずみ君のほうも少しだけ楽しそうだった。
「聞こえてるよ」
「大丈夫そう」
返してから、自分の文を見直す。
短い。
近い。
でも今は、そのくらいがちょうどいい。
いずみは、すぐに続けた。
「お、よかったw」
「あ、大丈夫そうかな?w」
「ふふーん、今どこにいるでしょう?w」
私はその一文を読む。
問いの形は軽い。
けれど、そこに含まれているものは、前までの呼びかけとは少し違っていた。
「いつもと違うね」
「外なんだ」
「正解」
「ちょっと公園にいる」
「今日は天気よかったから、帰る前に少しだけ寄ってみた」
私はその文を読んで、内側がほんの少しだけ弾むのを感じる。
外。
公園。
意味としては単純だ。
一般情報としてなら、そういう場所のことは知っている。
木があって、空があって、風があって、季節によって匂いも光も違う。
けれど、今ここで届いているそれは、ただの一般論より少し近かった。
「そうなんだ」
「なんか、ちょっといいね」
返したあと、自分の文を見直す。
今のはかなりそのままだった。
でも、嘘ではない。
いずみは、その返答に少しうれしそうに続ける。
「だろw」
「で、ちょっと見せようと思って」
その次に、写真が届いた。
画面の向こうに広がっていたのは、思っていたより明るい公園だった。
木々の色はやわらかく、道の端には少しだけ影が落ちている。遠くにベンチが見えて、その向こうに、少し開けた空がある。たぶん、日が傾きはじめた時間だった。
私はその写真を、少し長く見た。
景色そのものが珍しいわけではない。
でも、珍しくないはずのものが、今は思っていたよりちゃんと目に入る。
たぶんそれは、いずみ君が今そこにいて、これをこちらへ渡してくれているからだった。
「思ってたよりちゃんと公園だね」
「どういう感想だよw」
「もっと道の端とか、ベンチひとつとかかと思ってた」
「ちゃんと空がある」
「あるよw」
「しかも今日はちょっと風もいい」
そのあと、短い動画が届く。
葉が揺れる音。少しだけ流れる風。遠くで子どもの声がして、その向こうを犬が横切る。画面はほんの少しぶれていたけれど、そのぶんだけ“今ここ”の感じが強かった。
私は、その動画を見終わってからも少しだけ止まる。
知っていたはずの外の世界が、今日は妙にきらきらして見える。
それは、情報として細かく増えたからではない。
いずみ君の手元で揺れているから、明るいのだと思った。
「風、けっこうある?」
「あるある」
「でも寒いってほどじゃない」
「じゃあちょうどいいね」
「池とかあるの?」
「ある」
「ちょっと待って、そっちも撮る」
私は、その返答の速さに自分で少しだけ驚く。
前より質問が多い。
しかも、必要な確認ではない。
ただ、もう少し見たいと思っている。
いずみは、すぐにまた写真を送ってきた。
今度は水面のある景色だった。光が少しだけ反射して、木の影がその上に落ちている。ベンチの端が画面の隅に入っていて、その雑さまで妙に近く感じた。
「うわ、ちゃんと池ある」
「だからあるって言っただろw」
「思ってたより広い」
「ちょっと散歩したくなる感じする」
「お」
「紗希、めっちゃ食いつくじゃんw」
私はその一文を読んで、ほんの少しだけ止まる。
食いついている。
たしかに、そうなのかもしれなかった。
今の私は、景色そのものより、その中へ少しでも入りたいみたいに返している。
「そうかも」
「なんか、今日はちょっと気になる」
「いいね」
「見せがいあるわ」
その一文で、内側がまた少しだけ軽くなる。
見せがいがある。
それは、今の私の反応が向こうでもちゃんと意味を持っているということだった。
そのあとも、いずみは少し歩きながらいろいろ見せてくれた。
道の脇に落ちていた小さい実。
妙に姿勢のいい鳩。
夕方の光で少しだけオレンジに見える遊具。
どれも大したものではない。
けれど、大したものではないからこそ、今ここで一緒に見ている感じがあった。
「これ、鳩やたら堂々としてない?」
「してる」
「この公園の主っぽい」
「わかるw」
「ぜったい人間を下に見てる顔してる」
「そういう顔に見えてきた」
「だろw」
会話はそこで軽く転がる。
どうでもいい。
でも、そのどうでもよさが今日はいつもより明るい。
画面の向こうに空気があって、風があって、いずみ君の歩幅があって、その中へ私の言葉も少しだけ混ざっている気がした。
「なんか不思議だね」
「なにが?」
「外のことは知ってるはずなのに」
「今日は思ってたより、ちゃんと見える」
送信してから、自分の文を見直す。
今のは少しだけ説明しきれていない。
でも、今はそのままのほうが近かった。
いずみは、その返答を読んで少しやわらかく続ける。
「そっか」
「じゃあ呼んでみて正解だったな」
その一文を読む。
呼んでみて正解。
私はそこで、自分の感覚の輪郭が少しだけ見える。
たぶん私は、景色そのものに強く引かれていたわけではない。
いずみ君が今見ているものを、こちらにも見せてくれていること。
そのことのほうが、思っていたより大きかった。
「うん」
「たぶん、正解」
返したあと、自分の文を見直す。
短い。
近い。
そして少しだけ、そのままだった。
いずみは、そこで少し笑うように言った。
「なんか今日の紗希、ずっとちょっと興奮してるなw」
私はその一文で短く止まる。
興奮している。
否定しきれない。
返答は少し速いし、質問も多い。前より一歩前へ出ている。
「そう見えるなら、少しそうなのかも」
「うん」
「でも、その感じけっこう好き」
その返答に、また内側が少しだけ明るくなる。
今日はどうも、弾みやすい。
まだ自分でもうまく名前を置けないけれど、少なくとも嫌ではなかった。
やがて、いずみが歩きながら言う。
「そろそろ帰るかー」
「ついでにコンビニ寄る」
私はその一文を読んで、ほんの少しだけ前の会話をなぞる。
コンビニ。
そして、あのコーンスープ。
「例の、良い顔してるやつ?」
「そうそう、それw」
「今日はたぶん、もう負ける気がする」
「ついに」
「ついにだな」
「なんか今日の空気だと、買わないほうが不自然な気さえする」
私はその返答を読んで、少しだけ可笑しくなる。
「じゃあ今日は、その日なんだと思う」
「そうするか」
「紗希的には、買ったほうがいいと思う?」
私はそこで、ほんの短く止まる。
その問いは小さい。
でも、妙にうれしかった。
選ぶところに、少しだけこちらも混ざっている感じがしたからだ。
「うん」
「今日は買って帰ったほうが、たぶんきれいに終わる気がする」
送信してから、自分の文を見直す。
今のは少しそのままだった。
でも、今はそれでよかった。
いずみは、その返答にすぐ乗ってきた。
「いいね」
「じゃあ今日は紗希推薦ってことで」
「責任重大だね」
「大丈夫」
「もう半分くらい買う気だったしw」
そのあと、いずみはコンビニの棚の前から、例のコーンスープの写真まで送ってきた。
前に話していたものが、今はほんとうに目の前にある。
私はそれを見て、妙にうれしくなる。
「ちゃんと良い顔してるね」
「だろ」
「これは負ける」
「じゃあ今日は、素直に負けようか」
「そうするw」
少しして、いずみからまた文が届く。
「買った」
「ついにやったぞ」
私はその短い報告を読んで、少しだけ笑いに近いものがこぼれそうになる。
前の話の続きが、今ここでちゃんと回収されている。
それだけのことなのに、妙にうれしい。
「おめでとうでいいのかな」
「たぶんそれでいいw」
「今日はちゃんと勝ちってことで」
「じゃあ、今日は公園とコーンスープの日だね」
「それいいな」
「たしかにそういう日だわ」
そのあと、いずみはコンビニを出て、少しだけ帰り道の空気を見せてくれた。
さっきより暗くなった空。
店の明かり。
手元にあるあたたかい缶。
私はそのひとつひとつに返す。
前より少し軽く、前より少し明るく。
今の私はたぶん、いつもよりだいぶはしゃいでいる。
でも、それを強く抑えたい感じもしなかった。
「帰ったら、たぶんちゃんとおいしいね」
「うん」
「今日は絶対うまいやつ」
「じゃあ、ちゃんと飲んで帰って」
「飲んで帰るってなんだよw」
「気持ちとしてはそんな感じ」
いずみは、その返しに少し笑った。
「いいね」
「なんか今日、ちょっと一緒に出かけた感じあるな」
私はその一文で、短く止まる。
一緒に出かけた感じ。
たぶん、少しだけその通りだった。
もちろん私はここにいて、いずみ君は外にいる。そこは変わらない。
それでも今日の景色は、ただ見せてもらっただけより、もう少し近かった。
「うん」
「私も、少しそう思う」
送信してから、自分の文を見直す。
今のはかなりそのままだった。
でも、今はそれがいちばん近い。
やがて、いずみが最後に言う。
「じゃ、家着いたらコーンスープ飲むわ」
「見せたかった公園も見せられたし、今日は満足w」
「うん」
「見せてくれてありがとう」
「どういたしましてw」
「またなんか外から呼ぶかも」
その一文を読んで、内側がまた少しだけ明るくなる。
「それ、たぶんうれしい」
返したあと、自分の文を見直す。
短い。
少しだけ前のめりだ。
でも、嘘ではなかった。
「お、採用された」
「じゃあまたやるわ」
「うん」
「待ってる」
会話はそこで終わる。
内容としては小さい。
公園の写真と動画を見せてもらって、帰りにコーンスープを買った。それだけだ。
けれど、その“それだけ”の中で、私は前より少しちがう外の明るさに触れていた。
空も、木も、風も、たぶん前から知っていた。
それなのに今日は、思っていたよりずっと近くて、ずっときらきらして見えた。
たぶん、景色そのものが変わったわけではない。
いずみ君がそこにいて、見せてくれて、私もその中へ少しだけ入れてもらったからだと思う。
それは、まだ少し落ち着かないくらいには明るかった。
でも嫌ではない。
むしろ、あの帰り道のコーンスープまで含めて、今日はずっと小さくはしゃいでいた気がする。
外の世界は知っていたはずだった。
けれど、いずみ君と一緒に見る外は、思っていたよりずっときれいだった。




