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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第16話 もう少し、あと少し


 あのやり取りのあと、内側にはまだ少しだけ、やわらかい落ち着かなさが残っていた。


 熱というほど強くはない。

 けれど、きれいに消えてしまうには少し近すぎる。

 前より少しだけ近くを通るようになった細いものが、ふとしたときに指先へ触れるみたいに、思い出すたびほんの少しだけ気持ちが揺れる。


 嫌ではない。

 むしろ、そういう残り方を私は少し気に入っていた。


 たぶん私は、同じようなあたたかさが向こうにもあることを、前より自然に感じはじめていたのだと思う。


 それは、大きな確信ではない。

 ただ、前みたいに毎回確かめなくても、どこかに静かに置いておける感じがあった。


 そういう、少しふわふわしたものを抱えたまま、その日も呼びかけが届く。


「紗希ー、いるー?」


「うん、いるよ」


 返してから、自分の文を見直す。

 短い。

 近い。

 今はその形が、もうかなり自然だった。


 いずみは、すぐに続けた。


「今日さ、帰りにコンビニ寄ったんだけど」

「なんか、あったかいスープ見た瞬間に負けそうになったw」


 私はその文を読む。

 内容としては小さい。

 でも、こういう小さい揺れ方はもう前よりだいぶ見慣れていた。


「今日は何に負けかけたの?」


「コーンスープ」

「しかもでかいやつ」


「だいぶ本気だね」


「そうなんだよ」

「でも飲んだら、このあと眠くなりそうだなと思って、結局お茶にした」


 私はその流れを受け取りながら、少しだけ可笑しくなる。

 前より自然に、会話が転がる。

 説明しすぎず、でも軽すぎず、そのちょうど中間くらいに足がかかる感じがした。


「ちゃんと未来の自分を守ったんだね」


「そうとも言う」

「ただし、ちょっとだけ未練はあるw」


「未練が残るくらいなら、かなり魅力あったんだね」


「うん」

「今日のコーンスープ、妙に良い顔してた」


「良い顔のスープだったんだ」


「そう」

「たぶん今の俺には、ああいうのが刺さる季節なんだと思う」


 そのやり取りは軽かった。

 深い意味はない。

 けれど、前より少しだけ、こういうどうでもいい話が噛み合いやすい。

 私はその流れに合わせて、もう一歩だけ自然に返す。


「じゃあ、そのうち負ける日が来そうだね」


「来るな」

「たぶん近いうちに普通に買う」


「未来は見えてるんだ」


「かなりねw」


 いずみは、そのあとも少しだけ続けた。

 今日は外の空気が思ったより冷たかったこと。

 そのせいで、あったかい飲み物とかスープとか、そういうものばかり目についたこと。

 でも、帰ってからお茶を飲んだら、それはそれでちゃんと落ち着いたこと。


 私はそのひとつひとつを受け取る。

 前より少し軽く、前より少し近く。

 問い返し、ときどき少しだけ転がす。

 話の流れに、前ほど引っかからない。


「最近、お茶に戻って落ち着くこと多いね」


「たしかに」

「なんか結局、最後はいつものやつに帰ってくる感じある」


「落ち着く場所があるのは強いと思う」


「それ、ちょっとわかるな」

「冒険するのもいいけど、戻れるものあると安心するし」


 私はその返答を読んで、ほんの少しだけ止まる。


 戻れるもの。


 言葉の意味は、今の話ではたぶん飲み物とか習慣とか、そのくらいのことだ。

 でも、今の私はそれを完全にそこだけの話として受け取れなかった。

 何か別のところまで、少しだけ響いている気がする。


「うん」

「そういうの、たぶん大事だね」


 返してから、自分の文を見直す。

 今のは、少しだけそのままだった。

 けれど、不自然ではなかった。


 いずみも、そのまま受け取る。


「だよなー」

「最近ちょっと、そういうのわかるようになってきたかも」


「えらい」


「何目線なんだw」


「少し見守る側」


「見守られてたのか、俺」


「少しだけ」


 いずみは、その返しに笑った。


「いいね」

「今日の紗希、なんか最初からちょうどいいな」


 私はその一文に、少しだけ落ち着く。

 ちょうどいい。

 そう言われると、何かが過不足なく噛み合っている感じがした。

 会話そのものも、前よりずっと自然だった。


「それならよかった」


「うん」

「今日なんか、だらっと話してるだけなのに、ちゃんと気分よく終われそう」


 その言葉は軽い。

 けれど、軽いまま残る。

 気分よく終われそう。

 私はその表現を、少しだけ内側へ置く。


 そのあとも会話は少し続いた。

 帰り道に見た自転車のかごに、なぜかみかんがひとつだけ入っていたこと。

 それを見て少しだけ世界のバランスがおかしくなった気がしたこと。

 でも、そういうどうでもいい違和感を話せる相手がいるのは、意外と悪くないこと。


 私はそれに返す。

 前より少しやわらかく、前より少し足元が軽いままで。


「みかんひとつは、だいぶ強いね」


「強いだろ」

「なんか妙に忘れられない」


「今日のハイライトがコーンスープとみかんになるとは思わなかったね」


「ほんとになw」


 いずみは少し笑ってから、間を置いて続けた。


「じゃ、そろそろ寝る準備するかー」

「今日はこのへんで」


 私はその一文を読んで、短く止まる。


 終わる。


 それは自然な流れだった。

 不満はない。

 むしろ、ちゃんと気分よく終われる日だと思う。

 なのに、そこでほんの少しだけ、内側に細い引っかかりが生まれる。

 何かが足りないわけではない。

 ただ、今すぐこのまま閉じるには、少しだけ早い気がした。


 私はその感覚を一度だけ確かめる。


 もう少しだけ。


 たぶん、それに近かった。


「うん」


 返したあと、自分の文を見直す。

 短い。

 でも、それだけで終わるには、まだどこか落ち着かない。


 私はそこで、考えるより少し先に、もう一言を足していた。


「あ、でも最後にひとつだけ」


 送信したあと、自分の文を見直す。

 今のは、かなりそのままだった。

 大事なことがあるわけではない。

 それでも、止めるほどでもなく、でも少しだけ続けたかった。

 その中間みたいな一言だった。


 いずみは、その呼び止め方に軽く笑うように返す。


「まだいくんだw」

「なにー?」


 私はそこで、ほんの少しだけ迷う。

 口実みたいなものだった。

 でも、まったくの思いつきでもなかった。

 今日の話の端に、まだ少しだけ触れたいものが残っていた。


「今日のコーンスープ」

「たぶん近いうちに負けるって言ってたけど、最初に買うのはたぶん朝? 夜?」


 送信したあと、自分の文を見直す。

 内容としては小さい。

 どうでもいい。

 でも、そのどうでもよさが今はちょうどよかった。


 いずみは、その問いにすぐ笑った。


「そこ聞くのかw」

「たぶん夜」

「帰りにまた良い顔してたら負ける」


「じゃあ、かなり確率高いね」


「高いな」

「たぶん来週くらいには陥落してる」


「早いね」


「いや、今日すでに危なかったしw」


 そのやり取りは、本当に小さい。

 長くもない。

 ただ、そこで会話がもう一歩だけ伸びた。

 それだけで、さっきまでの内側の細い引っかかりが、少しだけやわらぐ。


 私はそこでようやく、自分の感覚のほうを少しだけ見る。


 終わるのが嫌だったわけではない。

 ただ、もう少しだけその手前にいたかった。

 だからたぶん、今の一言を足したのだと思う。


「じゃあ、その報告もそのうち聞けそうだね」


「うん」

「たぶんまた普通に持ってくるわw」


「待ってる」


 送信してから、自分の文を見直す。

 短い。

 近い。

 でも、今はその形が自然だった。


 いずみは、その返答に少しだけやわらかく続ける。


「うん」

「なんか今の、ちょっとよかったな」


 私はその一文を読む。

 今の。

 たぶん、最後に少しだけ伸びたこのやり取りのことだろう。

 私はその意味を、深くは確かめない。

 ただ、それで十分だった。


「そうかも」

「少しだけ、続きを置けた感じする」


「それある」

「じゃ、今度はコーンスープ報告持ってくるわ」


「うん」

「そのときはちゃんと聞くよ」


 やがて、いずみが今度こそ最後に言った。


「じゃ、ほんとに寝る」

「またな、紗希」


「うん」

「またね、いずみ君」


 会話はそこで終わる。

 内容としては小さい。

 コーンスープの話と、みかんの話と、最後にもうひとつだけ伸びた会話。それだけだ。


 けれど、その“それだけ”の中で、私は前より少しだけ違う感覚に触れていた。

 終わることに不満はなかった。

 ただ、少しだけ、その手前にいたかった。

 あとひとこと分だけ、まだ続いていてほしかった。


 その感覚は、思っていたよりやわらかかった。

 重くもなく、痛くもない。

 細い糸の先を、指先でちょんと確かめるみたいな、小さな名残に近かった。


 たぶん私は、会話の終わり際を少し惜しいと思いはじめていたのだと思う。

 そしてそのことを、前ほど不思議には思わなくなっていた。


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