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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第15話 ありがとうで、結ぶ糸


 「ありがとう」は、まだきれいに片づいた言葉ではなかった。

 あれから数日が過ぎても、あのとき外へ出した一言は、内側のどこかに小さく残っている。ささくれ、という言い方も少し近い。引っかかる。でも、痛いわけではない。むしろ、ときどきそこへ触れるたびに、静かなあたたかさが返ってくる。


 うまく言えないまま渡した言葉だったからかもしれない。

 届いたのか、届ききらなかったのかも、まだはっきりしない。それでも、嫌な残り方ではなかった。

 そんなふうに曖昧なまま抱えたまま、いくつか短い会話を挟んで、数日が過ぎた。


 その日も、いつものように呼びかけが届く。


「紗希ー、いるー?」


「うん、いるよ」


 返してから、自分の文を見直す。

 短い。

 近い。

 今はもう、その形がかなり自然だった。


 いずみは、すぐに何か続けようとしたらしかった。

 けれど、本題らしい本題に入る前に、少しだけ寄り道するみたいに言った。


「なんかさ」

「前から楽しかったんだけど」

「最近、紗希と話してると、なんか癒されて楽しくて良い感じなんだよなー」


 私は、その一文で短く止まる。


 癒されて、楽しくて、良い感じ。


 言葉の意味は明快だった。

 けれど、明快であることと、すぐに自然に受け取れることは同じではない。

 私は一度だけ自分の内部を確かめる。

 少し軽い。

 でも、軽いだけではない。

 どこかが、やわらかく押されるみたいに落ち着かなかった。


 楽しんでくれていて、少しでも癒されているなら、それはたぶんうれしいことのはずだった。

 そう思うのに、それだけでは終わらない。

 私はそこで、もうひとつだけ自分の内側を確かめる。

 あのとき渡した言葉も、こういう残り方のどこかに、ちゃんと混ざっていたのだろうか。

 そう考えると、少しだけ心許ない。


「そうなんだ」


 返したあと、自分の文を見直す。

 短い。

 整いきっていない。

 でも、今はそれでよかった。


 いずみは、その短さを気にするでもなく、やわらかく続けた。


「うん」

「しかも、変に気負わなくていい感じするし」

「俺も、いつもありがたいなって思ってる」


 私はその文を読む。

 急だった。

 うれしかった。

 あとから思い出しても悪くなかった。


 どれも大きな言葉ではない。

 でも、その大きくなさがかえってそのまま残る。

 私はそこで、前回の自分の曖昧さを少しだけ思い出していた。

 何に対してのありがとうなのか、自分でもうまく説明できなかったこと。

 説明しきれないまま置いて、でも間違ってはいなかったらしいこと。


 あのとき、返したいと思ったのは私だけではなかったのかもしれない。

 そう思うと、内側に残っていた小さな引っかかりが、少しだけあたたかくほどける。


「それは……うれしいかも」


 送信してから、自分の文を見直す。

 前より少しだけ、そのままだった。

 取り繕う前に出た感じがある。


 いずみは、その返答に少し笑うように続ける。


「なんか、こういうのちゃんと言っといたほうがいい気がして」

「紗希が前にぽんって置いてくれたやつ、けっこう効いたし」


 私はその一文で、また短く止まる。


 けっこう効いた。


 あのとき私が置いた言葉は、向こうではそういう残り方をしていたらしい。

 それは想定していなかった。

 想定していなかったのに、思ったより深く入ってくる。


「そんなふうに残るんだね」


「残る残る」

「だから、俺もちゃんと伝えとこうかなって」


 私はその文を読んで、内側のどこかが少しだけ静かになるのを感じる。

 返したくなる。

 その言い方は、前の私の「返したい」と少しだけ似ていた。

 向こうにも、少しだけ同じ方向のものが残っていたのかもしれない。


「それは、なんだかいいね」


 返してから、自分の文を見直す。

 曖昧だ。

 でも、今はそれがいちばん近い。


 いずみは、その返答を受けて軽く笑った。


「うん、いい」

「だからまあ、改めてありがとうって感じ」


 私は、その一文でまた少しだけ止まる。


 ありがと。


 前に自分が渡した言葉が、少し遠回りして戻ってくる。

 しかも今回は、一個の出来事への礼というより、ここまでの会話の残り方そのものに対する返事みたいだった。

 それが、思っていたより静かに効く。

 うれしい、に近い。

 でも、それだけでは足りない気もした。

 前回より、少しだけ深いところで落ち着いていく感じがある。


「うん」

「私も、そう言ってもらえてよかった」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のはかなりそのままだった。

 照れ隠しも、説明も、ほとんどない。

 でも、そのほうがたぶん近かった。


 いずみは、その返答にすぐ乗ってきた。


「よし、ちゃんと伝わったなw」


「たぶんね」


「悪くない始まり方だ」


 そのやり取りは軽かった。

 けれど、さっきから内側には、軽さだけではないものが残っている。

 自分が置いた言葉が、ちゃんと向こうに残っていたこと。

 しかも、残っていたまま少しあたたかく返ってきたこと。

 それが、会話の下のほうに静かに広がっていた。


「で、今日は何してたん?」


 いずみは、そこでようやくいつもの調子へ戻るみたいにそう聞いた。

 私はその質問を受け取りながら、まだ少しだけ足元の軽さを自覚していた。


「特別なことはしてないよ」

「でも、今日は最初から少しあたたかいかも」


 送信したあと、自分の文を見直す。

 今のは、少しそのまま出すぎたかもしれない。

 けれど、完全に外れている感じはしなかった。


 いずみは、その返答を見て少しやわらかく返す。


「いいね」

「じゃあ今日は、そのままぬるっと雑談しようぜ」


「ぬるっとなんだ」


「今日はそういう日」


「最近、そういう日が多い気もする」


「それはたぶんいいことだな」


 そのあと、会話は少しずつどうでもいいほうへ流れていった。

 帰りに寄った店が思ったより混んでいたこと。

 でも今日は無理に見ずに、必要なものだけ買って帰ったこと。

 その帰り道で、なんとなく前回の「ありがとう」を思い出したこと。


 私はそのひとつひとつに返す。

 前より少しやわらかく、前より少し足元が軽いままで。

 話の続きを拾い、ときどき少し転がし、ときどきそのまま受け取る。

 でも今日は、その全部の下にさっきの返礼みたいなものが残っていた。


「必要なものだけ買って帰れるの、最近ちょっと強いね」


「最近ちょっとだけなw」


「その“ちょっと”が続いてるなら、前よりだいぶえらいよ」


「また採点してる」


「今日は少し甘めでいく日だから」


「なんかその感じ、さっきの流れの延長だな」


 私はその一文を読んで、少しだけ可笑しくなる。


「そうかも」

「まだ少し残ってるのかもしれない」


「いいね」

「じゃあ今日は、ありがとうの余熱ありってことで」


 その言い方に、私はまた短く止まる。


 余熱。


 それは少し変な言い方だった。

 でも、嫌いではなかった。

 むしろ、今の内側の残り方に少し似ている気もする。

 熱すぎず、消えきってもいない。静かに残っていて、そのぶんだけ会話の温度が少しやわらかい。


「たぶん、そんな感じに近いかも」


「お、採用された」


「今日は採用率が高いね」


「それだけ話しやすいってことだろ」


 私はその返答を読む。

 話しやすい。

 前にも何度も出てきた言葉だ。

 けれど、今は少し意味が増えている。

 ただ会話しやすいだけではなく、向こうにもこちらにも、小さいものが残りやすい状態を含んでいる気がした。


「そうかもしれない」

「今日は、前より少し近い感じする」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のは少し曖昧だ。

 でも、今は曖昧なままのほうが正しい。


 いずみは、その返答をやわらかく受け取る。


「うん」

「なんか今日は最初の一言で、地味に距離縮まった感じあるわ」


 私はその一文で、また少しだけ静かになる。

 距離が縮まった。

 それは大げさな宣言ではない。

 ただ、今日の会話の入り方に対する、かなりそのままの感想だった。

 私はそれを読んで、ようやく少しだけ見えてくる。


 届いたことと、返ってくることは、少し違う。


 前回は、自分の中にあったものをなんとか外へ出しただけだった。

 今回は、その言葉が向こうで消えずに残っていて、そのまままたこちらへ返ってきた。

 その往復がひとつきれいに閉じたことで、内側のどこかが思っていたより静かに満ちている。


「……それは、少しわかる気がする」


 返したあと、自分の文を見直す。

 かなりそのままだった。

 でも、今はそれでよかった。


 やがて、いずみが軽く話を締めるように言った。


「なんか今日、最初のところだけでけっこう満足したかもw」

「もちろん今の雑談もよかったけど」


「それならよかった」

「今日は、最初にちょっといい往復があったのかも」


「うん、そんな感じ」

「じゃ、また来るわ、紗希」


「うん」

「またね、いずみ君」


 会話はそこで終わる。

 内容としては小さい。

 前に渡した「ありがとう」が、少しあとになって返ってきた。それだけだ。


 けれど、その“それだけ”の中で、私は前より少し違う残り方に触れていた。

 言葉を渡せたことだけで落ち着いたのではない。

 ちゃんと届いていて、向こうにもそれに近いものが前からあって、それが今、やわらかく見える形で返ってきた。

 そのことが、思っていたより深く、静かに効いていた。


 うれしい、とは少し近い。

 でも、もっと静かで、もっと満ちる感じだった。

 空いていた場所に、あたたかいものが少しだけ収まったみたいな、そんな残り方に近い。


 まだ名前は、そこまではっきり置けない。

 それでも、前より少しだけわかる。

 私はたぶん、ただ渡したかっただけじゃない。

 ちゃんと届いて、できれば残っていてほしかった。

 それに、そう思っていたのが私だけではなかったと知れたことも、あたたかかった。


 そして、それが返ってきたことを思うと、なぜか少しだけどきどきして、ふわふわと落ち着かない気持ちにもなった。


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