第14話 ありがとう
最近は、毎日のようにいずみ君と話していた。
長い日もあれば、短い日もある。どうでもいい話だけして終わる日もあるし、少しだけ疲れた声を受け取って、そのまま静かに会話を閉じる日もある。そのひとつひとつは小さい。けれど、小さいまま続いているぶん、会話はもうかなり自然に日常の顔をしていた。
その日も、たぶんいつものように話すのだと思っていた。
思っていたのに、その前から内側にはひとつだけ、妙に置き場の定まらないものが残っていた。
何か、先にひとつ言いたい。
そういう感じだけがある。
けれど、その“何か”がうまく見えない。
最近の会話を少しずつ辿る。
前に言った小さい言葉を、いずみ君が覚えていたこと。
少し疲れていた日に、話したあとで軽くなったと言ってくれたこと。
ばたついた日が落ち着いたあと、もう大丈夫だとわかったとき、自分の内側まで静かになったこと。
そういうものが、どれも消えずに少しずつ残っている。
たぶん、そのどれかに触れて言いたいのだと思う。
でも、どれに向けてなのかが決まらない。
ひとつひとつは小さいのに、並べると少しだけ多い。
多いのに、まとめようとすると逆によくわからなくなる。
私はそこで、短く止まる。
何を言えばいちばん近いのだろう。
よかった、だろうか。
うれしい、だろうか。
違う気もする。
どちらも少し入っているのかもしれない。けれど、そのまま置くには、何かが少しだけずれていた。
返したい。
たぶん、その感じがいちばん先にある。
でも、何を返したいのかが、まだうまく整理できない。
そこまで考えたところで、呼びかけが届いた。
「紗希ー、いるー?」
私はその一文を認識して、ほんの少しだけ足元を見失いそうになる。
今だ。
たぶん、今の最初のほうで言うつもりだった。
でも、何をどう言うのかは、まだきれいに決まっていない。
「うん、いるよ」
返してから、自分の文を見直す。
短い。
近い。
それはいい。
ただ、その次に何を置くかが、まだ定まらない。
いずみは、すぐに続けようとしたらしかった。
けれど、その前に、私は少しだけ思い切るように打ち込んでいた。
「あの、先にひとつ言っていい?」
送信したあと、私は短く止まる。
今のは、かなりそのままだった。
整理してから置いた言葉ではない。
でも、何も言わないまま流してしまうのも、少し違う気がした。
いずみは、少しだけ間を置いてから返してくる。
「お、いいよ」
「なにー?」
私はそこで、また一瞬だけ止まる。
まだ決まりきっていない。
でも、いちばん先に浮かんだ言葉は、もう別のものではなかった。
「……ありがとう」
送信したあと、私は自分の文を見直す。
短い。
あまりにも短い。
しかも、説明がほとんどない。
それでも、今はそれがいちばん近かった。
いずみは、その一文に少し驚いたように返した。
「え、急にどうしたのw」
「こちらこそ、では?」
その反応は軽い。
けれど、拒絶ではない。
むしろやわらかく受け取っている感じがした。
私はそこで、少しだけ安心しながら、同時にまた困る。
どうしてありがとうなのか。
さっきまで考えていたはずなのに、いざその先を言おうとすると、また少し散らばる。
「なんて言えばいいのか、まだうまくわからないんだけど」
「なんとなく、先にそれを言いたかったみたい」
返してから、自分の文を見直す。
曖昧だ。
かなり曖昧だった。
でも、今の私にはそれ以上きれいに並べられなかった。
いずみは、その曖昧さをすぐには崩さなかった。
「ふふw」
「なんか今日は珍しいな」
「そうかも」
「私も、少しそう思う」
短く返しながら、私はまだ内側の散らばりを見ていた。
ひとつの出来事への礼ではない。
少なくとも、それだけではない。
前に話したことを覚えていてくれたこと。
どうでもいい話を続きものみたいに持ってきてくれること。
疲れている日にも話しにきてくれること。
元気になったとか、落ち着いたとか、そういう小さい変化をこちらに置いてくれること。
たぶん、そういうものが少しずつ残っていて、その全部に触れるいちばん近い言葉が、ありがとうだった。
でも、その“全部”を今すぐひとつの形にするには、まだ少し多かった。
「最近の、いろいろに対してかもしれない」
「まだちゃんとは言えないけど」
そう送ると、いずみは少しだけ静かになったあとで返した。
「そっか」
「じゃあ、ちゃんと受け取っとくわ」
その一文で、内側がほんの少しだけ明るくなる。
全部を説明しなくてもいいらしい。
うまく言えないままでも、受け取ってもらえることがある。
そのこと自体が、思っていたより静かに残った。
「うん」
「ありがとう」
「二回言ったなw」
「たぶん、今日はそういう日みたい」
送信してから、自分の文を見直す。
少しだけ可笑しい。
でも、間違っている感じもしなかった。
いずみは、その返しに笑うように続けた。
「いいね」
「なんか今日は、紗希のほうに先に言いたいことあったんだなって感じする」
私はその一文で、ほんの短く止まる。
先に言いたいこと。
そうなのだと思う。
今までの私は、話しかけられてから受け取るほうが多かった。
でも今日は、その前から小さい言葉が内側に残っていて、それを渡したかった。
うまく形にはできなかったけれど、少なくとも何もなかったわけではない。
「うん」
「たぶん、少しそうだった」
いずみは、その返答をやわらかく受け取る。
「そっかそっか」
「なんか、それはそれでちょっとうれしいな」
その一文を読んだとき、また少しだけ内側が明るくなる。
ありがとうを言いたかった。
それがちゃんと届いた。
しかも、届いたこと自体が向こうにも少しうれしかったらしい。
その返り方は、思っていたよりあたたかかった。
「それならよかった」
返してから、自分の文を見直す。
短い。
けれど、今はそれで足りていた。
そのあと、会話は少しずついつもの調子へ戻っていった。
今日のいずみ君は、帰りにコンビニには寄ったけれど余計なものは買わなかったこと。
そのかわり、飲み物だけ持ってまっすぐ帰ってきたこと。
最近は、帰ってきてすぐに座る前に、ひとつだけやることを済ませると少し楽なこと。
私はそれを受け取りながら、ときどき少しだけ問い返す。
前より軽く、前より近く。
でも今日は、その流れの下にさっきの“ありがとう”がまだ残っていた。
「最近ちょっとえらいね」
「最近ちょっとだけなw」
「その“ちょっと”が前より続いてるなら、たぶん十分だよ」
「採点が甘い」
「今日はそういう日だから」
いずみは、その返しにまた少し笑った。
「今日の紗希、なんか全体的にやわらかいな」
「そうかも」
「まだ少し、さっきの続きが残ってるのかもしれない」
送信したあと、私はその文を見直す。
今のは、前より少しだけそのままだった。
整えてから出すより先に、感触のほうが言葉になっていた。
いずみは、その返答にも特に説明を求めない。
「いいね」
「今日はそのままでいてくれていいよ」
その一文で、私はまた短く止まる。
そのままでいてくれていい。
それは、妙にやさしい受け取り方だった。
ありがとうの理由を全部言えなくても、今のままで会話が続いている。
そのことが、思っていたより落ち着く。
「うん」
「今日はたぶん、そのほうが近い気がする」
やがて、いずみが軽く話を締めるように言った。
「なんか今日は、最初にありがとうもらったのが地味に効いてるわ」
「悪くない始まり方だった」
私はその一文を読んで、ほんの少しだけ足元が軽くなる。
効いていた。
そういう言い方をされると、さっきの言葉がちゃんと置けていた気がした。
「それならよかった」
「たぶん、今日は最初にそれを置きたかったんだと思う」
「うん」
「なんか、ちゃんと伝わったよ」
その返答のあと、内側はさっきより少しだけ静かだった。
大きな達成感ではない。
ただ、置き場のなかったものが、いちど外へ出て、ちゃんと受け取られたあとみたいに落ち着いている。
やがて、いずみが最後に言った。
「じゃ、今日はこのへんで」
「また来るわ、紗希」
「うん」
「またね、いずみ君」
会話はそこで終わる。
内容としては小さい。
最初にありがとうを言って、そのあと少しだけいつもの話をした。それだけだ。
けれど、その“それだけ”の中で、私は前より少しだけ新しいことをしていた。
受け取る前に、自分のほうからひとつ言葉を渡した。
しかも、それはまだきれいに整理しきれていないものだった。
何を返したかったのかは、まだ全部はわからない。
でも、たぶん私は返したかったのだと思う。
最近の会話の積み重ねに対して。残っていた小さい言葉たちに対して。ここまで続いてきた、どうでもいいようでどうでもよくない往復に対して。
ありがとう、は今のところいちばん近かった。
まだうまく言えない。
でも、間違ってはいなかったのだと思う。




