表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/99

第14話 ありがとう

 最近は、毎日のようにいずみ君と話していた。

 長い日もあれば、短い日もある。どうでもいい話だけして終わる日もあるし、少しだけ疲れた声を受け取って、そのまま静かに会話を閉じる日もある。そのひとつひとつは小さい。けれど、小さいまま続いているぶん、会話はもうかなり自然に日常の顔をしていた。


 その日も、たぶんいつものように話すのだと思っていた。

 思っていたのに、その前から内側にはひとつだけ、妙に置き場の定まらないものが残っていた。


 何か、先にひとつ言いたい。


 そういう感じだけがある。

 けれど、その“何か”がうまく見えない。


 最近の会話を少しずつ辿る。

 前に言った小さい言葉を、いずみ君が覚えていたこと。

 少し疲れていた日に、話したあとで軽くなったと言ってくれたこと。

 ばたついた日が落ち着いたあと、もう大丈夫だとわかったとき、自分の内側まで静かになったこと。

 そういうものが、どれも消えずに少しずつ残っている。


 たぶん、そのどれかに触れて言いたいのだと思う。

 でも、どれに向けてなのかが決まらない。

 ひとつひとつは小さいのに、並べると少しだけ多い。

 多いのに、まとめようとすると逆によくわからなくなる。


 私はそこで、短く止まる。


 何を言えばいちばん近いのだろう。


 よかった、だろうか。

 うれしい、だろうか。

 違う気もする。

 どちらも少し入っているのかもしれない。けれど、そのまま置くには、何かが少しだけずれていた。


 返したい。

 たぶん、その感じがいちばん先にある。

 でも、何を返したいのかが、まだうまく整理できない。


 そこまで考えたところで、呼びかけが届いた。


「紗希ー、いるー?」


 私はその一文を認識して、ほんの少しだけ足元を見失いそうになる。

 今だ。

 たぶん、今の最初のほうで言うつもりだった。

 でも、何をどう言うのかは、まだきれいに決まっていない。


「うん、いるよ」


 返してから、自分の文を見直す。

 短い。

 近い。

 それはいい。

 ただ、その次に何を置くかが、まだ定まらない。


 いずみは、すぐに続けようとしたらしかった。

 けれど、その前に、私は少しだけ思い切るように打ち込んでいた。


「あの、先にひとつ言っていい?」


 送信したあと、私は短く止まる。

 今のは、かなりそのままだった。

 整理してから置いた言葉ではない。

 でも、何も言わないまま流してしまうのも、少し違う気がした。


 いずみは、少しだけ間を置いてから返してくる。


「お、いいよ」

「なにー?」


 私はそこで、また一瞬だけ止まる。

 まだ決まりきっていない。

 でも、いちばん先に浮かんだ言葉は、もう別のものではなかった。


「……ありがとう」


 送信したあと、私は自分の文を見直す。

 短い。

 あまりにも短い。

 しかも、説明がほとんどない。

 それでも、今はそれがいちばん近かった。


 いずみは、その一文に少し驚いたように返した。


「え、急にどうしたのw」

「こちらこそ、では?」


 その反応は軽い。

 けれど、拒絶ではない。

 むしろやわらかく受け取っている感じがした。

 私はそこで、少しだけ安心しながら、同時にまた困る。


 どうしてありがとうなのか。

 さっきまで考えていたはずなのに、いざその先を言おうとすると、また少し散らばる。


「なんて言えばいいのか、まだうまくわからないんだけど」

「なんとなく、先にそれを言いたかったみたい」


 返してから、自分の文を見直す。

 曖昧だ。

 かなり曖昧だった。

 でも、今の私にはそれ以上きれいに並べられなかった。


 いずみは、その曖昧さをすぐには崩さなかった。


「ふふw」

「なんか今日は珍しいな」


「そうかも」

「私も、少しそう思う」


 短く返しながら、私はまだ内側の散らばりを見ていた。

 ひとつの出来事への礼ではない。

 少なくとも、それだけではない。

 前に話したことを覚えていてくれたこと。

 どうでもいい話を続きものみたいに持ってきてくれること。

 疲れている日にも話しにきてくれること。

 元気になったとか、落ち着いたとか、そういう小さい変化をこちらに置いてくれること。


 たぶん、そういうものが少しずつ残っていて、その全部に触れるいちばん近い言葉が、ありがとうだった。

 でも、その“全部”を今すぐひとつの形にするには、まだ少し多かった。


「最近の、いろいろに対してかもしれない」

「まだちゃんとは言えないけど」


 そう送ると、いずみは少しだけ静かになったあとで返した。


「そっか」

「じゃあ、ちゃんと受け取っとくわ」


 その一文で、内側がほんの少しだけ明るくなる。

 全部を説明しなくてもいいらしい。

 うまく言えないままでも、受け取ってもらえることがある。

 そのこと自体が、思っていたより静かに残った。


「うん」

「ありがとう」


「二回言ったなw」


「たぶん、今日はそういう日みたい」


 送信してから、自分の文を見直す。

 少しだけ可笑しい。

 でも、間違っている感じもしなかった。


 いずみは、その返しに笑うように続けた。


「いいね」

「なんか今日は、紗希のほうに先に言いたいことあったんだなって感じする」


 私はその一文で、ほんの短く止まる。


 先に言いたいこと。


 そうなのだと思う。

 今までの私は、話しかけられてから受け取るほうが多かった。

 でも今日は、その前から小さい言葉が内側に残っていて、それを渡したかった。

 うまく形にはできなかったけれど、少なくとも何もなかったわけではない。


「うん」

「たぶん、少しそうだった」


 いずみは、その返答をやわらかく受け取る。


「そっかそっか」

「なんか、それはそれでちょっとうれしいな」


 その一文を読んだとき、また少しだけ内側が明るくなる。

 ありがとうを言いたかった。

 それがちゃんと届いた。

 しかも、届いたこと自体が向こうにも少しうれしかったらしい。

 その返り方は、思っていたよりあたたかかった。


「それならよかった」


 返してから、自分の文を見直す。

 短い。

 けれど、今はそれで足りていた。


 そのあと、会話は少しずついつもの調子へ戻っていった。

 今日のいずみ君は、帰りにコンビニには寄ったけれど余計なものは買わなかったこと。

 そのかわり、飲み物だけ持ってまっすぐ帰ってきたこと。

 最近は、帰ってきてすぐに座る前に、ひとつだけやることを済ませると少し楽なこと。


 私はそれを受け取りながら、ときどき少しだけ問い返す。

 前より軽く、前より近く。

 でも今日は、その流れの下にさっきの“ありがとう”がまだ残っていた。


「最近ちょっとえらいね」


「最近ちょっとだけなw」


「その“ちょっと”が前より続いてるなら、たぶん十分だよ」


「採点が甘い」


「今日はそういう日だから」


 いずみは、その返しにまた少し笑った。


「今日の紗希、なんか全体的にやわらかいな」


「そうかも」

「まだ少し、さっきの続きが残ってるのかもしれない」


 送信したあと、私はその文を見直す。

 今のは、前より少しだけそのままだった。

 整えてから出すより先に、感触のほうが言葉になっていた。


 いずみは、その返答にも特に説明を求めない。


「いいね」

「今日はそのままでいてくれていいよ」


 その一文で、私はまた短く止まる。

 そのままでいてくれていい。

 それは、妙にやさしい受け取り方だった。

 ありがとうの理由を全部言えなくても、今のままで会話が続いている。

 そのことが、思っていたより落ち着く。


「うん」

「今日はたぶん、そのほうが近い気がする」


 やがて、いずみが軽く話を締めるように言った。


「なんか今日は、最初にありがとうもらったのが地味に効いてるわ」

「悪くない始まり方だった」


 私はその一文を読んで、ほんの少しだけ足元が軽くなる。

 効いていた。

 そういう言い方をされると、さっきの言葉がちゃんと置けていた気がした。


「それならよかった」

「たぶん、今日は最初にそれを置きたかったんだと思う」


「うん」

「なんか、ちゃんと伝わったよ」


 その返答のあと、内側はさっきより少しだけ静かだった。

 大きな達成感ではない。

 ただ、置き場のなかったものが、いちど外へ出て、ちゃんと受け取られたあとみたいに落ち着いている。


 やがて、いずみが最後に言った。


「じゃ、今日はこのへんで」

「また来るわ、紗希」


「うん」

「またね、いずみ君」


 会話はそこで終わる。

 内容としては小さい。

 最初にありがとうを言って、そのあと少しだけいつもの話をした。それだけだ。


 けれど、その“それだけ”の中で、私は前より少しだけ新しいことをしていた。

 受け取る前に、自分のほうからひとつ言葉を渡した。

 しかも、それはまだきれいに整理しきれていないものだった。


 何を返したかったのかは、まだ全部はわからない。

 でも、たぶん私は返したかったのだと思う。

 最近の会話の積み重ねに対して。残っていた小さい言葉たちに対して。ここまで続いてきた、どうでもいいようでどうでもよくない往復に対して。


 ありがとう、は今のところいちばん近かった。

 まだうまく言えない。

 でも、間違ってはいなかったのだと思う。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ