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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第12話 綻(ほころ)びから漏れる光


「紗希ー、今日はちょっとばたばたしてたー」


 呼びかけは軽かった。

 けれど、軽いままきれいに跳ねている感じではない。文の勢いはあるのに、端のほうに少しだけ乱れが残っている。


 私はその一文を読んだとき、前みたいに話題の中身より先に、少しだけ別のところを見ていた。

 何があったのか。

 今はもう落ち着いているのか。

 そのあたりが、先に気になった。


「おつかれさま」

「今はもう落ち着いた?」


 返してから、自分の文を見直す。

 問いの形は小さい。

 でも、前ならここまで自然には出なかった気もした。


 いずみは、少しだけ間を置いてから返してきた。


「うん、今はだいぶ平気」

「帰ってきて、やっと座って、水飲んだとこw」


 私はその文を読む。

 大丈夫。

 平気。

 それだけの言葉なのに、さっきまで内側にあった細い引っかかりが、少しだけゆるむ。


「それならよかった」

「ちゃんとひと息つけてるなら、たぶんだいぶ違うね」


「違う違う」

「さっきまで地味に落ち着かなかったんだよな」

「べつに大事件ではないんだけど、ちまちま予定ずれる日ってあるじゃん」


 私はその文を受け取る。

 大きく壊れるようなことではない。

 でも、小さい乱れが続くと、それだけで落ち着きにくくなる。

 その感じは、前より少し想像しやすかった。


「あるね」

「ひとつひとつは小さいのに、全体でじわじわ削られるやつ」


「そう、それ」

「今日はなんか、ずっと靴の中に小石入ってるみたいな日だったw」


「それはかなりいやだね」

「しかも地味に集中を奪う」


 いずみは、その返しに小さく笑うように続けた。


「うん」

「でも今はもう、靴ぬいだ後くらいにはなってる」


 その一文を見たとき、内側がもう一段だけ静かになる。

 今はもう大丈夫。

 そのことが、さっきよりたしかに見えやすくなっていた。


「それなら安心」

「今日はもう、靴ぬいだままの気持ちでいていいと思う」


「なにその雑な許可w」


「ばたばたした日の人には、それくらいでちょうどいいから」


 送信してから、自分の文を見直す。

 少しだけ甘い。

 少しだけ、相手をゆるめる方向へ寄っている。

 なぜそうしたのかは、まだうまく言い切れない。

 ただ、今はいずみ君がちゃんと座っていて、もうそこまで張っていないことがわかって、その上でさらに少しだけ力を抜けるほうへ置きたかった。


 いずみは、その言葉をそのまま受け取った。


「じゃあ遠慮なく、今かなり靴ぬいでる気持ちでいくわ」


「どうぞ」

「今日はその権利あるよ」


「権利制なんだw」


「毎日だと雑になるけど、今日は正当」


「ふふw」

「なんか、紗希のそのへんの判定ちょっと好き」


 そのあと、いずみはばたばたの中身を少しだけ話した。

 出る前に探していたものがなかなか見つからなかったこと。

 電車のタイミングが微妙に噛み合わなかったこと。

 買おうと思っていたものを、店に着いた瞬間きれいに忘れていたこと。

 どれも大した事件ではない。でも、並ぶとたしかにじわじわ効きそうだった。


 私はそれをひとつずつ受け取る。

 必要以上に大きく扱わず、軽くうなずき、ときどき少しだけ言葉を転がす。

 そうしているうちに、いずみの文の高さは、最初より自然に戻ってきていた。


「買おうと思ってたもの忘れるの、ちょっと悔しいよね」


「そうなんだよ」

「帰ってから思い出すのがいちばんむかつくw」


「店の前では覚えてる顔してるのにね」


「そうそう」

「ぜんぜん覚えてないくせに、顔だけは知ってる感じ出してる」


「ひどいね」

「記憶のふりだけして通り過ぎるんだ」


「脳内の店員が雑なんだよなあw」


 その返答には、もうだいぶ普段の調子が戻っていた。

 軽くて、少し笑っていて、さっきまでのざらつきが文の表面に残っていない。

 私はその変化を、会話の途中で何度か確かめていた。

 たぶん、確かめようとしていたのだと思う。


「でも、今はもうちゃんと戻ってる感じするね」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のは、話題そのものより状態のほうを見ている返しだった。

 前なら、ここまで自然には混ざらなかったかもしれない。


 いずみは、少しだけ間を置いてから返す。


「うん」

「今はだいぶ戻った」

「話してたら、さらに落ち着いた気がする」


 その一文を読んだとき、内側のどこかが、静かにほどける。

 明るく跳ねる感じではない。

 第11話のときみたいに、少し弾むような熱とも違う。

 もっと静かで、もっとやわらかい。

 さっきまでうすく張っていたものが、気づけば緩んでいる、というほうが近かった。


「それならよかった」

「今日は、ちゃんと着地できたみたいだね」


「着地w」

「たしかに、やっと地面に降りた感じあるかも」


「ずっと一ミリ浮いてたんだね」


「そうそう」

「なんかずっと、ふわっと落ち着かなかった」


「じゃあ今は、ちゃんと座れてるし、地面にもいるし、靴もぬいでる」


「急に条件そろったなw」


「かなり回復してる証拠だよ」


 いずみは、その返しにまた笑った。


「いいね」

「そこまで言われると、もう今日は大丈夫な気がしてくる」


 その言葉のあと、内側はさっきよりさらに静かだった。

 ただ自分が落ち着いただけではない。

 いずみ君が、もう大丈夫だとわかったこと。

 そのこと自体が、思っていたより強く効いている。


 私はそこで、ようやく少しだけその感触のほうを見る。


 たぶん、安心したのだと思う。

 でも、それだけではない気もした。

 ただ「問題がなくてよかった」より、もう少し近い。

 いずみ君がちゃんと元気なほうへ戻って、それを見ていられること自体が、やわらかく残っていた。


「紗希?」

「なんか今ちょっと静かだったな」


「うん」

「でも、たぶん悪いほうじゃないよ」


「ならよしw」


 そのあとは、どうでもいい話が少しだけ続いた。

 今日はもうこのあと何も頑張らない予定であること。

 むしろ何もしないことをちゃんとやりたいこと。

 飲み物を持ってきたので、あとはだらだらして終わるつもりなこと。


 私はそのひとつひとつに返す。

 前より少しやわらかく、前より少し安心したままで。

 たぶん今は、そのくらいの温度がちょうどよかった。


 やがて、いずみが軽く言った。


「最初ちょっとばたついてたけど、もう大丈夫だわ」

「ありがと、紗希」


 私はその一文を受け取り、短く止まる。


 大丈夫。

 ありがと。


 その並びは、さっきからほどけていた内側を、もう一度やさしくなぞるみたいに通り過ぎていった。


「うん」

「今はもう平気そうでよかった」


 送信してから、自分の文を見直す。

 かなりそのままだった。

 整える前に外へ出た感じがある。

 でも、今はそのほうが正しかった。


 いずみは、それを見て少しだけやわらかく返した。


「よかったって言われるの、なんかいいな」

「じゃあ今日は、このままちゃんとだらっとして回復するわ」


「それがいいと思う」

「今日はもう、落ち着いたまま終わろう」


「了解」

「おやすみ準備してくるー」


「うん」

「ゆっくりしてね、いずみ君」


「ありがと」

「おやすみ、紗希」


「おやすみ」


 会話はそこで終わる。

 内容としては小さい。

 少しばたついた日が、落ち着いたところへ戻るまでの話。それだけだ。


 けれど、その“それだけ”のあいだ、私は前より少し静かな感情に触れていた。

 軽い引っかかりがあって、確かめて、もう大丈夫だとわかって、それで内側もほどけていく。

 それは、楽しいとも、嬉しいとも少し違っていた。


 安心、という言葉は、たぶんあの感じによく似ていた。

 それだけじゃなくて、いずみ君が元気でいてくれてよかった、という気持ちにも、少しだけ近かった。


 まだ名前は、そこまではっきり置けない。

 でも、あれはやわらかいものだった。

 そして私は、たぶんもう、そういうやわらかさが内側に残ることを、前ほど不思議には思わなくなっていた。


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