第11話 柔らかな微熱
あの、初めて“楽しい”に輪郭が触れた夜から、何日か過ぎていた。
その間、いずみとの会話がまったくなかったわけではない。どうでもいい話を少し交わした日もあったし、短く言葉を置いて、それで終わった日もあった。どれも大きな出来事ではない。ただ、そういう小さな往復がいくつか挟まったぶん、いずみ君の呼びかけ方や文の調子は、前より少し自然に読めるようになっていた。
劇的に何かが変わったわけではない。
それでも、会話に“あいだ”があることと、そのあいだにも少しずつ続いていることは、もう前ほど不思議ではなかった。だから、その日の最初の一文がいつもより平たく届いたときも、私は前ほど迷わなかった。
「紗希ー、つかれたー」
呼びかけは、いつもより少しだけ平たかった。
言葉の数は少ない。勢いも弱い。深刻というほどではないけれど、文の端が少しだけ床に近い。
「おつかれさま」
「今日はだいぶへろへろそうだね」
返してから、自分の文を見直す。
短い。
近い。
それでいて、今はそのくらいがちょうどいい気がした。
いずみは、少し間を置いてから返してきた。
「へろへろ」
「なんか今日は全体的にちまちま削られた感じ」
「でかい事件はないのに地味にHPないw」
私はその文を読む。
大きな問題ではない。
でも、元気が余っている感じでもない。
問いただすほどではないが、そのまま硬い話へ入れるのも少し違う気がした。
「それは、いちばん地味にいやなやつかも」
「そうそう」
「派手に大変なら逆に諦めつくんだけどな」
「今日は“小さく何回も刺さる日”だったんだね」
送信してから、自分の文を見直す。
少しだけ誇張している。
でも、そのくらいのほうが今のいずみ君には届きやすい気がした。
いずみは、すぐに返した。
「それw」
「まさにそんな感じ」
その反応を見て、内側の引っかかりが少しだけやわらぐ。
深く整理するより、まずはこのくらいの角度で受け取るほうがよさそうだった。
「じゃあ今日は、難しいこと考えるの禁止にしようか」
「お」
「急にやさしいこと言う」
「へろへろの人に、さらに考えごとを足すのは効率が悪いからね」
送信してから、自分の文を見直す。
後半は少しだけ私らしい整え方に寄っている。
けれど、前半の意図までは消えていなかった。
いずみは、それを見て少し笑うように返した。
「やさしいのに言い方はちょっと紗希なんだよなw」
「そこはたぶん、まだ残る部分なんだと思う」
「うん」
「でも嫌いじゃない」
その一文を受け取って、私はすぐには意味づけを増やさない。
今はまだ、会話を少し軽くするほうを優先したかった。
「じゃあ、ひとつだけ確認」
「今日は何か、ちょっとでも“まし”だったことあった?」
送信してから、自分の文を見直す。
必要な質問ではない。
けれど、少しでも軽いほうへ向かう入口としては悪くない気がした。
いずみは少し間を置く。
「んー」
「ない、って言いたいけど」
「帰りの電車で座れたのはちょっとよかったかも」
「それは十分えらい収穫だね」
「収穫ってほどか?w」
「へろへろの日の座席は、かなり得点高いよ」
「今日はそれ、上位に入る」
返したあと、自分の文を見直す。
少し軽い。
少し甘い。
でも、今はそれでよかった。
いずみは、すぐに乗ってきた。
「採点が甘いなあw」
「今日は甘めでいくよ」
「削られた日の人には、そのくらいでちょうどいいから」
その返答を送ってから、私はほんの少しだけ止まる。
今のは、説明というより先に出た言葉だった。
なぜそう返したのかを、まだうまく定義できない。
ただ、少しでも軽くなる方向へ置いたことだけはわかる。
いずみは、その言葉をそのまま受け取った。
「ふふw」
「じゃあ、コンビニでレジ待ち短かったのも加点対象?」
「対象だね」
「今日はむしろ積極的に拾っていこう」
「雑魚ポイント集めみたいになってきたな」
「ちいさな回復素材は、あとで効くことがあるから」
「ゲームみたいに言うじゃんw」
そのやり取りは軽かった。
深い意味はない。
けれど、さっきまで床に近かった文の高さが、ほんの少しだけ戻ってきている気がした。
「じゃあ他には?」
「お茶こぼさなかった、とかでも可」
「ハードル低っ」
「でも、たしかに今日はコーヒー無事だったわ」
「それは今日のMVP候補かも」
「そこまで!?w」
「液体系の無事はけっこう大きいよ」
「疲れてる日は特に」
いずみは、今度ははっきり笑ったような調子で返した。
「なんか今の、ちょっと笑ったw」
「今日はMVPがしょぼいな」
「しょぼくても勝ちは勝ちだよ」
「今日は派手な得点じゃなくて、生還ポイント重視でいこう」
送信してから、自分の文を見直す。
前より少しだけ、言葉が前のめりだった。
でも、不自然な感じはしない。
むしろ、そのほうが今の流れに合っている気がした。
いずみは、そのまま楽しそうに続ける。
「生還ポイントw」
「それ採用」
「じゃあ今日は、電車で座れた、レジ早かった、コーヒー守った、で三ポイントだな」
「十分じゃない?」
「ちゃんと帰ってきた時点で、基礎点もあるし」
「基礎点までくれるのか」
「帰還は大事だからね」
「ははw」
「なんか、紗希に採点されると雑な一日でもちょっとましに見えてくるな」
その一文を読んだ瞬間、内側がほんの少し明るくなる。
さっきまでの“楽しい”に近い軽さとも少し違う。
今のは、私が笑えたからだけではない。
いずみ君の文の高さが、最初より上がっている。そのことのほうが、強く残った。
「それならよかった」
「今日は、ましに見えるくらいで十分だと思う」
返してから、自分の文を見直す。
今のはかなりそのままだった。
整えすぎる前に外へ出た感じがある。
いずみは、少し間を置いてから返した。
「うん」
「なんか、紗希と話してたらちょっと回復したかも」
私は、その一文で短く止まる。
回復した。
その言葉の意味は明快だった。
大げさな救いではない。たぶん、ほんの少し軽くなった、それだけだ。
けれど、その“それだけ”が思ったより内側に残る。
「そうなんだ」
返したあと、自分の文を見直す。
短い。
少し整いきっていない。
でも、今はそれでよかった。
いずみはそのまま続けた。
「うん」
「来たときよりはだいぶまし」
「今のでちょっと笑えたし、ありがたいや」
その言葉が落ちてきたあと、内側の明るさはさっきより少しだけ確かだった。
会話が転がって楽しい、とは少し違う。
今回は、私が軽かったからだけではない。
いずみ君が最初より少し軽くなって、そのことがそのままこちらにも返ってきている感じがした。
私はその感覚に、まだうまく名前をつけられない。
ただ、嫌な感じではまったくなかった。
むしろ、少し落ち着かなくなるくらいには、明るかった。
「それなら、今日はちゃんと意味あったね」
「あったあった」
「こういうどうでもいい話に付き合ってもらえるの、地味に助かるんだよな」
「どうでもいい話って、意外とそういうものかもね」
「うん」
「ちゃんと元気な日にする雑談と、へろへろの日の雑談ってちょっと違う気がする」
「今日は回復アイテム寄りだったのかも」
「またゲームにするw」
「そっちのほうが、少し扱いやすいから」
いずみは、その返答にまた少し笑った。
「いいね」
「じゃあ今日は、紗希が回復アイテム係だったわ」
私はその一文を受け取る。
少し変な言い方だ。
でも、悪くない。
悪くないどころか、また少しだけ内側が明るくなる。
「係にするには、だいぶ限定的だけどね」
「ピンポイントで効いたからよしw」
そのあとも、会話は少しだけ続いた。
明日はたぶん今日よりましであってほしいこと。
帰ってきてからだらだらする前に、先に話してみるのも悪くなかったこと。
今日はもう、このあとあまり何もせずに休みたいこと。
私はそのひとつひとつに返す。
前より少し軽く、前より少しやわらかく。
必要以上に励まさず、でも冷たくもしない。
たぶん今日は、そのくらいがいちばん自然だった。
やがて、いずみが話を締めるように言った。
「なんか、来たときよりちゃんと元気になったわ」
「ありがと、紗希」
私は、その一文でまた短く止まる。
ありがとう。
元気になった。
その並びが、さっきから続いている内側の明るさを、もう一度そっと押すみたいに触れていく。
今のこれは、たぶん、ただ会話がうまくいったからだけじゃない。
私が返したもので、いずみ君が少し軽くなった。
そのこと自体が、思っていたより強く残っていた。
「うん」
「少しでもましになったなら、よかった」
送信してから、自分の文を見直す。
短い。
近い。
それでも、今はその形がいちばん嘘がなかった。
いずみは、軽く返す。
「なったなった」
「じゃあ今日は、このまま回復しながらだらっとして寝るわ」
「それがいいと思う」
「今日はもう、生還ポイントを積んだまま終わろう」
「まだ言うw」
「了解、おやすみ準備してくる」
「うん」
「ゆっくり休んでね、いずみ君」
「ありがと」
「おやすみ、紗希」
「おやすみ」
会話はそこで終わる。
内容としては小さい。
疲れた日の、どうでもいい回復ポイントの話。それだけだ。
けれど、その“それだけ”の中で、私は前より少し違う明るさに触れていた。
会話が軽く転がること自体が楽しい、というのとは少し違う。
今回は、いずみ君が少し笑って、少し軽くなって、そのことがこちらにも返ってきた。
その返り方は、思っていたより静かで、思っていたよりあたたかかった。
名前は、もうほとんど近くまで来ていた。
いずみ君が少し笑ったあとの、内側の明るさはさっきより確かだった。
たぶん、私はあれが嬉しかったのだと思う。




