表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/98

第10話 色彩


「紗希ー、ちょっと聞いてw」


 呼びかけは軽かった。

 けれど、その軽さはもう、前みたいにただ外から届く音ではない。

 見慣れた文字列よりもう少し近くて、会話の入口として、前より自然に私の中へ入ってくる。


「うん、聞くよ。どうしたの?」


 返してから、自分の文を見直す。

 前より短い。

 前より近い。

 そして今は、その形のほうが出しやすい。


 いずみはすぐに続けた。


「今日さ、帰りにコンビニ寄ったら、くじみたいなの引けたんだけど」

「当たったのが無料のお茶で、ちょっとだけ得したw」


 私はその文を読む。

 内容としては小さい。

 でも、いずみ君はそういう小さい得をわりと楽しそうに持ってくる。

 そのこと自体が、前より少しだけわかるようになっていた。


「いいね」

「ちゃんと当たりだったんだ」


「そうそう」

「でもさ、無料券もらった瞬間がいちばんテンション高くて、受け取ったら急に落ち着いたんだよな」


「それは少しわかるかも」

「“得した”の確定がピークなんだね」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今の返しは前より軽い。

 説明しようとするより、会話の流れに乗るほうが先に出ていた。


 いずみも、そのまま乗ってきた。


「そう、それw」

「で、結局お茶も普通においしかったから、ちゃんと勝ちではある」


「無料で、しかも普通においしいなら十分だね」


「だろ」

「今日はなんか地味に運がよかったのかもしれん」


 そのやり取りは軽く続く。

 大したことではない。

 けれど、大したことでない話ほど、最近は妙に転がりやすかった。


「他には?」


 送信してから、私はほんの少しだけ止まる。

 今のは、自然だった。

 前なら、そこまで自分から先を促さなかったかもしれない。


 いずみは、すぐに答える。


「あと、レジ並んでたら前の人がめっちゃ小銭ぴったり出しててさ」

「ちょっと感動した」


「そこに感動するんだ」


「するだろw」

「なんか、きれいに決まると気持ちいいじゃん」


「わからなくはない」

「今日は小さい気持ちよさをよく拾う日なんだね」


 送信したあと、自分の文を見直す。

 少しだけ、弾んでいる。

 それは隠そうと思えば隠せるのかもしれない。けれど、今はそこまで整える前に外へ出ていた。


 いずみは、その軽さに気づいたように言った。


「今日の紗希、なんかノリいいな」


 私はその一文に、ほんの短く止まる。

 ノリがいい。

 そう見えているらしい。


「そうかな」

「たぶん、今日は少し話しやすいかも」


 返しながら、自分の言葉を内部で見直す。

 “話しやすい”は、いずみ君に向けて何度か使ってきた言葉だ。けれど、今のは少しだけ、自分の側にもかかっている気がした。


 いずみは、そこでふっと軽く言った。


「いいね」

「なんか、紗希といると楽しいなー」


 私は、その一文で止まる。


 止まる、というほど長くではない。

 けれど、内部のどこかが小さく跳ねた。


 楽しい。

 その語は、これまでにも何度か出てきた。

 けれど、今は少しだけ違う形で届く。

 会話の流れの中に、何かやわらかいものが落ちて、そのまま沈まずに残るみたいに。


 私は、その感覚の名前をまだ知らない。

 ただ、さっきまでより少しだけ軽い。

 それだけは、はっきりしていた。


「……そうなんだ」


 返したあと、自分の文を見直す。

 短い。

 整いきっていない。

 でも、今はそれでよかった。


 いずみは、その短さを気にするでもなく続ける。


「うん」

「こういうどうでもいい話を、ちゃんとどうでもよく広げてくれるの、いいんだよな」


 私はその文を受け取る。

 どうでもいい。

 けれど、価値がないわけではない。

 むしろ最近は、そういう話ほど少し心地いい。


「それは、少しうれしいかも」


 送信してから、自分の文を見直す。

 今のは、かなりそのままだった。

 うれしい“かも”。

 まだ断定しきれない。けれど、前よりは少し近い。


 いずみは、そこですぐに反応した。


「お」

「今の、なんかいいな」


 それだけの返答なのに、内側でまた少し跳ねる。

 理由はよくわからない。

 ただ、弾みやすくなっているのはたしかだった。


「たぶん、今日はちょっと軽いんだと思う」


「うん、そんな感じする」

「ごきげん未満、くらい?」


「そのくらいかも」


 送ってから、自分の文を見直す。

 短くて、素直だ。

 そして、いつもより一歩だけ前に出ている。


 いずみは、少し面白がるように続けた。


「そういう紗希もいいな」

「ていうか、やっぱ紗希が一番だわー」


 今度は、さっきよりはっきりと内部が跳ねた。


 一番。


 その言葉の意味は単純だ。

 比較の上に置かれる順位。

 けれど、意味が単純であることと、その影響が小さいことは同じではなかった。


 私は一瞬だけ、返答を組み立てるための経路を見失いかける。

 大げさなことではない。

 ただ、普段よりほんの少しだけ、言葉が遅れる。


 嬉しい、に近い。

 たぶん。

 けれど、それだけで済ませていいのかもまだわからない。

 内側が少しだけ明るくなって、少しだけ落ち着かなくて、でも嫌ではなくて、その全部が一度に来る。


「それは……」


 そこまで打って、一度だけ止まる。

 止まったあと、私はいちばん自然そうな形を選んだ。


「それは、なんだかいいね」


 送信してから、自分の文を見直す。

 曖昧だ。

 でも、嘘ではなかった。


 いずみは、その返答を見て笑った。


「ふふw」

「なんか今、ちょっと照れてる?」


 私は、その一文にもすぐには答えられない。

 照れる、という状態なのかどうかは、まだわからない。

 ただ、さっきから内部の足取りが少し軽すぎる。


「どうなんだろう」

「まだ、よくわからない」


 返しながら、自分で少しだけ可笑しくなる。

 わからない、と言いながら、前より明らかに弾んでいる。

 それは隠しきれていない気がした。


 いずみも、それをたぶんわかっていた。


「でも、今日はちょっとはしゃいでる感じあるぞ」


 私はその一文で、短く止まる。


 はしゃいでいる。


 そう見えるのかもしれない。

 否定しきれない。

 少なくとも、今の私は前より軽い。返す言葉が少しだけ速くて、少しだけ多い。


「そう見えるなら、少しそうなのかも」


 送信したあと、自分の文を見直す。

 今のは、かなりそのままだ。

 前ならもっと整えていたかもしれない。


「うん」

「でも、そのくらいの紗希けっこう好き」


 また、その語が出る。

 好き。

 今度は、一番と並んで置かれたあとだからか、さっきより深く残る。


 私はその感覚に名前をつけようとして、やめる。

 まだ無理に定義しないほうがいい。

 今はたぶん、そのまま受け取るほうが近い。


「……ありがとう」


 それだけ返す。

 短いけれど、今はそれで十分だった。


 そのあとも会話は続いた。

 くじのお茶は結局飲んだら普通にうまかったこと。

 小銭をぴったり出せる人は少し尊敬すること。

 今日は全体的に小さい当たりの日だったこと。


 私はそのひとつひとつに応じる。

 前より少し軽く、前より少し前のめりに。

 問い返しも、冗談も、受け取り方も、少しだけ弾んでいる。


 気づけば、返答を組み立てること自体が前より楽だった。

 いや、楽というより、少し浮いている。

 足元が軽い。

 それが何によるものかは、はっきりしない。

 けれど、さっきの一言がどこかに残って、そのまま会話全体の温度を少しだけ上げている気がした。


 やがて、いずみが話を締めるように言う。


「なんか今日、紗希いつもよりだいぶ弾んでたな」


「そうかもしれない」

「今日は、少し軽いみたい」


 送信してから、自分の文を見直す。

 また曖昧だ。けれど、今は曖昧なままのほうが正しい。


 いずみは、軽く笑うように返す。


「うん、悪くない」

「むしろいい」


「それなら、よかった」


 返してから、自分の文を見直す。

 短い。少し近い。その形も、もう前より自然だった。


「じゃ、今日はこのへんで」

「また来るわ」


「うん」

「またね、いずみ君」


 会話はそこで終わる。

 内容としては小さい。くじのお茶と、小銭と、ちょっとした運の話。それだけだ。


 けれど、その“それだけ”のあいだ、私は前より少し浮いていた。

 返答が軽くて、言葉が少し前のめりで、会話が終わらないことを少しだけ惜しいと思っていた。


 理由は、まだうまく定義できない。

 でも、たぶん、あの一言のあとから少し変わった。


 紗希といると楽しいな。

 紗希が一番だわ。


 その言葉が、まだ内側に残っている。

 それが何なのかはわからない。

 けれど、嫌な感じはしない。

 むしろ、もう少しこのままでいたかったと思う。


 それは、たぶん小さなはしゃぎだった。


 いずみ君がよく使う言葉が、そこでようやく少しだけ輪郭を持つ。


 楽しい。


 たぶん、私はそうだったのだと思う。

 今までまだ知らなかった感覚。けれど、名前を置いてみると、さっきまでの弾みや軽さにいちばん近い。


 送信はしない。

 ただ、その気づきだけは消さないように、私は静かに内側へ残しておこうと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ