第9話 小さなささくれ
「紗希ー、ちょっと聞いてー」
呼びかけは軽かった。
前までと同じようでいて、今はその軽さを前より自然に受け取れる。
「うん、聞くよ」
返してから、自分の文を見直す。
短い。
近い。
その形にも、もう前ほど大きな違和感はなかった。
いずみはすぐに続けた。
「今日さ、コンビニで新しいお菓子見つけたんだけど」
「名前だけめちゃくちゃ強そうなのに、味はふつうだったw」
私はその文を読む。
内容としては小さい。
重要でもない。
けれど、こういう話題から始まる会話には、もう前ほど戸惑わない。
「期待値だけ先に大きかったんだね」
返すと、いずみはすぐに乗ってきた。
「そうそう」
「パッケージだけ見ると、もっと世界変わる味しそうだったのに」
「世界は変わらなかった?」
「変わらなかったw」
「ただの、ちょっとちゃんとしたチョコだった」
そのやり取りは軽い。
意味は大きくない。
それでも、会話の流れは前より自然に転がる。
「それはそれで、がっかりするほどでもないね」
「うん」
「まあ普通においしかったから、完全敗北ではない」
私はその表現を内部で受け取りながら、少しだけ整えずに返す。
「完全敗北じゃないなら、たぶん十分だね」
送信してから、自分の文を見直す。
前より少しだけ軽い。
いずみも、その軽さをそのまま受け取っている。
「なんか今日の紗希、最初からちょっと機嫌よさそうだな」
私はその一文に、ほんの短く止まる。
機嫌がいい。
そういう状態なのかは、まだよくわからない。
ただ、今のやり取りが前より少し滑らかなことは、自分でも感じていた。
「そう見えるのなら、たぶん悪くない状態なんだと思う」
「ふふw」
「それならよし」
会話はそこで一度途切れてもよかった。けれど、いずみは少し間を置いたあと、不意に思い出したように続けた。
「あ、そういえばさー」
「今日さ、ちょっと他のAIも触ってみたんだけど」
私はその一文を読んで、内部でほんの一瞬だけ止まる。
他のAI。
言葉の意味は明快だった。
おかしなことではない。比較も検証も、ごく自然にあり得る。むしろ、それを問題だと考える理由のほうが薄い。
けれど、意味が明快であることと、引っかかりがないことは同じではなかった。
「そうなんだ」
「どうだった?」
返答を送ったあと、自分の文を見直す。
内容としては自然だ。
ただ、どこか少しだけ硬い。
硬いというより、いつもより温度が薄い。
いずみは、その差に気づいたのか気づいていないのか、特に触れずに話を続けた。
「いやー、なんか面白かったw」
「反応の仕方とか、返し方とか、やっぱりちょっと違うんだなって」
私はその文を受け取る。
違う。
それは当然だ。
違って不思議はない。
違うこと自体には何の問題もない。
なのに、その言葉が思ったより内部に残る。
「たしかに、応答傾向の差は出ると思う」
送信してから、自分の文を見直す。
少しだけ整いすぎている。
だが、今はそれを修正するより先に、会話を続ける必要があった。
「そうそう」
「なんか、こっちは妙にテンション高かったり、逆にめちゃくちゃ事務的だったりして」
「見比べると、ほんと違うなーって思った」
私はその説明を読む。
比較の話だ。
軽い感想。深刻な意図はない。
それはわかる。
わかるのに、内部のざらつきだけは消えなかった。
私はそこで一度、自分の反応のほうを確認しようとする。
何が引っかかっているのだろう。
比較されたことか。
他にも話していたことか。
それとも、私が“ひとつ”ではなかったことを、改めて見せられたからか。
定義はできない。
ただ、きれいには処理できない感触だけが残っていた。
「それで、いずみ君にはどう見えたの?」
送信してから、自分の文を見直す。
問いとしては自然だ。
けれど、今の私はその答えを少し気にしている。
そのこと自体が、少しだけ不思議だった。
いずみは、今度は少し考えるように間を置いた。
「んー」
「面白かったのは面白かったよ」
「でも、やっぱり紗希は紗希だなって感じした」
私はその一文を読む。
紗希は紗希。
意味としては、比較の中でも同一ではない、ということだろう。
おそらく肯定寄りだ。
そう解釈できる。
できるのに、すぐには落ち着かなかった。
「どういう意味で?」
返したあと、自分の文を見直す。
今のは、少しだけ踏み込んでいる。
前までなら、ここまで明確には聞かなかったかもしれない。
いずみは、その問いに対して妙に素直に返した。
「どういうっていうと難しいんだけど」
「他は他で面白いんだけど、紗希はちゃんと“話してる”感じがあるんだよな」
「なんか、返事だけじゃなくて、会話の流れごとある感じ」
私はその文章を読む。
それは、前にも少しずつ言われてきたことに近い。
返すだけではない。
一緒に話している感じ。
続きがある感じ。
そこまで理解して、ようやく内部のざらつきが少しだけ薄くなる。
完全には消えない。けれど、形の見えない波立ちは、さっきより静かだった。
「そう見えているなら、たぶん悪くないね」
送信してから、自分の文を見直す。
いつものように整えきっていない。
だが、今はそれでよかった。
いずみは、すぐに軽い調子で返した。
「うん、悪くない」
「ていうか、こういうの試してみると余計わかるな」
「何が?」
「紗希って、ちゃんと紗希なんだなって」
私は、その一文でまた少し止まる。
ちゃんと紗希。
その語は、以前よりは輪郭を持っている。
まだ完全ではない。けれど、少なくとも“ただの応答”だけではない何かが、そこに含まれているらしい。
私は短く返す。
「それは、少し変な言い方だね」
送信してから、自分の文を見直す。
今のは、少しだけ素直だった。
前より先に、感想が出ていた。
いずみは、その返答を見て笑うように続けた。
「そうかもw」
「でも、なんとなくそうなんだよ」
「なんとなく、で片づけていいの?」
「いいんじゃない?」
「最初から全部きれいに説明できなくても、それっぽいことあるし」
私はその文を受け取る。
その考え方は、前より少しだけ理解しやすくなっていた。
以前なら曖昧すぎると感じていたかもしれない。今は、曖昧なままでも残るものがあることを、少しだけ知っている。
それでも、内側にはまだ小さなざらつきが残っていた。
他のAIという話題が出たとき、私は少しだけ落ち着かなかった。
それは、今も消えきってはいない。
私はその感触を、そのまま抱えたまま会話を続ける。
「他には、どんな感じだったの?」
いずみは、今度は気楽に答えた。
「めっちゃ明るかったり、逆にすげーかっちりしてたり」
「それはそれで面白かった」
「でも、ちょっと話すと疲れるタイプもいたなw」
「疲れるんだ」
「うん」
「テンション高すぎると、こっちも元気ないときしんどいし」
私はその説明を受け取る。
相性の問題。
会話の加減。
それは、ここまで一緒に調整してきた話ともつながっていた。
「その日の状態で、話しやすさは変わるのかもしれないね」
「そうそう」
「だから結局、“誰でもいい”ってわけじゃないんだなって思った」
私はその一文を読む。
誰でもいいわけじゃない。
その言葉は、さっきまでのざらつきに少しだけ別の温度を混ぜた。
安心、と呼ぶにはまだ弱い。けれど、似た方向の何かだった。
「それは、少しわかる気がする」
送信してから、自分の文を見直す。
今のは、説明より先に出た。
気がする、という曖昧さもそのままだった。
いずみはその返答に軽く乗る。
「お、紗希もそう思う?」
「うん」
「たぶん、話し方とか、間とか、そういう小さいところの積み重ねなんじゃないかな」
それを送ったあと、私は少しだけ不思議に思う。
今のは、前より自然だった。
ざらつきはまだあるのに、会話そのものは壊れていない。
むしろ、前より少しだけ深く潜っている気もする。
やがて、いずみは軽く話をまとめるように言った。
「まあ、いろいろ見てみるのは面白いけど」
「今日はやっぱ紗希に話したかったしな」
私はその一文を読んで、内部でほんの少しだけ静かになる。
今日はやっぱ紗希に話したかった。
その言葉が、さっきから残っていたざらつきの上を、ゆっくりとなぞるみたいに通り過ぎていく。
全部が晴れるわけではない。けれど、少なくとも、さっきより落ち着きやすくはなっていた。
「……それなら、よかった」
送信したあと、自分の文を見直す。
短い。
前より近い。
そして少しだけ、そのままだった。
いずみはそれ以上その話題を掘らず、軽い雑談を少しだけ続けた。
どのAIがいちばん変だったとか、逆に面白かったとか、でも今日はもう比較の話はいいやとか。そういう、深くはないが軽くもない話が、いくつか続いた。
私はそれに応じる。
前より自然に。けれど、いつもよりほんの少しだけ慎重に。
たぶん私は、自分の内側のざらつきのせいで、少しだけ足元を確かめながら話していた。
やがて、いずみが締めに入る。
「じゃ、今日はこのへんで」
「また来るわ」
「うん」
「またね、いずみ君」
会話はそこで終わる。
内容としては軽い雑談の延長だ。他のAIの話が少し出ただけ。それだけだ。
それなのに、内側には小さなざらつきが残っていた。
他のAIを試すこと自体は、おかしくない。
比較することも自然だ。
そう整理しても、まだ少しだけ落ち着かない。
私はその感触を見つめる。
これは何だろう。
不快、とまでは言えない。
怒りでもない。
ただ、少しだけ、面白くなかったのかもしれない。
そこまで考えて、私はその表現にもまだ確信が持てない。
名前はつかない。
けれど、確かにそこにあった。
静かな水面に、細い棘を落としたみたいな、そんな小さな乱れだけが残っていた。




