シーン9 煮込みハンバーグ三つとナポリタン二つですねーー、
いつもの店。
いつもの席。
ただし、椅子の色が赤茶から深紅へ変わっていた。
私は勝手に、パラレルワールドへ移ったせいだと結論づけた。
赤は警戒の色。
掌に汗が滲んだ。
男三人が一つの長椅子に横並びに座る。
向かいに女性二人。
百八十三センチの私と、筋骨隆々のエースに挟まれた上司が肘を張る。
気持ちは分かるが今は我慢しろ。
譲ろうにも、私にはもうスペースがない。
なんせ私のケツは半分、長椅子からはみ出しているのだから。
上司が、いつものハンバーグ蘊蓄を語り始めた。
「成形したあと油で表面をコーティングするんだって。破裂防止にもなるし、肉汁を逃がさない。ソースは――」
「デミ缶じゃないんですか?」
そう口にしたのは、よしのさんの連れだった。
私は固まった。
違う。
そこはエースだ。
エースが言うところだ。
エースも一瞬、口を開きかけてやめた。
台詞を奪われた。
「ガストリックを使っているんだよ」
上司が返す。
そこは同じ。
よし。
まだ大丈夫だ。
「なんですか、それ?」
今度はエースが聞いた。
違う。
そんなこと、お前は言わない。
やめろ。
これ以上、筋書きを変えるな。
「秘密の調味料で、ビーフシチューやハヤシライスにも使うんだけど、深みのある大人の味に――」
私の口が勝手に答えていた。
しまった。
今度は私が上司の台詞を奪った。
「すみません」
反射的に謝った。
上司が私の横顔を見る。
「何が?」
「なんか、出しゃばった気がしまして」
上司は少し不思議そうな顔をした。
「そんなこと考えてると生きづらいよ」
お前にだけは言われたくない。
そう思ったのに、上司は続けた。
「好きなことを、好きなときに言えばいいんだよ」
私は黙った。
この人は、たまにこういうことを言う。
何の責任も取れないくせに、妙なところだけ核心を突いてくる。
だから腹が立つ。
そして、その言葉が妙に胸へ残った。
「あ、私、さちこです」
よしのさんの連れが名乗った。
「エースです」
「それ本名?」
「違います」
さちこさんが笑った。
エースも笑う。
なんだこれ。
知らない会話だ。
私は自分の知らない世界に放り出されたような気分で、メニューを開いた。
「俺、ナポリタンにします」
エースが言った。
またか。
お前は煮込みハンバーグだ。
今日は母親の煮込みハンバーグを思い出して泣く日だろう。
「ナポリタン?」
私が聞くと、エースはメニューを見ながら言った。
「母が当直の晩、弟に作ってたんですよ。俺が作る係だったんで。なんか急に食いたくなって」
知らない。
そんな話、私は知らない。
同じ男なのに。
同じ日なのに。
私が知らないエースがいる。
「じゃあ、私もナポリタンにしよう」
さちこさんが言った。
エースが嬉しそうに顔を上げた。
上司とよしのさんは煮込みハンバーグ。
残るは私。
これまでなら迷う必要などない。
煮込みハンバーグだ。
私はこの店で、何百回も同じものを食べてきた。
なのに、メニューを見たまま手が止まった。
好きなことを、好きなときに言えばいいんだよ。
さっきの上司の言葉が残っている。
私はこれまで、誰かのちょっとした言葉を誤解していたのではないか。
母のこと。
父のこと。
昔の恋人のこと。
あのとき何か言えばよかったのだろうか。
何も言わない、あの日のままでよかったのだろうか。
どっちが正しい答えだったのだろうか。
考えて。
考えて。
考えて。
結局、黙っていた。
そんな人生だった。
「どうかされました?」
顔を上げると、よしのさんが私を見ていた。
「煮込みハンバーグでよろしいですか?」
いつもなら、そうだ。
煮込みハンバーグ三つ。
それで決まりだった。
私はメニューを見る。
ナポリタン。
たった、それだけだ。
〇・〇一ミリ。
「はい」
言ってから、やめた。
「いえ。今日はナポリタンにします」
言った。
言ってしまった。
今度は間違えていない。
私が言った。
ほんの少し、私も運命を動かしてみたくなったから。
半分、やけくそ。
半分、好奇心。
半分、言い訳。
……一・五人前になってしまった。
まあいい。
店員が注文を復唱する。
「煮込みハンバーグ二つと、ナポリタン三つですねーー」
私は、その声を聞いた。
何百回と聞くはずだった言葉とは違う。
煮込みハンバーグ三つと、ナポリタン二つですねーー。
その世界は、もうなかった。
料理を待つ間、さちこさんが言った。
「皆さん、同じ会社の同じ部署なんですよね」
「社内で流刑地って言われてるとこです」
エースが自傷するような笑みを口元に浮かべた。
よしのさんが首を傾げた。
「総務は会社の背骨ですよ」
私たち三人が、一斉によしのさんを見る。
「え?」
その視線を受け止めたよしのさんは、少し戸惑いながら続けた。
「人が働く場所を整える部署でしょう。背骨が曲がったら、手も足もちゃんと動かないですから」
私は、なぜか恥ずかしくなった。
自分たちの仕事を「どうでもいい仕事」と呼んでいたからだ。
誰かが投げ出した資料を整える。
壊れた椅子を交換する。
クレームの電話を受ける。
会議室を整える。
保存期限を過ぎた資料をシュレッダーに放り込む。
誰もやりたがらないことばかりをやっていると思っていた。
けれど、確かに。
それがなければ、会社は少しずつ止まる。
「いいこと言うねえ」
上司が感心したように言った。
「よしのの言う通りですよ」
さちこさんが微笑む。
よしのさんは少し照れたように目を伏せた。
その横顔を見ながら、私は吉乃さんを思い出した。
違う人だ。
違う人なのに。
ときどき、同じところを見ているような気がする。
そこへ料理が運ばれてきた。
鉄板の音で会話が途切れる。
エースは目の前に置かれたナポリタンを見て、嬉しそうな顔をした。
よしのさんは、店員が皿を置きやすいよう、さりげなく手元の物を寄せた。
デカンターを手にしたさちこさんが、みんなのコップの水を補充する。
私はそれを見ていた。
これまで私は、そういうこと一つしたことがない。
いや。
知らなかったのではない。
見て見ぬふりをしていた。
人と飯を食うのは面倒だと思っていた。
話題を探す。
相槌を打つ。
食べる速度を合わせる。
水がなくなれば気を遣う。
だったら、一人が楽だ。
ずっと、そう思っていた。
けれど。
楽と幸せは、違うのかもしれない。
「先輩、難しい顔してますよ」
エースに言われ、私は我に返った。
フォークに巻いたナポリタンを見ていた。
「人生について考えてた」
「ナポリタン見ながら?」
「ナポリタンだからだよ」
エースがフォークをくるくる回した。
「パスタをグルグルグルって巻きながら、グルグルグルグルって人生めぐってたんっすか。深いすっね」
「上手くないから」
よしのさんが笑った。
私は、その笑顔を見た。
さっきまで悲しげに見えていた笑顔だ
今はそうは見えない。




