シーン8 私もポンコツ上司と変わらない。
私は同じ一日を繰り返していた。
煮込みハンバーグを食べ、エースの涙を見送り、牛乳を買い忘れる日々。
塗り絵の黒線から色鉛筆がはみ出さないように、一日のトピックが変わらぬよう注意して過ごした。
今がいい。
変えたくない。
変わりたくない。
このままがいい。
健康が維持される。
生活費がいらない。
人間関係が増えない。
安泰の人生を手にしたのだ。
最初のうちは、本気でそう思っていた。
だが、同じ日を数えた正の字が七つになった頃、言葉から感情が消えた。
十三個になった頃には、会話が棒読みになった。
上司が何を言うか知っている。
エースがどこで笑うか知っている。
店員がどちらの手で皿を置くかも知っている。
驚かない。
腹も立たない。
期待もしない。
平穏だった。
完璧なまでに、平穏だった。
そして正の字が四十九個になった日。
よしのさんの微笑みが、悲しげに見えた。
初めてだった。
毎日、同じ場所で、同じように微笑んでいる。
何百回と見てきたはずの顔だ。
なのに、その日だけ。
なぜだろう。
私はほんの一瞬、見入った。
すれ違う。
いつもどおり、私は振り返る。
ハンカチが落ちる。
拾わなければ。
そう思ったときには、もう遅かった。
エースが先に拾った。
「あの、これ落としましたよ」
――は?
私は恐怖した。
待て。
おい。
何をしている。
それは私が拾うハンカチだ。
いや、私のハンカチではない。
そういう意味ではない。
お前は拾わない。
私が拾う。
毎日、そういう段取りだったじゃないか!
何を勝手に、今日に限って、善人ぶっている!
一昨日も、その前も、その前の前も、お前は黙って通り過ぎていたじゃないか!
なぜーー、今日に限って拾ったんだ!
返せ。
いや、違う!
返す相手は私ではない。
筋書きが変わってしまっただろうがーーーーー!
たった一瞬。
私がよしのさんの顔に見入っただけなのに。
なのに、その、その!ほんの一瞬の遅れで――。
私の平安を、馬鹿エースが、持ち前の運動神経だけで壊しやがった。
チキショーーーウ!
脳内でコウメ太夫が絶叫する。
馬鹿エース!!
若さか!
運動神経か!!
元野球部の反射神経なのか!!!
そんなものを、今ここで発揮するなよ!!!!
私が何日かけて、この一日を寸分違わず繰り返してきたと思っている!!!
雨も降らない。
金も減らない。
ねこも死なない。
私が守り抜いてきた完全無欠の平安を、この男はたった一回腰を屈めただけで破壊しやがった。
拾うなよ!
頼むから今日も、気の利かない若者でいてくれよ!
まずい。
戻さなければ。
何をどう戻せばいいのか分からない。
でも、とにかく昨日までと同じにしなければならない。
焦った私は二人のもとへ駆け寄った。
「あっ、そのハンカチ、よしのさんのですよね」
言った。
言ってしまった。
空気が凍った。
……あ。
初対面の女の名前を知っている中年男。を。
よしのさんの隣にいる女性の目が、犯罪者を見るような目で見ている。
そりゃそうだ。
「あっ、いや、その、前にあなたがそう呼ばれているのが聞こえまして」
何の「前」だ。
今日は初対面だ。
自分で言って、自分で追い詰められていく。
しどろもどろになった私を、エースが助けた。
「あの時ですよね。綺麗な人がお二人歩いてて、先輩と見惚れちゃった日」
こいつ。
存在しない過去を、すらすらと。
営業って怖い。
「ああ、そうなんだよ」私も乗った。
もう戻れない。
すると、いつの間にか隣にいた上司が言った。
「これをご縁に、軽〜い気持ちでランチしませんか?」
普段なら、何を言ってるんだこのポンコツ、と心の中で罵倒するところだ。
だが今は、この適当さがありがたかった。
よしのさんの連れが、よしのさんを見る。
「どうする?」
よしのさんが私たちを見る。
一秒。
二秒。
頼む。
断ってくれ。
断ってくれれば元に戻る。
何も変わらない日々に戻れる。
今日も三人で煮込みハンバーグを食べて、エースが泣いて、私は牛乳を買い忘れる。
それでいい。
それがいい。
なのに私は――。
「煮込みハンバーグが最高なんです」と、口走っていた。
……。
なぜ勧めた、私。
断ってほしかったんじゃないのか。
チキっーーショウーーー!!
二人目のコウメ太夫が脳内を走り抜けた。
上司を見る。
人の縁を、深く考えもせず、その場の勢いだけでつないでしまう男をみた。
そして私は気づいた。
私もポンコツ上司と変わらない。




