シーン4 煮込みハンバーグ
店の四方の壁には赤茶のレンガタイルが貼られ、椅子も同じような色で統一されていた。古い洋館を思わせる店内には、バターとコーヒーと、何年も染み込んだデミグラスの匂いが混じっていた。この香りがまた堪らない、期待感を掻き立てられる。料理が来るまでの間、手持ち無沙汰なのか、様子伺いなのか、単に話したいだけなのか、配属されたばかりの部下相手に、上司は得意げにハンバーグのウンチクを語りはじめた。
「成形したあと油で表面をコーティングするんだって。破裂防止にもなるし、肉汁を逃がさない。ソースはデミ缶じゃなくてガストリックを使ってるらしいよ」
私はよく知ってるな、と感心しかけて、いや待てと思い、どうせ誰かから聞いた話をそのまま覚えているだけだろうとたどり着いた。すると、楽しそうに聞いていたエースが「母が夜勤明けの日に作ってくれたんですよ。中濃ソースに砂糖、ケチャップ、最後にバター。キッチンから匂いがすると、あ、今日は煮込みハンバーグだってわかったんです」と言った。
私が「お母様はお元気なの?」と聞いたのは、話題を広げたかっただけだった。エースは笑みを絶やさず「俺が中二のとき、勤務先の病院で倒れて、そのまま亡くなりました。看護師だったんです。シングルマザーだったんで、俺と弟は祖母に引き取られて」と言った。
しまった。
「あっ、なんか、ごめん」
「いやいや。母の頑張り見てたんで、今の俺があるんですよ」
上司が部活の話を振ると、エースは「野球です。監督から、強豪校に特待で行けるかもしれないって言われてたんですよ。母ちゃんの負担、少し減らせるかなって思ってて」と言った。
話し慣れていた。
営業先でも何度となく、この生い立ちを語ったのだろう。
「だから献身が周りに圧になりがちって書いてあったんだね」上司が何気なくこぼした。
空気が止まった。
エースの顔から笑みが消える。
「……あいつが、そう書いたんですか」ダブルブッキングの後始末。下の者に行かせれば揉める。だから自分が出た。初動が遅れていたことは共有されていなかった。
事情を吐き出すエースに、上司は「見る角度と保身が働くからね」と柔らかく言った。
お前が言うな、と私は思った。
その頃、厨房から「三番さん、煮込み三つ出るよー」と声が飛んだ。
鉄板の上でソースがじゅうじゅうと跳ねる。「どうして、いつも懸命に働く人より、何も言わない人の方が評価されるんですかね」エースがぽつりと言った。「そうだね。平和だからだよ」なぜか、私はそう答えていた。上司が私を見る。「そう思いません?」と聞いた私に、「さぁー、どうかな」と答えやがった。くそポンコツ!何もかも俯瞰視しかしない、クソ傍観者!!と私は心で毒を吐いた。
沈黙を深めた私たちにハンバーグが届いた。
「食べようか」
上司の声を合図に、三人でナイフとフォークを手にする。
美味い。
やっぱり美味い。
米が進む、いけない系の味だ。
ガツガツ食べながら横を見ると、
エースは泣いていた。
泣きながら、ガツガツ食べていた。
きっと、母親の煮込みハンバーグとは全然違う味なのだろう。
私には言える言葉が浮かばなかった。
私も……ポンコツだった。
店を出たあと、エースは立ち止まり、「すみません、先に行っててください」そう言って店の方へ戻った。忘れ物かと思ったが、数分後に戻ってきた手には何もなかった。「何かあった?」と聞くと、「店員さんに、美味しかったですって言ってきました」と言った。
上司は「律儀だねえ」と笑った。
私は笑えなかった。
美味しかった。
ありがとう。
その程度の言葉を、私はどれだけ飲み込んできただろう。
言わなくても伝わる。わざわざ言うほどでもない。相手は仕事なのだから。
そうやって、口にしない理由だけはたくさん知っている。
エースは違った。
嬉しければ嬉しいと言い、悔しければ泣く。
私はそれを若さだと思っていた。
だが、もしかするとあれは若さではなく、勇気なのかもしれない。
会社へ戻るエレベーターの中で、上司が小声で言った。
「彼、営業に戻りたいだろうね」
「そうでしょうね」
「戻れるといいね」
私は上司を見た。
この人は、たまにこういうことを言う。
何の責任も取れないくせに、誰かの願いだけは素直に願う。
だから余計に腹が立つ。
そして、少しだけ嫌になる。




