シーン3 エースの席は陽だまりで、昼寝には最適だ
コンコン。
ノックされた部署のドアを、全員が一斉に見た。このドアがノックされることには、テレビのサイレント表示と同じ効果がある。室内の空気が一瞬で静まる。今日は何の件だろう。手に負えなくなったクレームのなすりつけか。早期退社という名の肩叩き業務か。偉い人が三角形で歩くための誰かのお供か。
保存期限を過ぎた資料をシュレッダーへかけるのも、私どもの大切な業務の一つです。
ドアを開けたのは、三年前に「未来のエース」と鳴り物入りで移籍してきた男だった。「今日から、こちらでお世話になることになりました」頭を下げた背中は丸く、浣腸ゲームの洗礼でも受けたみたいに強張っていた。最古参の情報によれば、ダブルブッキングの後始末を買って出て、しくじったらしい。やる気を出してのやらかしは、確かにこうなるわなーー。そう思った私は残酷なのか、それとも今が見えているだけなのか。
昨夜の吉乃さんの声が蘇る。
『思わぬ色合いの景色が、そなたの目に映るであろう』
ポンコツ上司が立ち上がった。「あれ、今日だったっけ?? ごめん、ごめん。明後日だと思ってた。さっ、さっ、入って入って」
絶対に赴任日を忘れていた。「今日からここが君の城だよ。席はあそこね」その場しのぎの適当さで呼吸する、この人の脊髄反射は昆虫並みに優れている。決してディスっているわけではない。この反射神経ひとつで、彼は四度もの荒波を潜り抜けて今の椅子を守ってきたのだ。
エースが抱えていた段ボール箱を、窓際の机へ置いた。そこは陽だまりの席だった。午後になると柔らかな日差しが背中を撫で、ウトウトと船を漕ぐには最適な場所である。お疲れさま、エース。君が担ってきた激務の日々は、きっと道理の通らぬ道だったに違いない。――なんて、私は勝手に想像した。実際のところは知らない。ただ、頭を下げたあの背中を見ていると、そう思いたくなった。
少し休んだ方がいいよ、エース。
色相がほんの少し濁っただけだ。
お日様は誰にでも平等で、あったかい。
これってさ、みんなが目指している平等の世界線の基本理念だよ、きっと。
エースの荷物が片づいた頃、私は上司に声をかけた。
「昼飯、どこ行きますか?」
顔を上げたエースが「あの、自分もご一緒していいですか」と言った。
「もちろんだよ」ポンコツ上司が即答した。
若干距離はあるが、煮込みハンバーグが絶品の古き良き喫茶店風カフェへ行くことになった。交差点で信号を待っていると、エースがぽつりと言った。
「こういう感じで昼飯に行くの、入社してから初めてです」
「今までどうしてたの?」と聞いた私に、エースが「コンビニのおにぎりとか、パワーゼリーで済ませてました」と言った。朗らかな横顔なのに、口元には罪悪感みたいな硬さがあった。私の視線に気づいたエースが「あっ、なんか俺、忙しくしてた方が生きてるって思うタイプなんですよ」と早口で言った。
「信号変わったよ」と歩き出した上司が、「わかるな。自分がやんなきゃって勝手に刷り込んじゃってね。睡眠時間以外も段取りとか、打ち合わせのシミュレーションしたりするんだよね」と言った。おいおい、そんなわけないだろう。私は心で突っ込みを入れつつ「二割説って知ってます?」と聞いておきながら、答えを待ちきれず「会社って二割の人が残り八割を賄うんですって」と続けて言っていた。最低の上に、人が話していたのを小耳に挟んだだけなのに、さも自分の持ちネタみたいに言ってしまった。
「なんかわかるよ、その話」と言って頷いた上司が「もともと人間の器って同じじゃないのに、一緒に頑張りましょうって無理が出るよね」と言うと、「リレー競技みたいですよね」とエースが返した。
おお。
二人の会話が成立している。
感動していると、すれ違った女性が、なぜか私を見て微笑んだ。気になって振り返ってみると女性がハンカチを落とした。「あの、落としましたよ」拾い上げて声をかけた。
「ありがとうございます。よかったー、友達からもらったハンカチだったんです」
私は固まった。
目元が、吉乃さんに似ていた。
連れの女性が、怪訝な目で私を見る。
「ありがとうございます。行こー、よしの」と言ってきっちり頭を下げた。
その仕草を見て、私は察した。
関わりを持ちたくないときほど、人は丁寧になる。
カスタマーセンターがその典型だ。守ろうとすればするほど距離が生まれ、距離を隠そうとすればするほど態度は丁寧になる。人間はどこまで進化するのだろう。寝て、食べて、愛を語らうは伝説になり、ハリネズミみたいに何もかもへ神経を尖らせて日々を送る。
寂しさは弱さ。
孤独は安心。
気遣いはおせっかい。
ほったらかしは――愛。
……なんてな。そうやって何でも理屈にして、人から離れてきたのは私の方だ。
やめよう。
不毛だ。
この、どろんがらんな小さな世界で、私は生きているのだから。
「おーい」上司の声が飛んできた。女性がぺこりと頭を下げて歩き出す。
「すいません、お待たせしました」私は上司とエースのもとへ駆けた。
背後で、冬の風が一度だけ吹いた。
白檀の香りがした。
振り返ったが、もう二人の姿は人混みに紛れて見えなかった。
……気のせいか。
私はエースたちを追った。
途中、エースは何度も振り返った。
「どうしたの?」
「いや、さっきの人たち、綺麗だったなと思って」
若い。
実に若い。
思ったことを、思った瞬間に言える。しかも「綺麗だった」と口にしたところで、相手にどう思われるか、自分がどう評価されるかまで先回りして考えていない。私ならまず、言わない。言ったあとに「あれは容姿に対する評価と受け取られないだろうか」「女性を外見で判断する男と思われないだろうか」「上司の前で軽薄に見えないだろうか」と三周くらい考える。その間に話題は変わっている。
「先輩は、どっちが好みでした?」
「どっちって」
「ハンカチの人と、隣の人」
「そういうことを職場の人間に聞くな」
「すみません」エースは笑った。謝っている顔ではなかった。




