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シリウスが見ていた  作者: 國生さゆり


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シーン  笑う能面が聞く



クソ!!!


カッコつけて、


「お供します」


などと言ったから。


バチが当たった!!


「ここで」


と言ったよしのさんと別れてから駆け出し。


家に帰り着いたのが八時十五分。


慌ただしくシャワーを浴びて。


家を出たのが八時四十五分。


遅い!!!


スーツ。


新しいスーツとワイシャツ。


ネクタイ。


その準備に手間取ったのだ。


タグだ!


クリーニングタグ!!


取るのに手間取ったのだ。


タグの紙質は頑丈で。


無理に引っ張れば生地が傷む。


だから。


ホッチキスに手をかける。


だが!!


針を立てるのに失敗すれば。


指先に突き刺さる。


慎重を期するためには。


ホッチキスを使うしかない。


そう!!


ホッチキス!!


ホッチキスの尻にある。


あの突起を使って。


根気強く。


一本一本。


引き起こしてゆくしか手はない。


ハサミ⁈


そうか。


ハサミを使えばよかったのか……。


時間に余裕がないと。


考えも狭まる。


いい教訓を得た。


クソ!!


四つの服に。


なぜか六つのタグ。


バチッと留まっているホッチキスの針に突起を差し込み。


引き上げる。


繰り返す。


落ちたタグを拾い集める。


そして。


床に這いつくばった。


取りこぼした針はないか。


確認する。


案の定。


いや。


予想通り。


一個見つけた。


指先を舐め。


落ちた針へ押しつけ。


拾い上げる。


タグと針の数を。


もう一度。


しっかり確認して。


ゴミ箱へ捨てた。


ねこは。


ああいうものが好きだ。


タグ。


ホッチキスの針。


何かの破片。


なぜか猫という生き物は。


人間が、


「いけません」


と思うものほど。


両手で突き回す。


口をモグモグさせているのを見るたび。


私は何か誤飲したのかと慌てて。


口の中を確認している。


そんな思いからか。


単に焦っていたのか。


今朝の私は。


なおのこと小さな破片へ気を取られ。


時間を食う羽目になった。


会社へ駆け込んだのは。


始業時間ギリギリ。


セーフ。


遅刻ではない。


だが。


私の息は。


上がりきっていた。


そこへ。


スマホが鳴った。


「もしもし」


『お取り込み中、申し訳ない』


上司だった。


『今日は会社に来るの?』


何を想像した。


この野郎。


とは思ったが。


上司なので。


「今、階段を上がり始めました。すみません」


『そのままUターンして、トモッキーが入院してる病院に行ってくれるか』


「はい?」


『お前に会いたいって。企画部経由で言ってきた』


「なんで! 私なんかに会いたいんですか⁈」


聞いても。


無駄だった。


『さぁ〜な。芸能人の考えなんて、俺には分からないな〜』


それが上司の答えだった。


確かに。


答えは。


トモッキーにしか分からない。


     *


病院の入口に。


あの時の取り巻きの一人が立っていた。


ソワソワと周囲を見回していたその人が。


私を見つける。


一瞬。


顔をしかめた。


そして。


駆け寄ってきた。


その勢いに押され。


私は二、三歩。


後ずさる。


それでも彼は距離を詰めた。


「その節はご迷惑をおかけしました。マネージャーの林田と申します。今日はご無理を申し上げまして」


左手に持っていた名刺入れに。


右手をかける。


可憐な手つきで一枚抜き。


私へ差し出した。


「頂きます」


私も内ポケットへ手を入れた。


……ない。


名刺入れ。


あっっ!!


移し替えるのを忘れた……。


「申し訳ありません。今日は名刺を切らしておりまして」


所在なく言った。


「あっ、いいです。いいです。企画部の方の連絡先は知っているので」


どっちが。


失礼か。


……どちらも失礼だ。


だが。


より失礼なのは。


名刺入れを移し忘れた私だろう。


歩き出した林田さんについてゆく。


「お加減はいかがですか?」


「今朝、やっと起き上がれるようになりまして」


林田さんは歩きながら答えた。


「開口一番、あなたに会いたいと言いました」


「私に?」


「ここ数年、忙しくて。まともに休んだ日は一日もありませんでしたから。先生のお話では、疲れが溜まっていたのでしょう、ということでした」


少し間を置く。


「我々の仕事って、いつ用済みになるか分からない不安を抱えながら、毎日椅子取りゲームをしているようなものなんです」


笑った。


「本人からも、休みができないようにと言われていましたから。無理をさせていたのかもしれません」


林田さんは。


どこか。


自慢げだった。


     *


知っている。


こういう人たちを。


バリバリと仕事をこなす。


華やかな部署に帰属している人たち。


忙しいことが。


必要とされている証で。


疲れていることさえ。


価値の証明にする。


自動販売機の前で。


私は立ち止まった。


「すみません。ちょっとお時間いただきます」


お茶を買う。


その場で。


ごくごくと飲んだ。


そして思い出す。


二日酔いだった。


すると。


脳みそに。


よしのさんの顔が蘇った。


膝の上に乗ったねこを撫でていた手。


私に薬を差し出し。


ひるがえした掌。


コーヒーカップを持つ指先。


和やかだった朝の気分は。


もう。


どこにもなかった。


知り合いでもない芸能人に。


電話一本で呼び出される。


私の価値は。


安すぎないか。


そんな。


自尊が。


やるせなさへ変わっていた。


「あの……」


「ああ。すみません。お待たせしました」


そう言えた私は。


いたって普通の会社員で。


普通の人でしかない。


どこかで。


毎日。


何かしらの。


こんなことが繰り返されている世界の住人で。


もう誰も。


そんな理不尽に。


怒ったり。


抗ったりする気力をなくして。


仕方ない。


そう割り切る気持ちだけを。


日々。


育てている。


気に留めるだけ無駄なのだと。


私は。


知りすぎるほど。


知っている。


     *


個室の前で。


林田さんが立ち止まった。


「もしよかったら……励ましてやってもらえませんか」


「私が?」


「十五本あったコマーシャルが、今回の件で三本になりまして」


十二本。


消えた。


「意気消沈してると思うんです」


林田さんが目を伏せた。


「本人は、『またお声がけしてもらえるように頑張るから、お仕事を途切れないよう入れてね』って笑ってましたけど……」


言葉を探すように。


少し黙った。


「でも。やっぱり。増えるのは嬉しくて。減るのは残念なことだと思っていると思います」


そして。


深く頭を下げた。


「本当、すみません。見ず知らずの方に、こんなお願いをしてしまって」


そういえば。


そうだ。


あの日。


砂糖に群がる蟻のように。


トモッキーを取り囲んでいた人びと。


その姿は。


今日。


この場にはない。


残っているのは。


林田さん一人。


この人は。


そんな人たちの機微を。


敏感に感じ取っているのだろう。


「私にできることは、させていただきます」


「ありがとうございます」


林田さんが笑った。


そして。


ドアをノックした。


     *


私の顔を見たトモッキーは。


「ああ、ああ、ああ! 本当にすみません! 来ていただくなんて! 本当は私が御社へ参りましてぇ!!! お詫びしなければなりませんのにーー!」


テンション。


高!!!


MAXで。


私は迎え入れられた。


だが。


林田さんがドアを閉め。


立ち去った瞬間。


その様相は。


一変した。


「それで」


トモッキーが言った。


「あんたは私に、何をしたの」


顔が。


蠢いた。


皮膚が。


コポコポと。


波打ち始める。


いくつもの痘痕が浮かんでは。


漣が引くように。


消えてゆく。


そして。


人相が。


なくなった。


のっぺりとした。


能面になった。


トモッキーだったものが。


スッと右手を上げ。


私に手招きをする。


――おいで。


頭の中で。


声が響いた。


次の瞬間。


私の体が。


浮いた。


スーッと。


引き寄せられ。


ベッドのそばに置かれていた丸椅子に。


ストンと。


座った。


――何をしたと聞いている。


再び。


頭の中へ響く。


口を開こうとした。


だが。


唇が。


接着剤で止められたかのように動かない。


感覚だけはある。


気味が悪い。


「ワァーー!!」


叫んだ。


つもりだった。


だが。


口が開かない。


――頭で答えろ。


言われたのか。


思わされたのか。


分からない。


私は考えた。


何もしていない。


能面が。


ニタリと笑った。


――どこまで知っている。


笑う能面が聞く。


何も知らない。


――嘘だ。


能面が笑う。


――お前は知っている。誰に聞いた。


その時。


「わらわじゃ」


きつのっち!!


突然のきつのっち!!


唐突のきつのっち!!!!!


――ははーん。


能面が。


さらに口角を上げた。


――そなたであったか。で、何をしに来たのじゃ。


「殿が最も信頼していた者を」


きつのっちの声は。


冷たい。


「そなたが狂わせた」


えっ。


「その仕返しじゃ」


えっ!!


待って!!


「そなたは何も考えるな!!」


怒鳴られた。


「邪魔じゃ!!」


気迫のきつのっちに。


私は怒られた。


だが。


私は必死で訴えた。


やめてくれ!!


マジで二日酔いの頭には辛いから!!


もちろん。


声ではなく。


心で訴えた。


――あまりやりすぎると。


能面が笑った。


――この者の頭は、二度と元には戻らんぞ。


意地の悪い声が。


頭蓋の内側で。


こだまする。


ギリギリ。


こめかみの血管が。


のたうち回る。


やめて。


くれ。


私の手が。


空を掻きむしる。


「なぜじゃ!!」


きつのっちの声が。


頭の中を突き抜ける。


「なぜ、あの者に殿を裏切らせた!!!」


――お主。


能面が。


嘲笑った。


――知らなかったのか?


「何をじゃ!」


きつのっちは。


怯まない。


ギリリ。


奥歯を噛んだ気配すら。


私には分かった。


――そなたの旦那は。


能面が言う。


――魔王と呼ばれておったろう。


鼻血が。


タラリ。


と垂れた。


「それで!」


きつのっちが吐き捨てる。


凄まじい威厳だった。


能面が。


笑った。


――言葉通りよ。


声が。


変わった。


男。


男の声だった。


――そなたの夫もまた。


冷徹に。


言う。


――囚われ者だったのじゃ。


「黙れ! 小僧!!」


きつのっちが叫んだ。


私は。


美輪さんを思い出した。


なぜ。


今。


美輪さん。


「殿の仇!!」


その声には。


凛とした重圧があった。


きつのっちは。


誇り高く。


厳しく。


懐剣を振りかざした。


ヒュンッ!!


空気が裂ける。


パキンッ!!


乾いた音が。


病室に響いた。


能面の額に。


細い亀裂が走る。


一本。


二本。


蜘蛛の巣のように。


白い顔へ。


広がってゆく。


それでも。


能面は。


ニタリと笑っていた。


裂け目の奥に。


黒いものが見えた。


目ではなく。


口でもない。


ただの


底なし闇。


そこから。


冷たい風が吹き出した。


私の髪が逆立つ。


丸椅子が。


ガタガタと震える。


逃げたい。


立ち上がりたい。


だが。


体は動かない。


待て。


待てよ。


囚われ者って。


何に。


何に囚われて――。


「殿の仇!!」


きつのっちが。


もう一度。


懐剣を振り抜いた。


パキリ。


能面が。


真っ二つに裂けた。


白い笑みが。


左右に分かれて。


宙を舞う。


そして。


音もなく。


崩れ落ちた。


裂け目の奥にあった闇も。


細い煙のようにほどけ。


消えていった。


……待ってくれ。


答えを


まだ。


聞いてない。


その瞬間。


私の体から。


すべての力が抜けた。


トモッキーが。


ドサリ。


前のめりになる。


「危ない!」


私は慌てて支えた。




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