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シリウスが見ていた  作者: 國生さゆり


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シーン24 どうしてあんなにも楽しげに、高らかに、人の不幸を噂できるのだろうか・・



「ええーー」


不満の声を漏らしたエースを上司に押しつけた。


「睡眠不足で豚カツは、中年には無理だから」


そう言って誘いを断った私は、よしのさんが待つリストランテへと向かった。


いや。


違う。


まだ十一時前だ。


よしのさんは待っていない。


待つのは私だ。


赤信号の交差点で立ち止まった。


その瞬間。


ぐらり。


視界が傾いた。


「……っ」


目眩。


まずい。


そう思った時には、もう膝をついていた。


行き交う人の足だけが見える。


立とうとしても、身体が言うことをきかない。


ぐらぐらと視界が揺れる。


そして。


ささやきが聞こえた。


「よいか。そなたが願えばまたここに、今この時に戻れる。心してゆけ」


吉乃さんだった。


「いいから今は邪魔せずに、このまま行かせてくれ。頼むよ、きつのっち」


トゲトゲが生えた声でそう言うと、ぐらぐらと揺れていた世界が、いきなり晴れた。


大きく息を吐いた。


耐え難い目眩だった。


トモッキーは、こんな苦しみの中にいるのだろうか。


いまだ入院先で苦しんでいる、と。


最古参からそう聞いたのは、ついさっきのことだ。


最古参は楽しそうだった。


どうしてあんなにも楽しげに。


高らかに。


人の不幸を噂できるのだろうか。


そう考えて。


思い出した。


――幸せじゃないんですよ。


誰かが、そう言っていた。


確かに、そうなのかもしれない。


あの人も。


過去を悔いながら、今を生きているのかもしれない。


だが。


だからといって、品格なさすぎだ。


私は膝に手をついて、立ち上がった。


そして歩き出した。


「きつのっち、そちらも今、大変な時期だと思う。私のことは心配しなくていいから」


それでも吉乃さんが、心配してくれているのが分かった。


返事はない。


聞こえているはずなのに、もう吉乃さんの声はしなかった。


聡明な女性だ。


「ありがとう、きつのっち。行ってきます」


小さく呟く。


言葉が風にさらわれていった。


きっと。


吉乃さんの仕業だろう。


     *


ドアを開けると、私を見た従業員さんは胸にメニューを抱え、先立って歩き出した。


私はその後をついていきながら、


「あの、二人なんです。今日は」


キリリと告げた。


従業員さんは振り返った。


「承知しました。でも、まだ混む時間ではないので、いつもの席にご案内させていただきます」


なぜか少し目を見張っていた。


気づいたようだ。


そう。


今日の私は、ひと味もふた味も違う。


なぜなら。


今日の私には使命があるからだ。


《よしのさんの願いを聞き入れ、その思いを遂げさせる。》


残念極まりないが、意中の相手ではない私の心が、よしのさんに届くはずもなく。


まして私は、自分がイケてる男ではないことくらい自覚している。


ならば。


協力するしか……ない。


よしのさんがエースを想う心に。


選ばれないことには、慣れている。


そう思った時。


ずいぶん昔のことを思い出した。


結婚を考えていた、あの人。


あの人だって、きっとそうだったんだ。


私より、奴を選んだ。


ただ、それだけのことだった。


なのに私は。


そのことに気づくまで、随分と時間がかかった。


いや。


本当は、気づいていたのかもしれない。


見ないふりをしていただけで。


あの日。


彼女が取ったホテルの部屋には、ベッドが二つあった。


ツインだった。


壁側のベッドシーツは、すでに乱れていた。


私の前に……。


そう、気づいていながら。


何も聞かなかった。


聞けば、終わるとわかっていたからだ。


誘われるがままに、彼女を抱いた。


いつもそうだ。


今もそうだ。


あとになって、はたとその意味に気づいて傷つく。


彼女は、もう一部屋借りる金がもったいないと思ったのかもしれない。


わざわざベッドを移るのが面倒だっただけなのかもしれない。


私なら、それでも何も言わないと思っていたのかもしれない。


実際、言わなかった。


私をそんな場所に置くことを許したのは、私だ。


自分を粗末に扱うことまで、あの人に許してしまった。


若かった。


あの人も。


私も。


脳裏に、今朝のエースの背中が浮かぶ。


快活に。


前だけを見て歩いていた背中。


譲るしかないだろう。


諦めるしかないだろう。


エースは、まだ折れていない。


そんなエースといた方が、よしのさんは幸せになる。


カラ〜ン。


軽やかにドアベルが鳴った。


顔を上げる。


よしのさんが立っていた。


やっぱり。


目元が、きつのっちに似ている。


私は右手を挙げて微笑んだ。


まるで。


恋人を待つ男のように。


――あ。


私は。


恋に。


落ちたのだろうか。


いや。


そうだ。


この感覚は。


オチている。


愚かだと思うがいい。


そう。


愚か者しか、この世では恋に落ちない。


分かるかい、諸君。


合理性。


利害。


保身。


それらが渦巻くこの世界で、


オチるは、負けを意味するのだよ。


よしのさんが近づいてくる。


私の前に座る。


「今日は何を食べますか?」


私は微笑んだ。


「あなたは何にしますか?」


自分でも驚くほど、優しい声だった。


     *


「煮込みハンバーグにします」


小さな声で答えた彼女が、


「お時間を割いていただきまして、ありがとうございます」


と口火を切った。


さあ。


聞こう。


彼女の願いを。


私は黙って聞いていられるだろうか。


口を挟まずにいられるだろうか。


彼を。


エースを。


コケ落とさずに聞いていられるだろうか。


私は。


私でいられるだろうか。


彼女がテーブルの水に口をつけた。


「煮込みハンバーグを二つお願いします」


従業員さんに告げる。


緊張しているのは、私だけではないらしい。


「お水のおかわりをお持ちしましょうか?」


「お願いします。あの、私はライス少なめでお願いします」


「承知しました」


従業員さんは小さく頭を下げて立ち去った。


よしのさんは、その背中を見送っていた私の視線を追い、ちらりと振り返った。


そして、そろりと私へ視線を戻した。


「昨日は、お忙しかったでしょう?」


ワイドショーか。


ネットニュースか。


YouTubeか。


何を見たのだろう。


まっ、どれも似たり寄ったりだ。


好奇心に無責任という名の薪をくべて、炎上を眺めている。


何を見ようと、大差ない。


「なかなか方針が決まらなくて。ウチはその……ああいうことに慣れていない会社ですから」


「いろんな受け止め方をする方々がいますから……何がきっかけで炎上するかも分かりませんしね」


どこか冷たい表情だった。


その言い方が少し気になった。


「この間も言いましたが、あの時、あなたがああ言ってくれなかったら、私は吊し上げられて責任問題になっていました。ありがとうございました」


頭を下げる。


よしのさんは、不透明に揺れ動くような笑みを浮かべていた。


「……あの方」


「あの方?」


ふと、私に視線を向けて、


「父の弟で、私の叔父にあたる人のお弟子さんだったんです」


私は顔を上げた。


「もしかして、トモッキーさんのことですか⁈」


「ええ」


よしのさんは、ゆっくりと頷いた。


「小さい頃、叔父はよく私の家に来ていて。叔父の身の回りの世話もしていたあの方も、一緒に来ていたんです」


少し懐かしそうに目を伏せた。


「今とは感じが違って、控えめな人でした。よく私の髪を編んでくれて……子供心に、嬉しかったのを覚えています」


私は黙って聞いていた。


吉乃さんから、トモッキーの願掛けの話を聞いた時。


私は師匠だったという、その人のその後を無性に知りたくなった。


なのに、ここ最近のゴタゴタで在宅時間は極端に短くなり、ネコの顔すらろくに見られていない。


ネット検索する気力など残っていなかった。


いや。


今、話題に出るまで忘れていた。


今思えば。


あの時、なぜ私はあんなに知りたいと思ったのだろう。


何かの縁を感じていたのだろうか。


吉乃さんが現れるようになってから、私は「偶然」という言葉を以前ほど信用しなくなった。


なにせ私には。


時空を行き来し。


星の言いつけで私の守り人となり。


四百年以上も昔から、頼みもしないのに私の人生へ口を挟んでくる女性がいる。


こうして並べてみると、壮大だ。


もはや吉乃さんは、銀河を救う物語の主人公のようではないか。


なのに。


その庇護を受けている私は、明星ではなく平凡で。


今日も会社へ行き。


電話を取り。


備品を管理し。


好きになったひとを、後輩に譲ろうとしている。


スケールが合わない。


まったく、合わない。


だが。


そんな吉乃さんと私は出会った。


鳥が鳴くことも。


ふいに風が吹くことも。


偶然、誰かと出会うことも。


以前のように、


「たまたまだ」


の一言では片づけられなくなっている。


もしかすると。


よしのさんと出会ったことにも、何か意味があるのかもしれない。


――などと考えている時点で。


私はだいぶ、きつのっちに毒されている。


「叔父さんは、お元気ですか?」


よしのさんの表情が曇った。


「独占告白の記事をご覧になりましたか?」


何かある。


記事になっていないことが、何かある。


しまった。


私は先読みのシャアでもなんでもない。


ただのおせっかいなおっさんだった。


「いえ」


「叔父は、苦学して美容師になったんです」


静かな声だった。


「毛先に近づくほど長くするレイヤーカットが得意で。上下にいくつもの層を作って、ヘアスタイルを整えるのが本当に上手でした」


少しだけ、声が明るくなる。


「地方紙にも何度か紹介されて。いつか東京で店を持つのが夢だって」


そこで。


声が落ちた。


「でも、事故に遭ってからは働きたくても働けなくなって。今は障害年金で暮らしています」


よしのさんがコップに手を伸ばす。


水は、わずかしか残っていなかった。


私は自分のコップを見た。


「これをどうぞ。口はつけていません。よかったら」


彼女の前へ押し出す。


できれば手渡したかった。


だが。


それは恐れ多い。


私は弱虫なのか。


腰抜けなのか。


意気地なしなのか。


「ありがとうございます」


コップを手にしたよしのさんが微笑んだ。


寂しげな笑顔だった。


私は目を伏せた。


     *


「お待たせしました。油が飛びますので、気をつけてくださいね」


ステーキ皿が、私たちの前に置かれていく。


「あっ、お水。失礼しました」


従業員さんが水差しを取りに戻り、


「私って忘れっぽいから」


と言いながら、よしのさんのコップに水を注いだ。


彼女がテーブルを離れるまで、私たちは黙っていた。


ぐう。


腹が鳴った。


なぜ。


今!


煮込みハンバーグが美味であることを知っている私の胃袋が、勝手に歓喜した。


「すみません。朝食を食べ損ねてしまって。あなたが深刻な話を打ち明けてくれている時に、デリカシーに欠けるおっさんで、ほんとすみません」


早口で言い立てる。


よしのさんが私を見た。


「私こそ、暗い気持ちになるようなお話をしてごめんなさい。実は私も、お腹ペコペコなんです」


そして少し笑う。


「食べながら話していいですか?」


キュン。


今度は恋心が鳴った。


「もちろんです」


平静を装う。


切り崩したハンバーグにウスターソースを絡めていると、


「こんなお話をするつもりじゃなかったんです」


よしのさんが人参のグラッセを口に運んだ。


次の瞬間。


「あ、熱い」


頬を膨らませた。


涙目。


私は反射的にコップを手渡した。


「あじがろうございまず」


そのまま水を飲む。


「あー、びっくりした」


笑っている。


きっと舌を。


いや。


口の中じゅうを火傷したに違いない。


「フーゥ、フーゥ」


丹念に冷ましている。


美味なる食材を、先ほどより小さく切り分けて口へ運んでいる。


私もゆっくりハンバーグを食べながら聞いた。


「それで……お話って?」


よしのさんは潔かった。


「さちこがエースさんを好きになって。二人をカップルにするために、手伝ってほしいんです」


ブロッコリーが喉に詰まった。


「……っ」


水。


水。


ない。


私の水は、よしのさんの前だ。


それを飲むわけにはいかん。


強引に飲み込んだ。


「あなたではなく、さちこさんがですか?」


聞いてしまった。


よしのさんの目が、なぜか笑いだす。


華やかに。


魅力的に。


なんだ。


なんで笑ってる。


私は用心深い。


そんな私に、よしのさんはもう一度言った。


「さちこが、エースさんを好きなんです」


反復横跳びを指示するコーチのように。


もう一度。


はっきりと。

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