シーン22 長浜城の門徒の皆さま
今夜も私の前に吉乃さんが座っている。
吉乃さんは何も言わない。
私も何も言わず、湯漬けを食べていた。
さらさら。
茶碗の中で米がほどける音だけがする。
ふいに吉乃さんが口を開いた。
「長島に籠もる者らは、もはや兵糧も尽き、餓死する者が後を絶たぬそうじゃ」
私は箸を止めた。
「ついには殿に詫びを申し入れ、長島を明け渡して船で退こうとした」
「でも―――」
うろ覚えの知識を引っ張り出す。
「篠橋にいた人たちも、途中で長島に移されたんじゃなかった?」
「そうじゃ」
吉乃さんが頷いた。
「篠橋の者らは、長島の本坊へ入り、織田方に忠節を尽くすと申し出た。それゆえ命を許され、長島へ入れられた」
「人が増えれば、食べるものも早くなくなるよね」
「そうじゃな」
吉乃さんは俯いた。
「三月も囲まれれば、なおさらじゃ」
そう言って、膝の上に置いた手を重ねた。
右の親指が、左の親指をゆっくりと撫でている。
「最近の殿は……」
指が止まる。
「戦続きで、疲れておられるのかもしれぬな」
声が低かった。
「決断なされる時、以前より過激な手立てを選ばれるようじゃ」
私は湯漬けを飲み込んだ。
「故に、我が軍の戦死者も多い」
吉乃さんは、そこで口を閉じた。
何かを言おうとして。
やめたように見えた。
「勝ちは勝ちじゃ」
ようやく言った。
「殿は勝たねばならぬ。勝たねば、殿についてきた者らを守れぬ。それも分かっておる」
重ねた手に視線が落ちた。
「分かっておるのじゃ」
二度言った。
誰に言い聞かせているのだろう。
「じゃが……」
吉乃さんは静かに目を閉じた。
「殺伐とした勝ち鬨は、人の心を荒ませる」
しばらくして、目を開けた。
「殿のお心まで、戦に持っていかれねばよいが」
晴れない霧の中を歩いているような声だった。
心配しているのだ。
戦の行く末を。
死んでいく者たちを。
そして。
殿を。
私には、そう見えた。
私は何も返さなかった。
ただ、湯漬けを腹に流し込みながら、次の言葉を待った。
昔の私なら、黙って湯漬けを食べ続けていただろう。
面倒だから。
下手なことを言って、何かを背負いたくなかったから。
今も言葉にはしていない。
なのに、少し違う。
話したくなったら話せばいい。
話したくないなら、それでもいい。
そんなふうに思えている。
殿への不安など、吉乃さんの立場を考えれば、そう誰にでもこぼせるものではないのだろう。
私がこの時代とは何の関係もない人間だから、話しやすいのかもしれない。
ここで聞いたことを、誰かに告げ口することもない。
だからだ。
たぶん。
私は湯漬けを食べ続けた。
なぜだろう。
吉乃さんとこうして話すようになってから、私は少しだけ待てるようになった気がする。
以前は、諦めて放っておくことと、待つことの違いなんて考えたこともなかった。
変わったことといえば―――。
私の話を聞いてくれる人ができた。
私を理解しようとしてくれる人ができた。
励ましてくれる人ができた。
吉乃さんと出会うことができた。
それくらいだ。
吉乃さんが顔を上げた。
目が合った。
少し笑っている。
「なんですか」
「そなた、いい男になったと自負しておるな」
「してません」
「わらわから言わせれば、若干じゃ」
「若干」
「まあ、良い兆しではあるがな」
失礼な。
「失礼だぞ、きつのっち。刀を振りかぶる力も根性もないけど、これでも考えるのは得意だぞ」
「ほう」
楽しげな「ほう」だ。
でも、なんだその顔は。
「じゃあ聞くけど、私が何も考えてないように見える?」
「見えぬ」
「でしょう」
「考えて、考えて、考え抜いて、何もせぬ」
「……最近は違うよね」
「ほう」
二回目の「ほう」が来た。
「何もしないという選択だってあるでしょう。下手に動いて失敗するより、現状維持の方がいい場合もあるし」
「そうじゃな」
「でしょう」
「では、そなた、今まで現状維持を選び続けて、満足しておったのじゃな?」
「……」
「ほう」
三回目。
待て。
今の「ほう」はおかしいだろうーーー。
「まだ何も言ってないでしょう」
「顔が答えておる」
「顔は発言に含まれません」
「便利じゃのう。そなたの世では、顔に出たものは撤回できるのか」
「できませんけど」
吉乃さんが笑っている。
完全に私はおちょくられている。
だが、悪い気はしない。
さっきまでのきつのっちは、殿のことを心配していた。
「じゃが」
吉乃さんは笑みを残したまま言った。
「考えたのちに、よくもまあ、こうも、さんざんと失敗する方ばかりを選んできたものよの」
「それは誤解です」
「そうか?」
「そうです」
「では聞こう。そなたは考えて、傷つかぬ方を選んできた」
「はい」
「期待せぬ方を選んできた」
「はい」
「人と深く関わらぬ方を選んできた」
「はい」
「そして幸せだったか?」
「……」
いつの間にか、逃げ道がなくなっていた。
この人は。
時々。
刀より切れる。
「考えないの、怖くないですか」
私は茶碗を置いた。
「だって先のこと考えないと。失敗したらどうするんです。こうなったらどうしよう、ああなったらどうしようって、普通考えるでしょう」
「それで、そなたは幸せだったのか?」
「またそれ言う。今、少しずつ頑張ってるでしょ。見てるくせに意地が悪いぞ、吉乃さん」
吉乃さんの口元が、ほんの少し上がった。
四回目の「ほう」が来そうな気がした。
「言っとくけど、もう『ほう』は禁止だからね」
「ほう」
「言ったそばから!」
吉乃さんが声を立てて笑った。
つられて私も笑った。
ほんの少し前まで暗かった部屋が、明るくなったような気がした。
笑いが収まってから、吉乃さんが言った。
「考えることをやめよとは申しておらぬ」
「え?」
「先のことをあれこれ考え、不安を抱いて今日を生きる。それもよかろう」
「いいんだ」
「思考は自由じゃ」
吉乃さんは静かに言った。
「そなたらの世で唯一、誰にも奪われぬ自由かもしれぬ」
私は黙って聞いた。
「不安になることもできる。楽しいと思うこともできる。同じものを見ても、どこを見るかは己で選べる」
どこを見るか。
「そなたらには、選ぶ自由がある」
吉乃さんは私を真っ直ぐ見た。
「どうじゃ。少しは、“なんとかなる”と己を信じてみては」
「それね」
私はすかさず言った。
「楽観主義っていうんだよ。狩猟生活ならまだしも、資本主義は競争原理なの」
「知っておる」
「え」
「楽観主義も、資本主義も」
あ。
そうだった。
この人。
ハリウッドスターだった。
「そなたより、よほど華やかな資本主義の中におったぞ」
「……でした」
「競争もした。比べられもした。選ばれもした。選ばれぬこともあった」
吉乃さんは、どこか懐かしそうに言った。
「笑っておっても、心の内では相手の失敗を願う者もおった。己も、そうならぬとは限らなんだ」
「じゃあ分かるでしょう」
「分かるから申しておる」
即答された。
「競争することと、不安を抱えて生きることは同じではない」
「……」
「それに」
吉乃さんが私を見る。
「そなたが所属している会社とやらは、皆で日がな一日競争しておるのか?」
「そりゃ―――」
言いかけた。
「今日、そなたは仲間と何をしておった?」
「電話取ったり、資料作ったり」
「助け合っておったの」
「……まあ」
「それを共に生きると言うのではないか?」
「……そうだね」
「集団で狩りをしていた頃と、何が違うのじゃ」
「それはさ―――」
何か言おうとした。
でも。
言い返せることが思いつかなかった。
だから、やめた。
代わりに、湯漬けを食べた。
吉乃さんが勝ち誇った顔をしている。
腹が立つ。
その時だった。
人の気配がした。
吉乃さんの表情が変わった。
「申し上げます」
女の声だった。
「長島を明け渡し、船にて退こうとした門徒らに、我が方より鉄砲を放ったとのこと」
さっきまで残っていた吉乃さんの笑みが消えた。
膝の上で重ねた手が、わずかに強く握られた。
「多くが川へ落ち、斬り捨てられました」
吉乃さんは動かなかった。
「されど、その中より七、八百ほどの者が裸同然となり、抜刀して我が方へ斬り込みました」
私は茶碗を置いた。
「織田信広さま、織田秀成さまをはじめ、一門の方々、多数討死」
「……信広殿が」
吉乃さんが呟いた。
それだけだった。
けれど、握った手の指先が白くなっていた。
「敵方の一部は包囲を突破。多芸山、北伊勢方面へ散り、その後、大坂へ逃れたとのこと」
「……そうか」
低い声だった。
女は続けた。
「そののち殿は、中江、屋長島の両城を幾重にも柵で囲ませ、四方より火を放つようお命じになりました」
吉乃さんの指が、ぴくりと動いた。
「城内に残った男女、およそ二万」
女の声がわずかに沈んだ。
「ことごとく焼け死んだとのことにございます」
沈黙。
吉乃さんは何も言わなかった。
「なお、殿はすでに岐阜へ帰陣されました」
「殿のご様子は」
吉乃さんが顔を上げた。
「お怪我は」
「ございません」
その瞬間。
吉乃さんの肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
「……そうか」
安堵したのだ。
二万の男女が焼け死んだと聞いた直後に。
愛する人が無事だと知って。
安堵したのだ。
そして、そのことに吉乃さん自身も気づいたのだろう。
すぐに目を伏せた。
膝の上の手を見つめている。
「殿は……」
小さな声だった。
「どのようなお顔で、火をご覧になっておられたのじゃろうな」
誰に聞いたわけでもない。
答えられる者もいない。
「敵方は」
しばらくして吉乃さんが聞いた。
「散々たる有様であったか」
「はい。混乱甚だしく、裸で刀を振るう者までいたとのこと」
「そうか」
吉乃さんは目を閉じた。
「……お心を痛めておられればよいが」
しばらくして、小さく首を振った。
「いや。殿には、苦しんでほしくはない」
吉乃さんは膝の上の手を見つめた。
「じゃが……何も感じておられぬのも、嫌じゃ」
それきり、黙った。
私は何も言えなかった。
「ご苦労であった」
しばらくして吉乃さんが言った。
声が違う。
「そなた、薬師をできる限り集めて戻れ」
「はっ」
「我が軍の者で行き倒れている者を探せ。息のある者は治療し、できる限り帰還させよ」
「承知いたしました」
気配が消えた。
吉乃さんは、しばらくそのまま座っていた。
さっきまで白くなるほど握っていた手が、今は力なく膝の上に置かれている。
私は顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「そなた」
「はい」
「わらわのことを吉乃さんと呼んだり、きつのっちとのたまったりしておるようじゃが」
そっち?
「どちらかに決めぬのか」
「それは、ちと御免こうむる」
笑わせるつもりだった。
けれど。
吉乃さんは笑わなかった。
「そうか」
小さく言った。
「好きにするがよい」
沈黙。
「ところで」
吉乃さんが私を見た。
「そなた、戦場の悲惨を耳にしても、顔色一つ変えぬな」
「そう?」
「二万の男女が焼け死んだと聞いてもじゃ」
私は考えた。
なぜだろう。
考えて。
口から出てきた言葉に、自分で驚いた。
「大義とかで殺し合ってるのが、純朴に感じるからだよ」
吉乃さんの眉が、わずかに動いた。
私も黙った。
何を言っているんだ。
二万人が焼け死んだ話を聞いて。
純朴。
そんな言葉を使った自分に、少し寒気がした。
けれど、取り消す気にもならなかった。
吉乃さんは、しばらく私を見ていた。
「そなたたちの世界は」
そこで言葉を切った。
「もう、平和は無理なのかもしれぬな」
ガランとした言葉が、ガランと音を立てて伽藍堂に転がったような気がした。




