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シリウスが見ていた  作者: 國生さゆり


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シーン21 その昔名を馳た女優の逆鱗に触れて正座させられているのを、黙ってみてたらしいんです。



自宅に帰り着いたのは深夜だった。


ありがたいことに、最終電車を逃した者にはタクシーチケットが出た。


同じ方向の者を乗せたジャンボタクシーの車内は、ぎゅうぎゅう詰めだ。


なのに、不思議と苦痛ではなかった。


今日一日で妙な連帯感でも生まれたのか。


普段なら気を遣うだけの距離が、今日はそれほど嫌ではない。


会話も弾んでいた。


「エースくんが泣いたって本当ですか?」


助手席のお局さんが振り返った。


誰だ。


もう喋った奴は。


ポンコツ上司か。


私は窓の外を見ながら答えた。


「コンタクトがズレたらしいよ」


「えー。絶対泣いてたでしょう」


「知らない」


知らないことにしてやった。


「企画部と宣伝部のバトルは、あれドローですよ」


そう言ったのは、今日何度も資料を持って会議室を出入りしていた若手だった。


「最古参なんか、ずっと会議室に差し入れ持って来てましたからね。俺が行くたびに会うんですよ」


「仕事は?」


「知りませんよ」


若手は笑った。


「あの人、噂に対する執念すごいっすよね」


すると、後ろの席に座っていたオヤジさんが、


「あの人は昔からですよ」


と呟いた。


定年間際。


部署では誰からともなく、オヤジさんと呼ばれている。


「昔って?」


若手が食いついた。


オヤジさんは窓の外を見た。


「新番組の立ち上げに派遣されたことがあったんですよ。楽屋周りの補佐でね」


「へえ」


「そこで、若手のタレントさんを一番奥の席に案内した」


「一番奥?」


「どんな楽屋でも、基本は奥から年功序列。研修で教えられたでしょう」


「はい」


「なのに、あの人は若手を一番奥に座らせた」


「ええ!」


声を上げたのは、電話対応の女神だった。


どれだけ怒り狂っている客でも。


どんな無理難題を押しつけてくる客でも。


最後にはなぜか和やかな声にしてしまう。


天賦の才。


総務部の女神。


オヤジさんは女神に向かって、ウンウンと頷いた。


「それで、その昔、名を馳せた女優さんの逆鱗に触れたんです」


「うわ」


「その若手タレントさん、正座させられましてね」


「正座!?」


若手が身を乗り出した。


「最古参さんは?」


「見てたそうです」


「見てた?」


「止めもせず」


「ええ……」


「マネジャーさんが挨拶回りから戻ってきた時には、もう遅かった。女優さんが仲の良かった番組MCの噺家さんまで呼んで、二人でお説教してたそうですよ」


「いやいやいや」


若手が首を振った。


「だって、そのタレントさんからしたら、“ここです”って案内されたんですよね?」


「そうです」


「だったら、大御所から何か要望でもあったのかなって思うでしょう」


「普通はね」


オヤジさんの声には、冬の風情を思わせる憐憫があった。


「それで、どうなったんですか?」


お局さんが聞いた。


「結局、番組プロデューサーが間に入って話をつけたらしいです。ただ、その若手タレントさんは、その一回きりで二度と呼ばれなかった」


「そうだったんですね……」


「内々では、曜日レギュラーの打診まであったそうです」


車内が少し静かになった。


女神が聞いた。


「最古参さんは、お咎めなしですか?」


オヤジさんは鼻から息を抜いた。


「あの人、あの頃からどこかの回路がショートしてるんでしょうね。その後も何事もなかったみたいに、その番組に関わり続けましたよ」


「強い」


若手が思わず言った。


「だから……今もあんな感じでいられるんすね」


「もっとも、この話を内輪に広げたのは、いま最古参が育てている噂の坩堝NO.2ですけどね」


オヤジさんが言った。


「やっぱ噂か」


若手が天井を見た。


「暇なんですかね、あの人たち。いつも噂話してますよ」


「あっ」


お局さんが突然振り返った。


「その若手タレントさん、その後、事務所とも揉めませんでした?」


「ああ」


オヤジさんが頷いた。


「移籍しましたね」


「違約金がどうとか、週刊誌に出てましたよね」


「これから売れるって時でしたからね」


オヤジさんは小さく首を振った。


「本人にとっては、“ここです”って言われた席に座った。ただそれだけなんですよね」


お局さんが言った。


しばらく間があった。


「でも、その一回で番組を失って、事務所とも関係が悪くなって、移籍して」


誰も口を開かなかった。


「人の人生を狂わせるきっかけを作ったかもしれないのに、本人は何事もなかったみたいに、今でも聞きかじったことに尾鰭はひれをつけて流してる」


オヤジさんはため息をついた。


「どうかしてますよ」


「幸せじゃないんですよ」


お局さんが言った。


前を向いたままだった。


誰もすぐには返事をしなかった。


「それにしても」


女神が空気を変えるように言った。


「終電を気にしないで仕事に没頭したの、いつ以来だろう」


「お父さまは大丈夫なの?」


お局さんが聞いた。


「ヘルパーさんに時間延長を頼みました」


女神は笑った。


「出費ばかりですね。介護って」


笑っていた。


けれど、その顔には一瞬、影が落ちた。


私はそれを見逃さなかった。


お局さんと女神。


この二人には、共通点がある。


過去に不倫騒動を起こした。


会社からは自主退社を打診された。


けれど、家庭の事情があって辞められなかった。


噂。


蔑み。


降格人事。


それらに耐えて、総務部まで流れ着いた二人である。


強者。


一方、相手だった男たちは。


今も出世街道を邁進している。


いつも不倫の代償を払うのは、女の側なのだろうか。


二人はいまだ独身だ。


最古参とNO.2の噂話を総合すると、女神もお局もその後、社外の人間と恋愛したことがあるらしい。


けれど。


誰かと付き合い始める。


すると、どこからともなく、おせっかい野郎が現れる。


「知ってる?」


そう言って、彼女たちの過去を披露する。


聞いた男は疑心暗鬼になり、本人に説明を求める。


この小さな世界では、誰かと繋がれば、その友達とも繋がる。


人間関係。


しがらみ。


過去。


棲家か仕事でも変えない限り、そのつながりは断ち切れない。


本人の知らないところで、


“あの人は、こういう人だ”


と、誰かが勝手に物語を作る。


それを聞いた人間が、


“そういう人なのか”


と勘ぐる。


真実を知りたいと問われるままに正直に話せば、妄想のやきもちを焼かれる。


細かいところを省けば、誰かの告げ口と辻褄が合わず、嘘つきだと詰られる。


黙れば黙ったで、俺を信じていないのかと責められる。


想像しただけでも難儀なものだ。


男とは勝手な生き物だ。


自分には過去があっていい。


だが、好きになった女には無垢を望む。


知りたいと言いながら、聞けば傷つき。


話せと言いながら、話せば勝手に妄想を膨らませる。


面倒くせーーー、生き物。


私も男なので、あまり偉そうなことは言えないが。


“苦労は買ってでもしろ”


という格言がある。


そんなもの、買わなくていい。


苦労は顔に出る。


金を出して買うなら、幸福がいいに決まっている。


そして。


なるべく目立たず。


周りと歩調を合わせながら。


“渡る世間に鬼はいる”と。


心に刻んで生きれば無難だ。



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