↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シリウスが見ていた  作者: 國生さゆり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/31

シーン16 何かが変わったのか、それとも私は馬鹿になったのか


ねこが、あのざらざらした舌で私の頬を舐めていた。

私はねこの食事も作らないまま、ケージの前で寝落ちしていたらしい。


久しぶりの早朝からパイプ椅子を並べに並べて汗をかき、トモッキーと吉乃さんの因縁らしき不可解なバトルを目にし、ケガで痛い思いをして、苦情処理でありとあらゆる人の怒りに触れた。


いろんな感情が私の中へ流れ込んできた。

平穏無比に慣れていた心が一気にすり減った。


腹を立てる人。

焦る人。

痛いを癒す人。

殺気を放った人。

恐れ慄いた人。


知らずのうちに持ち越されて、私は疲れてしまっている。

上着もワイシャツもスラックスもしわくちゃだ。

こんなにも体力なかったっけか。


そう考えて、すぐに違うと思った。

体じゃない。

心が振動しての脳みそフル回転が体力の消耗につながったのだ。


脳みその戸惑いが体に出た。

笑いが出た。

どんだけーーー。


笑う私を、ねこが舐め出す。

「痛いよ」


そう言いながら抱き寄せる。

柔らかい。

温かい。


全てを預けてくれる様子が愛おしい。

ねこは私を疑わない。


私が金持ちだろうが貧乏だろうが、会社で出世しようが窓際に追いやられようがどうでもいい。


この家に帰ってくる人。

食事をくれる人。

時々抱っこしてくれる人。


ねこにとっての私は、それだけなのだろう。

それだけでいいのかもしれない。


「心配かけてすまなかった」

ねこの耳元で囁いた。


クルックー。

鳩みたいな声で返事する。

猫なのに。


ねこを抱き上げて立ち上がり、食事の準備を始めた。

湯を沸かしながら、吉乃さんの言葉を思い出した。


『よしの殿には連絡してみてはどうじゃ』


簡単に言う。

人によっては簡単なことだ。


好きなら好きと言えばいい。

心配なら心配だと言えばいい。

会いたければ会いたいと言えばいい。


それができたなら、とっくに私は別の人生を生きている。


私は―――愛という不確かなものを信じなくなってから、どれくらい経つのだろうか。


私だって、昔はちゃんとすればちゃんと返ってくると思っていた。


誠意には誠意が。

好意には好意が。

努力には評価が。


愛には愛が。


でも世の中は、どうもこの法則で動いていない。

言葉でも裏切られる。

好意でも裏切られる。

心血を注いでも裏切られる。


会社に尽くしても会社は守ってくれない。

人に尽くしても、自分を選んでくれるとは限らない。

ちゃんとしようとすればするほど、ちゃんとの傷は深くなる。


だったら、最初から期待しなければいい。

何も欲しがらなければいい。

人に関わらなければいい。


そうすれば自由でいられる。


だから私はそうやって、一人で生きる方法を選んだ。


考えるな。

悟るな。

目立つな。

行動するな。

我ながらよくできた神示だった。


何もしなければ、失敗もしない。

誰も好きにならなければ、失うこともない。

誰にも期待しなければ、裏切りも無い。


毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じ会社へ行き、同じような仕事をして、同じ道を帰ってくる。そして家には、ねこがいる。それで充分だと思っていた。


ねこの食事をケージの中に入れる。

喉をゴロゴロ鳴らしながら食べ始めた。

私はその背中をしばらく眺めていた。


昨日も見た背中。

一昨日も見た背中。

明日も、たぶん見る背中。


変わらないことは安心する。


それなのに。

今日はなぜか、それだけでは少し物足りない気がしている。


鞄の中からスマホを取り出した。

滅多に鳴らないから、ずっとミュートにしていた。


いつからミュートにしたのかは覚えていない。

鳴らないスマホを待つのが嫌だったのかもしれない。


鳴らないなら、最初から鳴らないものにしておけばいい。


これも神示と同じだ。

期待しないための工夫だけは、私は昔から上手かった。


画面を見る。

グループLINEに着信が溜まっていた。


さちこさん 今日はお招き頂きましてありがとうございました

エース   楽しんで頂けましたか?

さちこさん はい。トモッキーさん大丈夫でしたか?

上司    私たちにはわからないんですよー。

さちこさん そうなんですね。

よしのさん “ありがとうございました”のスタンプ1つ

上司    よかったら、週明けの月曜日にみんなでランチしませんか?

さちこさん “ぜひ”のスタンプ1つ。


クソ。


エースがさちこさんとよしのさんを、今日のイベントに誘ったのだ。


待て。

今日は何曜日だ。

急に気になってテレビをつける。


土曜日の午後七時から始まるニュースをやっていた。


土曜日かーー。


タイムループはやはり終わっている。


別の感情が湧いてきた。


私は今日、休日出勤をしていたのか!!!

さしたる忠誠心も感じていない会社のために。

なんだか急に腹が立ってきた。


当たり前だ。


相思相愛ではないのだから、尽くしても無駄だ。

会社は私を愛していない。

私も会社を愛していない。


なのに土曜日まで会っている。


倦怠期の夫婦よりひどい。


おお。

何だか元気じゃないか、思考。


私は少し嬉しくなった。

腹を立てられるくらいには元気らしい。


“今日は皆様とご一緒できず、残念でした”と。

LINEに書き込んでみる。


送信。


すぐに上司から返事が来た。

“いやいや、カスタマーセンターの業務ご苦労さん”


知ってて送り込んだくせに。


さて。

どうしてくれよう。

グループLINEなので露骨には書けない。


「お心遣いありがとうございました。おかげさまで大変勉強になりました」


駄目だ。

嫌味が強すぎる。


「次回はぜひ上司もご一緒に」


これも駄目だ。


よし。


もっと知的に。


私が二十数年かけて培った社会人としての全能力を使い、絶対に問題にならない範囲で最大限の皮肉を―――。


その時だった。


よしのさん “しっかり冷やしてくださいね”


……。


私の中で上司に向けて準備されていたミサイルが、全弾消えた。


噴霧された。


なんだ、噴霧って。


自分でも分からない。

とにかく消えた。


“はい。ありがとうございます”


すぐさま書き込んだ。


送信。


……。


読み返す。


“はい。ありがとうございます”


もう一度読む。


……小学生か。


私なりにカッコつけたつもりだった。


ゲンナリした。


もう少し何かあっただろう。


「よしのさんもお疲れさまでした」とか。


「おかげさまで大丈夫です」とか。


せめて絵文字の一個くらい。


いや、絵文字は違う。


ハートはもっと違う。


おじさんが突然ハートを送ったら事件になる。


スマホを置いた。

ねこが食事を終え、こちらを見ている。


「何だよ」


クルックー。


「何だよ」


ねこは何も言っていない。


「ごめん」


画面には“はい、ありがとうございます“


何に対しても無難を選ぶ癖が、私には染み付いている。

失敗しない言葉。

嫌われない距離。

傷つかない関係。

期待しない人生。


私はずっと、こんなものを選んできたのかーー


それを賢く生きることだと思っていた。


でも。


本当にそうだったのだろうか。


ふと、タイムループの中にいた時のことを思い出す。


同じ朝。

同じ会社。

同じ人。

同じ会話。


腹の中で何を思おうと、寝れば同じ1日にリセットされていた。


失敗しても消える。

恥をかいても消える。

誰かを怒らせても消える。


あれは、私が望んでいた人生そのものじゃないか。


でも―――。


死ぬほど退屈だった。


私はケージの前にしゃがんだ。


ねこが顔を上げる。


昨日までの疲れとは違う、今日の疲れ。


今日はちゃんと疲れた。

生きて疲れたのだ。


そんな言葉が頭に浮かんで、私は笑った。


大袈裟だ。


休日出勤しただけだ。


ケガして苦情を聞いただけだ。


女の人からLINEを一通もらっただけだ。


そして私は笑ってる。


ぼやぼやしていたら、またあの負け犬人生が始まってしまう。


それはーー

いやだ。


もっかいここから立て直そう。


そう思った。


……思ってしまった。


ねこを見る。


ねこは自分の高らかに上げた前足を、目を細めて舐めている。


「なあ」


返事はない。


「何かを変えられるかな」


クルックー。


「それとも……」


ためらいながら口にする。


「馬鹿になったのかな」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。