シーン14 あれはパワハラだったのか、セクハラだったのか、
家に着いた私は、ようやく息をついた。
会社を出るまで、誰かに呼び止められるのではないか。
スマホが鳴るのではないか。
高層階からお呼びがかかるのではないかと、気が気ではなかった。
玄関を閉める。
「ただいま」
返事がない。
「ねこ?」
返事がない。
胸がざわついた。
バタバタとお気に入りの場所へ急ぐ。
いた。
ウサギのぬいぐるみに頭を預けて眠っていた。
「おい、驚かすなよ」
強い声で言ってしまった。
ねこが迷惑そうに片目を開ける。
十一年一緒に暮らしていて、こんなにドキリとしたことはなかった。
牛乳を用意しながらも、今日のことを考えていた。
外は外。
家は家。
そうやって分離していた。
帰れば服を着替え、手を洗い、ねこに食事を準備する。
規則正しく朝を迎え、定時に会社へ行く。
会社で何があっても、玄関のドアを閉めれば終わり。
そうやって境界線を作ってきた。
競争心を捨てた。
悪目立ちもしない。
誰かと争わない。
余計なことを言わない。
平々凡々と生活を守る。
社会的に無事でいるために必要なのは、
適当。
適宜。
塩梅。
さじ加減。
頑張りすぎてもいけない。
怠けすぎてもいけない。
好かれすぎてもいけない。
嫌われすぎてもいけない。
何事も。
ねこが身体を擦り寄せてきた。
その瞬間。
急に涙が出てきた。
驚いた。
何年ぶりだろう。
「いつもと一緒だよ。安心してお食べ」
泣きながら、ねこの前に牛乳皿を置いた。
牛乳を舐めるねこを見ていたら、ずっと蓋をしていた記憶が開いた。
初めての上司の名は、奈良橋。
「使えない」と判断された日より、少し前のことだ。
社外研修先の夜。
部屋のドアがノックされた。
開けると奈良橋が立っていた。
ワインボトルとアペタイザーを手にした奈良橋が、
「一緒に飲もう」と言った。
その目尻に、好色が居座っていた。
その意味が分からないほど若くはなかった。
「すみません。明日早いので」
そう言って断った。
奈良橋は笑った。
「真面目だねえ」
それだけだった。
翌朝。
ホテルのロビーで会った奈良橋は、いつもと同じだった。
「おはよう」
「おはようございます」
何も変わっていなかった。
私の勘違い。
そう思った。
翌週、私が担当していた案件の打ち合わせに呼ばれなかった。
予定表には、私以外の名前が並んでいた。
廊下ですれ違っても、奈良橋は私を呼び止めなくなった。
会議で発言すると、
「それ、今じゃなくていいよ」
と言われることが増えていった。
たまたまだと思った。
忙しいだけだと思いたかった。
仕事の振られ方。
声の掛けられ方。
私を見る目。
少しずつ。
少しずつ。
世界の色が変わっていった。
私は頑張った。
自分から仕事を探した。
会議でも発言した。
役に立とうとした。
それでも評価は上がらなかった。
仕事も増えなかった。
誰からも期待されなくなった。
待機。
待機。
待機。
埋まらないスケジュール。
いつからだっただろう。
考えるな。
悟るな。
目立つな。
行動するな。
この四つが、お守りになったのは。
あれはパワハラだった。
あれはセクハラだった。
顔を上げたねこが「クルックー」と鳴いた。




