シーン11 トモッキーのヒールが折れて、みんなで大騒ぎする
翌日。
私は朝から赤いスタッフジャンパーを着て、パイプ椅子を並べて、並べて、並べまくっていた。支給されたコンビニおにぎりを片手に、スポンサー提供のレモンウォーターを飲みながら、ただひたすら椅子を開いて、置いてゆく。昨日まで、明日が来ないことを望んでいた。そして実際に明日が来てみれば、私は早朝からパイプ椅子を並べている。
人生とは、だいたいこんなものなのだろう。
パイプ椅子を見ていたら、昔の女子プロレスを思い出した。極悪を売りにしたレスラーが椅子を振り下ろし、倒れた相手の上へそれを置き、ふんぞり返って笑う。子供の頃は、本気で怖かった。けれど今思えば、あれほど過激な悪役を演じながら、本人はどれほど冷静に相手との距離を測っていたのだろう。
当てる場所。
力加減。
倒れる方向。
悪役ほど、相手を見ていなければならないのかもしれない。
ヒールは大変だ。
一度「悪」の札を貼られれば、世間は安心して石を投げる。
会社も同じだ。
「あの人は使えない」と決まれば、何をしてもその色でしか見ない。
そのほうが安心するのか。
そのほうが楽しいのか。
そのほうが生きやすいのか。
そのほうが統制が取れるのか。
それとも――。
「痛ーーっ!!」
パイプ椅子に指を挟んだ。
左手の中指の先が脈打つ。
いってぇぇぇ。
「先輩、大丈夫ですか!」
エースが駆け寄ってくる。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと挟んだだけ」
いてーーー!
めちゃくちゃ痛い。
だが、私は騒げない。
少し離れたところでは、企画部の精鋭たちが忙しそうに会場を行き来している。
椅子一つまともに並べられない。
そう思われるのが嫌だった。誰もそんなことを思っていないかもしれない。それでも、そう思われるのが嫌だった。赤いジャンパーを着た私たちと、今日のために仕立てたようなスーツを着る彼ら。同じ会社のロゴを背負っていても、いる世界は違う。そう思っているのは、もしかすると私だけなのかもしれないが。
そのときだった。
「あなた!」
甲高い声が飛んだ。
振り向く。
急遽出演が決まった人気美容家、トモッキーが取り巻きを従えてこちらへ歩いてくる。
テレビで見るより細い。
そして、テレビで見るより圧が強い。
「あなた、分かってます? 見えないんですか?」
……私か?
何が?
私は周囲を見た。
その瞬間。
「シャーッ」
背後から音がした。
猫が威嚇するような声。
いや。
猫ではない。
背中が冷たくなった。
トモッキーの顔色が変わった。
一歩。
二歩。
トモッキーが後ずさる。
パキッ。
乾いた音がした。
「あっ――」
トモッキーのヒールが折れた。
身体が傾く。
取り巻きが手を伸ばす。
間に合わない。
トモッキーは派手に尻餅をついた。
一瞬、会場が静まり返った。
「あなた!! 何するの!」
え。
私?
また私?
取り巻きたちの視線が一斉に突き刺さる。
待て。
私は何もしていない。
今度こそ、私は何もしていない。
『不躾にも、わらわに近づきよって』
声がした。
聞き覚えのある声だった。
私はゆっくり振り返った。
日の光を背に、吉乃さんが浮いていた。
橙色の打掛が、風もないのに揺れている。
誰も見ていない。
いや。
私にしか見えていない。
吉乃さんは、トモッキーを見下ろしていた。
その顔に、いつもの笑みはなかった。
『見たな、そなた』
低い声だった。
何を?
トモッキーが見たの?
トモッキーは吉乃さんが見えるの?
不意にニヤリと笑った吉乃さんの手が、腰元へと動いた。
懐剣の紐を解く。
するり。
白い刃が、日の光を返した。
え。
ちょっと待て。
ダメだ!
吉乃さん!
これは洒落にならない。
刃先が、トモッキーへと向いている。
「ダメだよ!! 吉乃さん!!」
声だけは出た。
けれど、足が動かない。
〇・〇一ミリどころではない。
動け。
動け、私。
「この人は何もしていません」
声がした。
私とトモッキーの間に、一人の女性が立っていた。
よしのさんだった。
「この方は何もしてません。ご自分で転ばれただけです」
よしのさんがトモッキーの足元を見る。
「ヒールが折れています」
周囲の視線が一斉に足元へ落ちた。
「レディの足を凝視するんじゃないわよ!」
トモッキーが叫んだ。
何人かが慌てて目を逸らす。
私も逸らした。
違う。
私はヒールを見ただけだ。
そういう意味ではない。
顔を上げて、吉乃さんを見る。
――いない。
消えていた。
いつから?
「怪我してるじゃないですか」
今度は、よしのさんの声だった。
「え?」
よしのさんが私の左手を見ている。
椅子に挟んだ中指が赤く腫れていた。
「大したことありません」
「大したことあるかどうかは、手当してから決めてください」
なぜか、叱られている気分になった。
「救護テント、どこですか?」
「いや、本当に大丈夫ですから」
「ダメです」
よしのさんが私の手を取った。
温かかった。
さっきまで脈打っていた指先とは違うところが、脈打ち始めた。
私は、その手を見た。
もう一度。
ほんの少しだけ、で、いい。
ギュッと握ってくれないだろうか。
……。
私は愚か者である。




