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シリウスが見ていた  作者: 國生さゆり


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11/31

シーン11 トモッキーのヒールが折れて、みんなで大騒ぎする



翌日。


私は朝から赤いスタッフジャンパーを着て、パイプ椅子を並べて、並べて、並べまくっていた。支給されたコンビニおにぎりを片手に、スポンサー提供のレモンウォーターを飲みながら、ただひたすら椅子を開いて、置いてゆく。昨日まで、明日が来ないことを望んでいた。そして実際に明日が来てみれば、私は早朝からパイプ椅子を並べている。


人生とは、だいたいこんなものなのだろう。


パイプ椅子を見ていたら、昔の女子プロレスを思い出した。極悪を売りにしたレスラーが椅子を振り下ろし、倒れた相手の上へそれを置き、ふんぞり返って笑う。子供の頃は、本気で怖かった。けれど今思えば、あれほど過激な悪役を演じながら、本人はどれほど冷静に相手との距離を測っていたのだろう。


当てる場所。

力加減。

倒れる方向。


悪役ほど、相手を見ていなければならないのかもしれない。


ヒールは大変だ。

一度「悪」の札を貼られれば、世間は安心して石を投げる。


会社も同じだ。


「あの人は使えない」と決まれば、何をしてもその色でしか見ない。

そのほうが安心するのか。

そのほうが楽しいのか。

そのほうが生きやすいのか。

そのほうが統制が取れるのか。


それとも――。


「痛ーーっ!!」


パイプ椅子に指を挟んだ。

左手の中指の先が脈打つ。


いってぇぇぇ。


「先輩、大丈夫ですか!」

エースが駆け寄ってくる。


「大丈夫、大丈夫。ちょっと挟んだだけ」


いてーーー!


めちゃくちゃ痛い。

だが、私は騒げない。


少し離れたところでは、企画部の精鋭たちが忙しそうに会場を行き来している。


椅子一つまともに並べられない。


そう思われるのが嫌だった。誰もそんなことを思っていないかもしれない。それでも、そう思われるのが嫌だった。赤いジャンパーを着た私たちと、今日のために仕立てたようなスーツを着る彼ら。同じ会社のロゴを背負っていても、いる世界は違う。そう思っているのは、もしかすると私だけなのかもしれないが。


そのときだった。


「あなた!」


甲高い声が飛んだ。


振り向く。


急遽出演が決まった人気美容家、トモッキーが取り巻きを従えてこちらへ歩いてくる。


テレビで見るより細い。


そして、テレビで見るより圧が強い。


「あなた、分かってます? 見えないんですか?」


……私か?


何が?


私は周囲を見た。


その瞬間。


「シャーッ」


背後から音がした。


猫が威嚇するような声。


いや。

猫ではない。


背中が冷たくなった。


トモッキーの顔色が変わった。


一歩。


二歩。


トモッキーが後ずさる。


パキッ。


乾いた音がした。


「あっ――」


トモッキーのヒールが折れた。


身体が傾く。


取り巻きが手を伸ばす。


間に合わない。


トモッキーは派手に尻餅をついた。


一瞬、会場が静まり返った。


「あなた!! 何するの!」


え。


私?


また私?


取り巻きたちの視線が一斉に突き刺さる。


待て。


私は何もしていない。


今度こそ、私は何もしていない。


『不躾にも、わらわに近づきよって』


声がした。


聞き覚えのある声だった。

私はゆっくり振り返った。


日の光を背に、吉乃さんが浮いていた。


橙色の打掛が、風もないのに揺れている。


誰も見ていない。


いや。


私にしか見えていない。


吉乃さんは、トモッキーを見下ろしていた。


その顔に、いつもの笑みはなかった。


『見たな、そなた』


低い声だった。


何を?


トモッキーが見たの?


トモッキーは吉乃さんが見えるの?


不意にニヤリと笑った吉乃さんの手が、腰元へと動いた。


懐剣の紐を解く。


するり。


白い刃が、日の光を返した。


え。


ちょっと待て。


ダメだ!


吉乃さん!


これは洒落にならない。


刃先が、トモッキーへと向いている。


「ダメだよ!! 吉乃さん!!」


声だけは出た。


けれど、足が動かない。


〇・〇一ミリどころではない。


動け。


動け、私。


「この人は何もしていません」


声がした。


私とトモッキーの間に、一人の女性が立っていた。


よしのさんだった。


「この方は何もしてません。ご自分で転ばれただけです」


よしのさんがトモッキーの足元を見る。

「ヒールが折れています」


周囲の視線が一斉に足元へ落ちた。



「レディの足を凝視するんじゃないわよ!」

トモッキーが叫んだ。


何人かが慌てて目を逸らす。

私も逸らした。


違う。


私はヒールを見ただけだ。

そういう意味ではない。


顔を上げて、吉乃さんを見る。

――いない。


消えていた。

いつから?


「怪我してるじゃないですか」

今度は、よしのさんの声だった。


「え?」


よしのさんが私の左手を見ている。


椅子に挟んだ中指が赤く腫れていた。


「大したことありません」


「大したことあるかどうかは、手当してから決めてください」


なぜか、叱られている気分になった。


「救護テント、どこですか?」


「いや、本当に大丈夫ですから」


「ダメです」


よしのさんが私の手を取った。


温かかった。


さっきまで脈打っていた指先とは違うところが、脈打ち始めた。


私は、その手を見た。


もう一度。


ほんの少しだけ、で、いい。


ギュッと握ってくれないだろうか。


……。


私は愚か者である。



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