「泣いてる暇があるなら走れ」
補給スペースの空気が、一瞬で変わった。
さっきまでゼリー一本であれだけうるさかったのに、モニターの赤い表示が出た瞬間、誰も何も言わなくなる。
【第七部隊、出撃準備】
【外縁居住区救援任務】
短い文字だった。
でも、それで十分だった。
琥珀がゼリーを握ったまま固まる。紅羽の顔つきが切り替わる。詩乃は目を細め、紫月は画面を見たまま小さく息を吐いた。
夕璃は一歩、前に出る。
「詳細は」
その問いに答えたのは、壁際の端末じゃなく、霧島だった。
「移動しながら聞け。時間がない」
その一言で、全員が動いた。
補給は一瞬だった。紫月が最低限必要な安定剤と救急パックを取り、紅羽が装備チェックを飛ばし気味で済ませ、詩乃は無言で短刀の位置を確認し、琥珀は結局ゼリーを二本持っていた。
「なんで増えてんの」
夕璃が言う。
「一本は走りながら用!」
「行儀わる」
「戦場に行儀とか言ってる場合!?」
「あるだろ一応」
「ないよ!」
「ある」
紅羽が即答する。
「食べながら走るな、九条」
「無理!」
「無理じゃない!」
「いや無理だって!」
そのやり取りをしながら、第七部隊は発進ゲートへ向かう通路を急いだ。
戦術棟の中は慌ただしい。いつもなら訓練生や教官が普通に行き来している廊下も、今は連絡員と補給係が走り回っている。壁のモニターには東側外縁の地図。点滅する赤。更新される数値。
正式稼働日。
その響きが、急に現実になっていた。
通路を曲がった先で、第三部隊・黄虹隊とすれ違う。
御剣千晴が先頭だ。
黄の隊服は目立つのに、動きに無駄がないせいで全体が静かに見える。防衛と避難の部隊らしいまとまり方だ。
千晴が第七部隊を見る。
ほんの一瞬だけ。
「黒瀬」
「はい」
「今回は救援だ。勝つ前に、落とすな」
短い。
けど、その言葉はさっきの演習の続きみたいに、まっすぐ入ってきた。
「……はい」
夕璃が答えると、千晴はそれ以上何も言わず、部隊を率いて通り過ぎていく。
紅羽が低くつぶやいた。
「言われなくても、そのつもりだ」
「でも、言われるとちょっと刺さる」
夕璃が返す。
「刺さるのは大事だろう」
「まあね」
さらに先で、第四部隊・緑虹隊の春風奏が、補給班に指示を飛ばしていた。やわらかい声なのに、やってることは早い。
「紫月さん!」
奏が気づいて手を上げる。
「安定剤、いつもより一段階強いの回してあるから。あと東区画、避難経路のマップ更新入ってる」
「ありがとうございます」
「無理しないでね……って言っても、今日の任務じゃ難しいか」
奏は少しだけ困ったみたいに笑って、それから夕璃へ視線を向けた。
「黒瀬さん」
「なに」
「戻ってきて。みんな分まとめて言うけど」
「雑」
「今はそのくらいでいいかなって」
それはちょっとだけよかった。
重い言葉を重いまま渡されるより、この人のこういう軽さの方が助かる。
「了解」
夕璃がそう返すと、奏は「うん」とだけ言って、また補給班へ戻っていった。
発進ゲート前はもうかなり騒がしかった。
大型シャッターの向こうは外壁へ続いている。床には薄い振動。上から流れてくる警報音。整備班の声。遠くで起動する結界装置の低い唸り。
そして、その全部の音の下に、少しだけ混ざっている外の空気。
冷たい。
戦場の手前の匂いがする。
「第七部隊、こっちだ」
霧島に呼ばれて、五人は発進待機ラインへ並ぶ。
前方には赤虹隊の一部と黄虹隊、少し離れて緑虹隊。橙虹隊は別ルートから外縁へ回るらしい。青虹隊はすでに高所支援準備中との表示がモニターに出ていた。
雫ももういるんだろうな、と夕璃は思う。
今はそれを考えてる場合じゃないけど。
霧島が端末を開き、最後の説明を短く落とす。
「任務内容を繰り返す。東側外縁、第三区画居住ブロックにて異常反応増加。すでに黄虹隊が避難誘導、赤虹隊が前衛防壁を形成中。だが、敵性反応が居住区内へ入り込み始めた」
モニターの地図が拡大する。
細い生活道路、住宅棟、小規模商店、避難ポイント。
その中に赤い点がいくつも出ている。
「種類は現時点で兵骸種を確認。ただし、上位反応が一つ混ざってる。これが厄介だ」
「上位って、どのくらい」
琥珀が聞く。
「まだ特定できてない。ただ、現場報告じゃ音響系の精神干渉あり」
紫月の目が少しだけ細くなった。
「祭祀種……」
「たぶんな」
霧島がうなずく。
「まだ断定はできんが、近い。避難が混乱してるのもそのせいだ」
夕璃は地図を見る。
居住区。
ただの戦場じゃない。生活の中に敵が入り込んでいる。住民がいて、泣いてる子どもがいて、逃げ遅れた人がいて、そこに兵骸種と精神干渉。
いちばんやりづらい形だ。
「第七の役割は二つ」
霧島が指を立てる。
「一つ、居住区内へ入り込んだ敵の刈り取り。二つ、祭祀系上位個体の発見と足止め。撃破まで行けるなら行け。無理なら位置を固定して他隊へ繋げ」
「足止めか」
紅羽が静かに言う。
「住民優先ですか」
「優先順位の一番上は常に住民だ」
霧島の声は低かった。
「忘れるな。今回お前らが助けるのは、ログじゃない。本物だ」
その一言で、胸の奥が少しだけ冷えた。
演習じゃない。
当然だ。わかってる。
でも、改めて言われると重い。
琥珀がゼリーをぐっと飲み込む。
「……了解」
いつもより声が低い。
夕璃は横目でそれを見る。
たぶん琥珀も、今はちゃんとわかっている。
「紫月」
霧島が呼ぶ。
「精神干渉が出たら、お前が鍵だ。無理に全部抱えるな。まずはラインを保て」
「はい」
「一条。正面を押しすぎるな。引く判断も持て」
「はい」
「白峰。消えるのはいいが、消えたままになるな」
「了解です」
「九条。前しか見るなとは言わん。だが、前だけ見るな」
「……はい」
「黒瀬」
「なに」
霧島の目が真っ直ぐ来る。
「隊長やれ」
短かった。
でも、それで十分すぎた。
夕璃は一瞬だけ目を細めて、それから答える。
「了解」
そのとき、発進ゲートの上でランプが青から白へ変わった。
【第七部隊、出撃許可】
シャッターがゆっくり上がる。
外の光が差し込む。
冷たい風。
そして、その向こうの遠景に、外壁と街区、そのさらに奥で立ち上がる薄い黒煙が見えた。
現実だ。
完全に。
「行くぞ」
紅羽が言うより少し早く、琥珀が一歩出る。
でも今日は飛び出さなかった。ちゃんと半歩で止まる。
えらい。
夕璃は前を見た。
背中の奥がざわついている。嫌な感じだ。夢の残りみたいなざわつき。でも、今は置いていくしかない。
「第七部隊、出る」
誰に向けたわけでもなく、でもちゃんと四人に聞こえる声で夕璃は言った。
「全員で行って、全員で戻る。まずはそれだけ考えろ」
「了解!」
琥珀が大きく返す。
「了解」
紅羽が続く。
「うん」
詩乃はやわらかく。
「了解です」
紫月は静かに。
五人が走り出す。
発進ゲートを抜けた瞬間、空気が変わった。
学園の中とはぜんぜん違う。風は冷たいのに、どこか熱を含んでいる。遠くで警報が鳴っていて、外壁上では砲台の起動音がしている。地面は硬く、空は高く、東側の街区だけが、そこだけ別の世界みたいに少し歪んで見えた。
嫌な眺めだ。
「右ルート、急ぎます!」
前方で黄虹隊の伝令が叫ぶ。
「居住ブロックC、避難遅れ多数!」
「赤隊、交差点維持!」
「緑、補給ライン確保!」
いろんな声が飛んでいる。
その中を、第七部隊は東へ走る。
途中、外壁上の高所通路に青虹隊の影が見えた。
長銃の反射光。
観測器の青い光。
そして、その一人が少しだけこちらを見下ろす。
雫。
距離が遠いのに、なぜかわかった。
雫は何も言わない。ただ、観測器の光が一瞬だけ第七部隊の進路をなぞって、そのまま前方の街区へ飛ぶ。
次の瞬間、居住ブロック入口の角で、何かが弾けた。
兵骸種の頭部。
長距離狙撃。
「うわ、青すっご」
琥珀が言う。
「感心してる場合か」
紅羽が返す。
「でも助かってる!」
「それはそうだ!」
夕璃は口元を少しだけ上げた。
雫らしいなと思う。
言葉はなくても、やることは早い。
居住ブロックCに入る。
そこから先は、戦場というより、生活の途中を壊した場所だった。
自転車が倒れている。買い物袋が散っている。開いたままの玄関。落ちた植木鉢。子どもの靴が片方だけ転がっていた。
その真ん中を、兵骸種が歩いている。
数は三。
その向こう、避難誘導の黄虹隊員が二人、住民を庇いながら下がっていた。
「第七、前に出る!」
夕璃が叫ぶ。
紅羽が先に飛ぶ。続いて琥珀。
詩乃はもう消えた。
紫月の光が背中へかかる。
夕璃は走りながら思う。
訓練のときより、ずっと嫌だ。
当たり前だ。
ここは誰かの暮らしの中だ。
失敗したら、数字じゃなくて人が落ちる。
兵骸種がこちらへ向く。
その動きは、演習より明らかに生々しかった。
「うわ、ほんもの気持ちわる……!」
琥珀が叫ぶ。
「喋ってる暇あるなら殴れ!」
夕璃が返す。
「言われなくても!」
琥珀の籠手が唸る。
紅羽の槍が前を切る。
詩乃の鋼糸が路地を横切る。
夕璃は長刀を構えて、そのまま一体の懐へ飛び込んだ。
斬る。
硬い。
でも通る。
返す刃で二撃目。遅れて残響が走る。兵骸種の動きが止まる。
その向こうで、黄虹隊員が叫んだ。
「子どもが一人見当たりません!」
夕璃の目が動く。
「最後にいた場所!」
「商店区画の角! でも、さっきから鐘みたいな音が……」
鐘。
その言葉で、空気のどこかがひどく嫌な感じに揺れた。
遅れて、耳の奥でかすかな音が鳴る。
ちり、とも、ぎぃ、ともつかない、薄い金属音。
夕璃の背中を冷たいものが走った。
「祭祀種……!」
紫月が息をのむ。
兵骸種の奥、商店区画の影で、黒いなにかがゆっくり立ち上がるのが見えた。
人型にも見える。鐘楼にも見える。細い腕みたいなものが何本も垂れていて、その中心に、口みたいに開いた穴がある。
そこから音がする。
ちり、ちり、ちり。
嫌な音だった。
聞いているだけで、知らない景色が頭の奥ににじむ。
「全員、耳塞げ!」
夕璃が叫ぶより早く、紫月が前へ出た。
白い光が広がる。
静謐領域。
やわらかい光が音を押し返すみたいに広がって、耳の奥のざわつきが少しだけ薄まる。
「行ける!」
紫月の声はいつもより強かった。
「今ならまだ!」
紅羽が祭祀種へ向き直る。
琥珀が唇を噛む。
詩乃の姿は見えない。
そして夕璃は、その鐘の音の向こうで、一瞬だけ夢の中の声に似た何かを聞いた気がした。
今度は、落とすな。
いや、違う。
違うはずなのに、耳が勝手に拾う。
「隊長!」
琥珀の声で、夕璃は意識を引き戻した。
前だ。
今は前。
夕璃は長刀を握り直した。
「紅羽、正面。琥珀は右から外殻を割れ。詩乃、いるなら核探れ! 紫月、ライン維持!」
自分の声が、少しだけ冷えていた。
でも、それでいい。
「了解!」
「任せろ!」
「もう見てるよ」
詩乃の声だけが、どこからともなく返ってくる。
祭祀種が、もう一度鐘の音を鳴らそうとする。
その前に、第七部隊が一気に踏み込んだ。
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