「おかわりするやつは食堂で一番強い」
中央戦術棟は、朝から空気が固かった。
人が多いせいじゃない。集まっている全員が、今日はちゃんと「その日」なんだとわかっているからだ。
廊下を歩くだけで、色ごとの隊服が視界を横切る。赤、青、黄、緑、橙、藍、紫。学園で毎日見ているはずなのに、こうして全部隊が同じ方向へ動いていると、妙に圧がある。
琥珀が小声で言った。
「なんか、こういうの緊張するんだけど」
「さっきまでパンで騒いでた人のセリフじゃないな」
夕璃が返すと、琥珀はむっとした顔をした。
「パンは大事でしょ」
「否定はしない」
「だよね!」
「でも今の話とは別」
「それもそう」
自分で言って、自分で納得していた。切り替えが雑で助かる。
会議室前には、すでに何人か集まっていた。
第一部隊の赤虹隊。第五部隊の青虹隊。第三部隊の黄虹隊も見える。みんなちゃんとしてるな……と、琥珀じゃなくても思う。
その中で第七部隊は、やっぱり少しだけ浮いていた。
別に騒いでいるわけじゃない。整列できないわけでもない。でも、空気が違う。ぴしっとまとまっている他の部隊に対して、こっちは五人とも立ち方からして少しずつ違う。
紅羽はきれいに立っている。紫月はやわらかい。詩乃は力が抜けている。琥珀はそわそわしている。夕璃はたぶん一番だらっとして見える。
そりゃ目立つ。
「黒瀬さん」
声をかけてきたのは、春風奏だった。
緑虹隊の隊長。今日もやわらかい笑い方をしている。緊張感のある場所でも、空気を一段だけ軽くできる人だ。
「おはよう」
「おはようございます」
紫月が先に返す。
奏は紫月を見て、少しだけ安心したみたいに笑った。
「顔色、朝よりはいいね」
「それ、まだ覚えてたんですか」
「わりとそういうの見る方だから」
「こわ……」
琥珀がぼそっと言う。
奏が聞きつけて、くすっと笑った。
「こわくないよ。補給と体調管理が仕事みたいなところあるし」
「緑ってそういう感じなんだ」
「そういう感じ。だから、無理しそうな人はだいたいわかる」
言いながら、ちらっと夕璃を見る。
やめてほしい。そこまでストレートに見られると、こっちも困る。
「そんな見ないでください」
「見てないよ」
「いや見てるだろ」
「見てるかも」
「正直」
奏は小さく肩をすくめた。
「でも、第七って無理する人多そうだから、今のうちにちょっと気にしとこうかなって」
「ちょっと、で済むかなあ」
詩乃がやわらかく言う。
「白峰さんは自覚あるんだ」
「わりと」
「ないと困る」
紅羽がきっぱり言った。
奏はそのやり取りを見て、また少し笑う。
「うん。やっぱり第七、見てると飽きないね」
「それ、褒めてるんですか」
「褒めてるよ。たぶん」
「奏さんまでたぶん使うんだ……」
紫月がちょっとだけ困ったみたいに笑った。
そのとき、会議室の扉が開いた。
霧島が顔だけ出す。
「お前ら、廊下でだべるな。入れ」
「だべるって言い方ひどくない?」
琥珀が言った。
「事実だろ」
「いやでも、もうちょい言い方ない?」
「あるけど面倒だからこれでいい」
「雑!」
「九条、うるさい。入るぞ」
紅羽が言って、先に動く。
結局、こういうときは紅羽がいちばん早い。副隊長向きだなと思う。本人に言ったらたぶん「当然だ」と返ってくるから言わないけど。
会議室の中はもうかなり埋まっていた。前方に上層部と各隊教官の席。中央から後ろが生徒用。色ごとにだいたいまとまって座っている。
赤虹隊はもう前寄りに座っていて、青虹隊はその少し横。紫は後ろ寄りの端だった。誰が決めたわけでもないのに、なんとなくそうなる。
夕璃は席に着きながら、前方を見る。
壇上に立っているのは、七虹学園総監、天城叡華。遠目でも目を引く人だ。きれい、とか、かっこいい、とか、そういう単純な言葉だと少し足りない。刃みたいな人だと思う。抜かなくても切れるやつ。
その横に、綾瀬冬子。白暁院の医療監。さらに記憶研究監の御門朔もいる。あの人が立っているだけで、会議の空気が一段嫌になるのはなんでだろう。たぶん表情のせいだ。人を見る目が、たまにすごく人っぽくない。
「……あの研究監、相変わらず感じわる」
夕璃の隣で琥珀がささやいた。
「声」
紅羽が即座に刺す。
「小さいじゃん」
「お前の小さいは信用ならない」
「ひど」
「でも、ちょっとわかるかも」
紫月がかなり小さな声で言った。
珍しい。
紫月が誰かをそういうふうに言うのは、かなり珍しい。
詩乃が前を見たまま、ぽつりと落とす。
「目が、ものじゃなくて中身を見てる感じしますよね」
「言い方がこわいな」
「そう?」
「そう」
夕璃は短く返して、それ以上は言わなかった。
御門朔はそういう人だ。見られると、ちょっとだけ背中が嫌な感じになる。理由はよくわからない。わからないけど、だいたいこういう勘は当たる。
会議室の照明が少し落ちた。
ざわめきが引く。
壇上の天城叡華が立ち上がる。それだけで室内の空気が完全に締まった。
「本日をもって、七虹学園所属各戦闘部隊は、正式運用段階へ移行する」
声は大きくない。なのに、ちゃんと最後列まで届く。
「諸君らはもはや訓練生ではない。適合者であり、部隊員であり、人類防衛の前線に立つ者だ」
言葉がまっすぐすぎて、ちょっと逃げ道がない。
琥珀が背筋を伸ばしたのが横目に見えた。紅羽は最初からまっすぐ。詩乃の表情は動かない。紫月は静かに前を見ている。
夕璃は、とりあえず眠気は飛んだ。
総監の話は簡潔だった。
正式運用の意味。今後の任務体系。各部隊の配置。通常兵力との連携。人格汚染の危険性。生存圏防衛の現状。戦況は悪くないが、楽観もできないこと。どれも必要な話だったし、余計な飾りがないぶん、逆に重かった。
そしてその中で、一つだけ、空気が少し変わった話題があった。
「特に、第六および第七部隊については、今後の運用において個別の監察対象とする」
小さく、何人かが息を飲んだ。
夕璃は瞬きひとつしなかったけど、内心では「やっぱりか」と思った。
紅羽の指先が少しだけ硬くなる。
琥珀は意味がすぐには入っていない顔。紫月は目を伏せた。詩乃だけが、ほんの少しだけ口元をゆるめた気がする。
監察対象。
便利な言い方だ。
ようするに、危ないから見張るってことだろう。
「想定内、って顔してる」
詩乃が小さく言った。
「想定外なら逆に困る」
夕璃も小声で返す。
「だよね」
前方ではもう次の説明へ移っていた。記憶接続時の緊急プロトコル。支援部隊との通信共有。出撃時の権限区分。ちゃんと聞かなきゃいけない内容ばかりなのに、「監察対象」の四文字だけが頭に残る。
まあ、いい。
いいわけじゃないけど、今さら気にしても仕方ない。
どうせ第七部隊は、最初からそういう目で見られている。
壇上に立つ人が総監から御門朔に変わった。
会議室の空気が、今度は別の意味で固くなる。
「諸君も承知の通り、英骸記憶と骸獣の関係については、依然として未解明の領域が多い」
抑揚の少ない声だった。
「だが、適合率の高い者ほど、戦況を覆すだけの戦果を上げる事例が多いのも事実だ」
そこで視線が、わずかにこちら側をなぞる。
いや、こちら側というより、第七部隊を。
特に、夕璃のいるあたりを。
気のせいかもしれない。でも、こっちはそういう気配に慣れている。
「今後、実戦運用に伴う追加検査の頻度は上がる。面倒に思う者もいるだろうが、諸君自身の安全のためでもある。従ってもらう」
安全。
その単語をこの人の口から聞くと、妙に軽く聞こえるのはなんでだろう。
琥珀がまた小さくもぞもぞ動く。落ち着かないのが見て取れる。たぶん、検査とか再測定とか、そういう単語が好きじゃないんだろう。好きな子の方が珍しいけど。
説明は続き、最後に霧島が前へ出た。
「じゃ、固い話はここまでだ」
その一言で、ちょっとだけ空気がゆるむ。
「これから各部隊ごとに戦術確認に入る。特に今日の午後は小規模の警戒任務が入る可能性がある。正式稼働日に合わせて外縁が妙にざわついてんだ。運が悪けりゃ、そのまま実戦だと思え」
運が悪けりゃ、で済ませるなよ……と思う。
でも、そういう言い方の方が逆に助かる時もある。変に深刻にされると、逃げ場がなくなるから。
「以上。解散。各部隊、担当教官について移動しろ」
椅子の音が一斉に鳴った。
会議室の緊張が、今度は動きの音に変わる。
赤虹隊がきれいに立ち、青虹隊も無駄なくまとまる。橙虹隊はちょっとうるさく、黄虹隊はきっちりしていて、緑虹隊は自然で、藍虹隊は静かだった。
そして第七部隊は、
「……で、どこ行くんだっけ」
「九条」
「聞いてたよ!? 聞いてたけど確認しただけ!」
いつも通りだった。
「戦術演習場Bだ」
紅羽が即答する。
「おお、さすが」
「当然だ」
「それ、たまに自分で言うよね」
「当然のことしか言っていない」
「うわ強い」
「会話が軽いなあ」
夕璃が言うと、紫月がちょっと笑った。
「重いよりはいいんじゃない?」
「そうかも」
そのとき、前方の通路で赤虹隊が動き出すのが見えた。
天童朱里が先頭に立っている。やっぱり目立つ。立ってるだけで絵になるの、ちょっとずるい。
紅羽の視線がまた、ほんの少しだけそっちへ向いた。
夕璃はそれに気づいて、でも何も言わなかった。今言うとたぶん面倒くさい。
その代わり、通路へ出ようとしたところで、向こうから朱里本人がこちらへ歩いてきた。
まっすぐ。
しかも、迷いなく。
琥珀が小さく「うわ」と言って、紅羽の背筋が一段階伸びる。詩乃は静かに目を細めた。紫月は自然に姿勢を正した。
夕璃は心の中でだけ、うわ、と思った。
「一条」
朱里は紅羽の前で止まった。
「天童先輩」
紅羽の声は、いつもより少しだけ硬い。
朱里はそんな紅羽を見て、ほんの少しだけ笑う。人を安心させる笑い方だ。こういうところも、この人が“正しい”感じのする理由なんだろう。
「そんなに固くならなくていい。まだ朝だよ」
「……はい」
「今日からだね」
「はい」
「期待してる」
短い会話なのに、紅羽の顔が少しだけ変わった。
憧れの相手に名前を呼ばれて、期待してるなんて言われたら、そりゃ効く。夕璃だって、たぶん他人事じゃなければちょっとは効く。
朱里の視線が、次に夕璃へ向く。
「黒瀬さん」
「……どうも」
礼儀としてそれはどうなんだ、と思わなくもない。でも無理にちゃんとするのも違う気がして、こうなった。
朱里は特に気を悪くした様子もなく、ただ夕璃を見る。
「旧演習記録、見たよ」
「へえ」
「変わった戦い方するんだね」
「褒めてます?」
「半分くらいは」
「その言い方、今日二回目なんだけど」
夕璃が言うと、朱里は少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「じゃあ、残り半分は心配かな」
その返しはちょっとずるい。
まっすぐなのに、言い方はちゃんとやわらかい。だから刺さる。
「心配されるほど弱くないですよ」
「うん。でも、強い人の方が危ないこともあるから」
そこで終わる。
それ以上は踏み込まない。
人との距離の取り方まできれいだな、と夕璃は思った。
朱里は最後に第七部隊全員へ軽く視線を向ける。
「お互い、いい日になるといいね」
そう言って、赤虹隊の方へ戻っていく。
後ろ姿までちゃんとしてる。ほんとなんなんだあの人。
数秒、沈黙。
最初に口を開いたのは琥珀だった。
「……あれずるくない?」
「何が」
「なんかもう、全部。存在が強い」
「語彙が来い」
夕璃が言うと、詩乃が小さく笑った。
「でもわかるかも。ちゃんと太陽っぽいですよね」
「その例え、なんか納得する」
紫月もうなずく。
紅羽だけが、少しだけ黙っていた。
夕璃は横目でそれを見る。
「元気なくなった?」
「違う」
「でもちょっと効いてる顔」
「違うと言っている」
「わかりやす」
琥珀が言った。
紅羽が深く息を吐く。
「……単純に、気を引き締めただけだ」
「ほら、そういうとこ」
「何だ」
「まじめ」
「悪いか」
「悪くはない」
夕璃はそう返して、少しだけ口元をゆるめた。
「たぶん、それ紅羽の強いとこだし」
自分で言ってから、あ、と思った。
こういうの、あんまり口にしないのに。
紅羽もたぶんそう思ったんだろう。こっちを見る顔が少しだけ止まる。
「……急に何だ」
「別に」
「いや、今のは褒めたでしょ隊長!」
琥珀が即反応した。
「うるさい」
「うわ、照れてる」
「照れてない」
「紅羽先輩も照れてる」
「九条」
「すみません」
秒で謝るやつ、今日三回目くらいだ。
そこへ、少し遅れて別の影が近づいてきた。
藍沢雫だった。
さっきまで青虹隊の中にいたはずなのに、いつの間にかこっちへ来ている。
「黒瀬」
「今日、名前呼ばれすぎじゃない?」
「自意識」
「ひどい」
雫は手元の端末を見ながら言う。
「演習場B、時間厳守。遅れたら霧島教官が機嫌悪くなるよ」
「もう悪いだろ、あの人の機嫌はだいたい」
「それはそう」
雫はあっさり認めた。
琥珀がまた夕璃と雫を見比べる。
「やっぱちょっと仲いい?」
「さっきからそればっかだな」
「だって気になるじゃん」
「気にしなくていい」
「気になる」
「気にするな」
「気になる」
「会話が小学生なんだよ」
「隊長も付き合ってるじゃん」
それはそうだった。
雫がため息まじりに言う。
「九条さん」
「なに?」
「黒瀬は昔からこういう感じだから、あんまり深読みしても意味ないよ」
「えっ」
琥珀が目を丸くする。
紅羽も、紫月も、詩乃も、微妙に反応した。
夕璃は頭を抱えたくなった。
「……お前」
「何」
「そういう言い方すんなよ」
「事実でしょ」
「事実でも言い方ってある」
「じゃあ訂正する?」
「しなくていい」
雫はほんの少しだけ目を細めた。
「変わってないね」
「そっちも」
「わたしは変わったよ」
「へえ」
「少なくとも、黒瀬よりは」
「勝手に比較するな」
なんか、昔もこういう会話をした気がする。したからなんだという話だけど。
紅羽が雫へ視線を向ける。
「藍沢副隊長」
「何?」
「黒瀬と、前から面識があるのは本当なのか」
その聞き方は、確認というより、ちゃんと知っておきたいに近かった。
雫は少しだけ考えるみたいに目を伏せてから答える。
「初期適性試験のころ、同じ観測室を使ってた」
「同室だった時期もある」
夕璃が足した。
「……そうなのか」
紅羽が短く言う。
詩乃は面白そうに夕璃を見るし、琥珀は「うわー」と顔に出てるし、紫月はなんか変なところで納得したみたいな顔をしている。
なんだその空気。
雫はそんな第七部隊の空気を一回で飲み込んで、淡々と続けた。
「じゃ、わたし戻るから。今日はちゃんと聞いて、ちゃんと動いて」
「保護者?」
夕璃が言うと、雫は一瞬だけ黙ってから返す。
「ちがう。昔から危なっかしいの知ってるだけ」
それだけ言って、今度こそ青虹隊へ戻っていった。
夕璃はその背中を見送って、少しだけ息を吐く。
危なっかしい、か。
それはたぶん、今さら否定できない。
「隊長」
紫月がやわらかく呼ぶ。
「なに」
「演習、がんばろうね」
「急に小学生みたいなまとめ方するじゃん」
「でも、そういう感じじゃない?」
たしかにそうかもしれない。
結局このあとやることは、世界の真実に触れることでも、過去を掘り返すことでもない。
ちゃんと動くこと。
まずはそれだけだ。
霧島が通路の向こうからまた声を飛ばした。
「紫! まだいるのか! さっさと来い!」
「ほら」
雫じゃなくても言いたくなる。
「行くか」
夕璃がそう言うと、紅羽がうなずいた。
琥珀が「おー!」と元気よく返し、詩乃が立ち上がり、紫月も歩き出す。
第七部隊、移動開始。
ちゃんとしてる感は、たぶんまだない。
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