「笑えてるから壊れていいわけじゃない」
《記憶の揺籃》へ続く道は、道というより傷口だった。
ホームの一番奥。
黒い川が流れ込んでいく先に、大きな穴みたいな暗がりがある。
でも、ただの穴じゃない。
近づくほど、壁でも床でも天井でもない感じが強くなる。
空間そのものが裂けて、そこに無理やり別の何かを押し込んだみたいな、不自然な広がり方をしていた。
「……ほんとに、やだ」
琥珀が言う。
今日は何回目だろうなと一瞬思って、でも数えるのはやめた。
たぶん今は、その感想が一番正しい。
各隊が、ここで最後の再配置に入る。
赤虹隊はホーム手前の広場で、湧き直してくる兵骸種を押さえる。
黄虹隊は帰還ルートの維持。
緑虹隊は最終補給と浄化の中継点。
青虹隊は高所と外周から観測をつなぎ続ける。
藍虹隊は《記憶の揺籃》へ伸びる黒い枝みたいな流れを切って、本道だけを残す。
そして第七部隊は、その真ん中に立っていた。
「ここから先、まともじゃないと思って」
雫の声が通信に入る。
『見えるものも聞こえるものも、たぶん全部そのまま信じないで』
「めずらしくふわっとした注意だな」
夕璃が言う。
『ふわっとするしかないくらい、向こうが嫌な場所ってこと』
「なるほど」
『あと』
雫が少しだけ間を置いて続ける。
『詩乃さん』
詩乃が顔を上げる。
「なに」
『今日は、ほんとに一人で飲まれないで』
その言い方は、ちょっとだけ硬かった。
ただの観測担当としてじゃなく、ちゃんと見てる側の声だった。
詩乃は少しだけ目を細めて、それから笑う。
「努力する」
『そこは約束して』
「……善処します」
『だめそう』
珍しく、雫の返しが即だった。
琥珀が小さく吹く。
「雫先輩も最近ちょっとだけ砕けてきたよね」
『聞こえてるけど』
「ひぇ」
そのやり取りで少しだけ空気がやわらぐ。
でも、完全にはゆるまない。
《記憶の揺籃》の入口に近づくほど、詩乃の横顔がまた静かになっていくのを、夕璃は見ていたからだ。
「詩乃」
夕璃が呼ぶ。
「ん」
「今、何が聞こえる」
詩乃は少しだけ黙る。
「笑い声」
その答えに、夕璃の背中が少し冷えた。
「誰の」
「わからない」
詩乃は前を見たまま言う。
「でも、わたしに似てる感じする」
それが最悪なんだよ、と夕璃は心の中で思う。
自分の声に似ているものほど、拒みにくい。
紅羽もそれを理解したのか、短く言った。
「黒瀬、右につけ」
「うん」
「白峰は私と夕璃の間を歩け」
「了解」
詩乃は軽く返す。
でも、その返事の温度が少しだけ薄い。
《記憶の揺籃》の外周へ踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
音がなくなる。
いや、正確には、遠くなる。
みんなの足音も、通信のノイズも、武器がかすれる音も、全部が一枚膜を隔てた向こうみたいに聞こえる。
中央には、大きな繭みたいなものがあった。
白い。
でも、きれいな白じゃない。
古い包帯とか、濡れた紙とか、剥がれかけた写真とか、そういうものが何層も重なってできたみたいな白だ。
その表面を、黒い糸が何本もゆっくり流れている。
時々、その白い膜の内側で人の顔みたいなものが浮かんでは消える。
「……っ」
紫月が小さく息をのむ。
「これ、ひどい」
「うん」
奏も後方から低く答えた。
「たぶん、ここがほんとうに一番奥」
繭のまわりに、細い通路みたいな道が円を描いている。
その道の途中途中に、白い残像が立っていた。
女。
兵士。
子ども。
老人。
誰も顔ははっきりしない。
でも、それぞれが違う“なれなかった何か”を抱えて立っている感じがした。
『第七、中央の白い繭そのものが本体じゃない』
雫の声が入る。
『あれは発生源の外殻。たぶん、周囲の残像が先』
「また嫌な順番だな」
夕璃が言う。
『今さらそこ?』
「今さらだけど」
そのとき、詩乃の足が止まった。
夕璃はすぐ気づく。
「詩乃」
返事がない。
詩乃は真正面を見ていた。
繭じゃない。
その少し手前、左側に立つ白い残像を。
それは、詩乃自身だった。
制服姿。
双短刀。
笑っている。
でも、その笑い方が、一瞬だけ見せた“あれ”に近い。
きれいで、やわらかくて、でもかなり危ない笑い方。
「……来た」
詩乃が小さく言う。
その声は、少しだけ乾いていた。
白い残像の詩乃が、ゆっくりこちらへ顔を向ける。
「そんなに嫌がらなくていいのに」
詩乃の声に似ている。
でも、違う。
「向いてるなら、楽な方で使えばいいじゃん」
「……」
詩乃は何も返さない。
夕璃が一歩前へ出る。
「聞くな」
「聞いてないよ」
詩乃はそう言う。
でも目が逸れない。
白い残像の詩乃は、くすっと笑う。
「ほんとに?」
その声は近い。
近すぎる。
「でも思ったでしょ。楽だなって」
詩乃の肩がわずかに揺れる。
「笑えるって、悪いこと?」
残像が続ける。
「殺せるって、役に立つってことじゃん」
「やめろ」
夕璃が低く言う。
でも、残像は止まらない。
「怖がる必要ないよ。向いてることをちゃんと使うだけ」
詩乃が、そこでほんの少しだけ前へ出かけた。
夕璃は反射で腕をつかむ。
「行くな」
「まだ行ってない」
「足が出た」
「少しだけ」
「その少しが一番やばい」
紅羽が前へ出る。
詩乃の反対側へ回る。
「白峰」
「ん」
「見るな」
短い。
でも、強い。
詩乃は一瞬だけまばたいた。
そこで少しだけ、現実側へ戻る。
でも、残像はそこでさらに近づいてきた。
「向いてるのに、どうしてそんなに嫌がるの?」
詩乃の声に似た声が、やけにやさしく落ちる。
「きれいに壊れられるなら、それでよくない?」
それは、前よりもっと危ない言い方だった。
壊れてもいい、じゃない。
壊れること自体を“きれい”だと言ってくる。
「詩乃ちゃん!」
紫月が後ろから呼ぶ。
光が少しだけ強くなる。
でも、届ききらない。
残像は、詩乃の手を取ろうとするみたいに、白い腕を伸ばした。
その瞬間、詩乃の目がほんの少しだけ揺れる。
まずい。
「詩乃」
夕璃が言う。
「見ろ」
詩乃は返事をしない。
だから夕璃は、もっと強く言った。
「そいつ、お前じゃない」
「……似てるよ」
詩乃が小さく返す。
「すごく」
「似てても違う」
夕璃は一歩前へ出る。
「笑えることと、壊れていいことは別だ」
白い残像が少しだけ首をかしげる。
「でも、楽だよ?」
そのやさしい声に、夕璃はいらっとした。
「知るか」
吐き捨てる。
「楽でも、消えるなら意味ない」
詩乃の目が少しだけ夕璃へ寄る。
今だ、と思う。
「詩乃」
夕璃はまっすぐ言う。
「向いてても、行っていい場所は自分で決めろ」
その言葉に、詩乃の表情が揺れた。
白い残像の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「自分で?」
詩乃がつぶやく。
「うん」
紅羽も低く言う。
「お前が決めろ」
紫月の光が、足元をつなぎ止める。
「詩乃ちゃん、まだここにいて」
琥珀も、少しだけ震えた声で言った。
「先輩、それ、全然楽しそうじゃないじゃん」
その一言で、詩乃の顔がほんの少しだけ崩れた。
白い残像が、そこで初めてわずかに苛立ったように見える。
「どうして?」
残像が言う。
「向いてるのに」
「向いてても」
詩乃がゆっくり口を開いた。
声は最初、少しだけかすれていた。
でも、だんだんはっきりしていく。
「向いてても、わたしの行く場所は、わたしが決める」
その言葉が落ちた瞬間、白い残像に細いひびが入った。
ぱき、と乾いた音。
詩乃は一歩前へ出る。
今度は、引かれた足じゃない。
自分で出た足だった。
「笑えるからって、壊れていいわけじゃない」
双短刀を構える。
その刃先はぶれていない。
「役に立てるからって、消えていいわけでもない」
白い残像が、その場で少しだけ後ろへ揺れた。
そして、次の瞬間には、詩乃がもうそこへ入っていた。
速い。
静か。
でも、前みたいな危うい静けさじゃない。
自分で選んで切る速さだ。
一閃。
白い残像が、胸の中心から裂ける。
壊れる。
でも、きれいには消えない。
どこか悔しそうに歪みながら、白い粒になって崩れていく。
詩乃はその場に立ったまま、少しだけ息を吐いた。
「……戻った?」
琥珀が聞く。
「もともといたよ」
詩乃が振り向いて、少しだけ笑った。
その笑い方は、やっとちゃんと人間のものだった。
夕璃は肩の力を抜く。
「よかった」
「今さら?」
「今だからだよ」
その短いやり取りのすぐあとだった。
中央の白い繭が、大きく脈打った。
どくん、と。
空間ごと心臓みたいに揺れる。
全員の視線がそっちへ向く。
繭の表面に、次々とひびが入る。
白い膜が割れ、その奥から、もっと深い暗さが見え始める。
「まずい」
澪那が低く言う。
「来るよ」
その言葉と同時に、繭が縦に裂けた。
中から現れたのは、怪物みたいな形じゃなかった。
もっと嫌だった。
人の手。
人の顔。
人の祈る姿。
泣く声。
叫ぶ口。
そういうものが何百も重なって、一つの大きな“揺籃”みたいな形を作っている。
ゆりかごみたいにも見える。
棺みたいにも見える。
世界の傷口そのものみたいにも見える。
『確認……最深部反応、完全顕現……!』
雫の声が、珍しくわずかに乱れた。
『《記憶の揺籃》、来る!』
夕璃は長刀を握り直す。
詩乃も、もう揺れていない目で前を見る。
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