「後悔で終わりたくない」
最深部へ続く隔壁の前は、妙に静かだった。
今までずっと敵がいた。
兵骸種も、断片も、人形型も、残留思念も。
何かしらがずっとこちらの進みを邪魔してきた。
なのに、ここだけは違う。
巨大な隔壁。
中央に走る細いひび。
その向こうから、低く脈打つみたいな振動だけが伝わってくる。
静かすぎる。
そして、こういう静けさはだいたいろくでもない。
「……やだなあ」
琥珀がぽつりと言った。
「わかる」
夕璃も返す。
でも、今の返事は軽口じゃなかった。
本当に同じことを思っていた。
隔壁の前で各隊が一度止まる。
赤は後方の広間で再編。
黄は撤退路の固定。
緑は中継点を設置。
青は最深部内部の観測線を無理やり通そうとしている。
藍は隔壁の構造確認。
第七部隊だけが、その少し手前で待機していた。
夕璃は隔壁を見上げる。
高い。
昔は厳重な防災シャッターみたいなものだったのかもしれない。
でも今は、その金属の継ぎ目から黒い筋が何本もにじんでいた。
呼吸が少しだけ浅くなる。
「夕璃ちゃん」
紫月の声。
「ん」
「今、引っ張られてる?」
夕璃はすぐには答えなかった。
正直に言うなら、引っ張られている。
でも足元が消えるほどではない。
まだ、ちゃんとここにいる。
「少しだけ」
そう答える。
紫月は小さくうなずいた。
「わたしの範囲、もう少し近くするね」
「無理は」
「してない」
紫月は静かに言った。
「今は、まだ」
その“まだ”が少しだけ怖い。
でも、ここでそれを止めるのも違う気がした。
紅羽が前に立ったまま言う。
「黒瀬」
「なに」
「影が見えたら先に言え」
「命令?」
「命令だ」
「強いな」
「今さらだろう」
たしかにそうだった。
詩乃は少し離れた場所で、隔壁を見ていた。
表情は静かだ。
でも、終盤みたいな危うい静けさとは少し違う。
今の詩乃は、ちゃんと自分で立っている顔をしている。
その代わり、何かを待っている顔でもあった。
「詩乃」
夕璃が呼ぶ。
「なに?」
「今、どうだ」
詩乃は少しだけ考えてから答えた。
「近い」
「何が」
「たぶん、わたしが嫌がってるもの全部」
その言い方は詩乃らしかった。
わかりにくいのに、なんとなく意味は伝わる。
「でも」
詩乃は続ける。
「今はちゃんと、それを嫌だって思えてる」
夕璃は少しだけ息を吐く。
「ならいい」
「夕璃ちゃん、それ最近ちょっと雑」
「便利だろ」
「便利だけど」
少しだけ、詩乃が笑う。
その笑い方はちゃんと人っぽかった。
隔壁の前では、藍虹隊が動いていた。
澪那と透子、それに繭と遥が、黒い筋の流れを見ている。
切る場所を探しているんだろう。
こういうときの藍虹隊は、本当に仕事が早い。
「構造、完全な物理ロックじゃないね」
透子が言う。
「深部側の反応で半分生きてる」
「切れるか」
紅羽が聞く。
澪那は数秒だけ見てから答えた。
「切れる。でも」
「でも?」
「切った瞬間に向こうも気づく」
それは、もうたぶん気づいてるんじゃないかと思う。
でも口には出さない。
『外からもそれ確認』
雫の声が入る。
『隔壁を開けた時点で、最深部反応が一段上がる。たぶん待機状態が終わる』
「待機って言うなよ」
夕璃が言う。
『ほかに言い方ある?』
「あるだろ、寝てるとか」
『余計やだ』
その返しで少しだけ空気が動く。
少しだけだけど。
朱里が赤虹隊側から歩いてくる。
「一条」
「はい」
「中に入ったら、こっちは正面の枝を押さえる」
「お願いします」
「その代わり、最深部の芯はそっちで見て」
短い。
でも、それで十分だった。
朱里は夕璃の方も見た。
「黒瀬さん」
「なに」
「今回は、ギリギリまで一人で抱えないで」
「……努力はする」
「努力じゃなくて、やる」
「強いな」
「強く言わないと聞かないでしょ」
どこかで聞いたな、それ。
たぶん本当にそうなんだろう。
朱里が戻る。
その背中を見送ってから、夕璃はもう一度だけ隔壁を見る。
その瞬間、黒い継ぎ目の向こうに、長い髪の女の影が見えた。
今度ははっきり。
隔壁の向こう側。
こちらを見ている。
「……っ」
「見えた?」
紅羽の声が、思ったよりすぐ近くで落ちた。
夕璃は少しだけ息をのんで、それからうなずく。
「うん」
「何をしている」
「見てる」
「それだけか」
「……たぶん」
言いながら、自分でも少し自信がない。
影はただ立っていた。
でもその立ち方が、前より近い。
前より、はっきり“こっちへ来い”に見える。
紅羽はそれ以上聞かなかった。
代わりに、小さく言う。
「一人で追うな」
「わかってる」
「本当にか?」
「本当に」
その返事をした瞬間、隔壁の向こうで低い振動が走った。
全員の空気が変わる。
澪那が即座に手を上げる。
「開ける」
「各隊、準備!」
霧島の声が飛ぶ。
隔壁の黒い筋へ、藍虹隊の刃が同時に入る。
細い音。
金属と、もっと別のものが裂ける音。
ひびが一気に広がる。
ぶつん、とどこかで切れる気配。
次の瞬間、隔壁の向こうから冷たい風が吹いた。
嫌な風だった。
空気じゃないみたいな風。
古い記憶と、鉄と、血と、雨の匂いが混ざっている。
「開くぞ!」
誰かが叫ぶ。
隔壁がゆっくり左右へ割れる。
その向こうにあったのは、駅みたいな空間だった。
広い。
高い天井。
崩れたホーム。
止まった電光掲示板。
でも、ただの駅ではない。
線路の代わりに、中央へ向かって黒い光の川みたいなものが流れている。
その川の先、ホームの一番奥。
大きな穴みたいな暗がりがあった。
最深部。
そこが、この街のいちばん奥だと一目でわかった。
「……気持ち悪」
琥珀が言う。
「うん」
紫月が珍しく、かなり小さな声で同意した。
詩乃は何も言わない。
ただ、前を見ている。
夕璃の耳の奥がざわつく。
影が、今度ははっきりそこにいた。
ホームの中央。
黒い川の手前。
長い髪の女の影。
立って、こちらを見ている。
「夕璃ちゃん」
詩乃の声。
「たぶん、来るよ」
「何が」
「わたしの嫌なやつと、夕璃ちゃんの知ってるやつ」
その言葉が終わるより早く、最深部の空気が変わった。
黒い川がゆっくり波打つ。
ホームの両脇に並んでいた人影が、いっせいにこちらを向く。
全部、残留思念だ。
でも、普通じゃない。
顔の輪郭がぼやけ、体の中に黒い糸が通っている。
もうかなり向こうに寄っている。
『最深部内部、反応急上昇!』
雫の声が飛ぶ。
『第七、正面中央! そこがいちばん薄い!』
「行く!」
夕璃が前へ出ようとした、その瞬間だった。
黒い川の中央から、何かが浮かび上がった。
女の影。
いや、違う。
これは影じゃない。
もっとはっきりしている。
長い髪。
軍服みたいな濃い色の服。
右手には細身の刃。
顔は見えない。
でも、わかる。
夕璃にずっと見えていた女だ。
「……あなた」
思わず口に出る。
次の瞬間、世界がひっくり返った。
ホームが消える。
最深部が遠のく。
音がなくなる。
夕璃は一瞬で、別の場所に立っていた。
雨だった。
激しい雨。
灰色の空。
泥。
壊れた塀。
倒れた兵士。
泣き声。
遠くで燃える街。
知らない。
でも、今まで見たどのノイズよりもはっきりしている。
そこに、女がいた。
今度はちゃんと見える。
若い。
でも目だけが妙に冷たくて、そしてひどく疲れていた。
軍服の袖には血。
手には細い剣。
その向こう、崩れた門のあたりに、子どもが二人、取り残されている。
そして反対側には、もっと大勢の避難民。
女は動けない。
どっちかしか選べない位置にいる。
そこで、夕璃は理解した。
この人は、ここで選んだんだ。
「……」
声が出ない。
女は振り返らない。
ただ前を見たまま、静かに言う。
「遅い」
その言葉は、怒っているようでいて、ひどく弱かった。
「また、間に合わない」
夕璃は、その場に立ち尽くす。
これが、影の正体。
ずっと夕璃を引っ張っていたのは、何かの案内役じゃない。
ここで間に合わなかった人の後悔だ。
女は大勢の方を守るために走る。
取り残された子ども二人は、そのまま黒い波みたいなものに飲まれる。
女の足が止まる。
でも、止まれない。
振り向けない。
振り向いたら、こっちまで落ちる。
そういう場面だった。
雨の音がうるさい。
でも、そのうるささの奥で、女の呼吸がすごく静かだった。
終わったあと、女は一人で膝をつく。
剣先が泥に沈む。
肩が震える。
「これでよかった」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。
でも、その声には全然納得がない。
「……よかったはずだ」
夕璃はそこで、ようやく息を吸った。
わかる。
わかってしまう。
これは“正しい判断をした英雄”の記録じゃない。
正しかったかもしれないのに、自分を許せなかった人の記憶だ。
だからずっと言っていたんだ。
今度は落とすな。
また遅い。
そうやって、夕璃に。
女が、やっとこちらを見る。
疲れた目だった。
でも、その奥には、まだ消えていない責任みたいなものがあった。
「わたしの代わりに」
女が言う。
「今度こそ」
その言葉で、夕璃の胸の奥が熱くなる。
でも、それは従いたい熱じゃない。
少し違う。
「……いやだ」
夕璃が小さく言う。
女の目が少しだけ動く。
「え」
「いやだよ」
夕璃はもう一度言った。
「あなたの後悔を、そのまま引き継ぐために、わたしはここまで来たんじゃない」
雨の世界が少しだけ揺れる。
女は何も言わない。
夕璃は前へ一歩出た。
「助けられなかったの、つらかったのはわかる」
喉が熱い。
でも、止めない。
「でも、それをずっと繰り返すために、わたしが戦ってるわけじゃない」
女の手の剣先が、わずかに動く。
「今度こそ全部救えとか、また落とすなとか、そういうのじゃない」
夕璃はまっすぐ見る。
「わたしは、あなたの後悔で終わりたくない」
その一言で、雨音が一瞬だけ遠のいた。
女の顔に、はじめて少しだけ感情らしいものが浮かぶ。
驚きに近い。
それから、ほんの少しだけ苦い笑い。
「……生意気」
「知ってる」
「似てない」
「似なくていい」
女はそこで少しだけ目を閉じた。
雨が弱くなる。
「なら、選べ」
小さな声だった。
「借りるだけじゃなく」
そこで夕璃は、はっきりわかった。
この人は命令してるんじゃない。
最後に、自分ができなかったことを託している。
でも、その託し方まで全部従う必要はない。
「選ぶよ」
夕璃は答える。
「だから、ここで終わる」
女の輪郭が少しずつ薄くなる。
雨の世界も、崩れ始める。
最後に、女はほんの少しだけ笑ったように見えた。
それは、今まで夕璃が見てきたどの影よりも、ずっと人間らしい顔だった。
次の瞬間、夕璃の視界が現実へ戻る。
最深部。
崩れたホーム。
黒い川。
詩乃たちの声。
「夕璃ちゃん!」
詩乃の声がいちばん近かった。
夕璃は大きく息を吸う。
膝が少しだけ揺れる。
でも立っている。
「……ただいま」
反射でそう言ったら、詩乃が一瞬だけ変な顔をした。
「おかえりって言えばいい?」
「いらない」
夕璃は息を整えながら答える。
紅羽がすぐ近くまで来る。
「何を見た」
「……影の正体」
「どうだった」
夕璃は少しだけ前を見る。
最深部の奥。
まだ黒い川は流れている。
でも、さっきまでの“引っ張られる感じ”が少し変わっていた。
「後悔だった」
短く言う。
「でも、もうそれで動かされない」
詩乃が夕璃の顔をじっと見る。
たぶん、何か変わったのを感じたんだろう。
雫の声が通信に入る。
『黒瀬』
「なに」
『今、波形が変わった』
「悪い方?」
『……違う』
少しだけ間があった。
『深くなったのに、前より安定してる』
その言い方は、妙に雫らしかった。
褒めるでもなく、でもちゃんと認めている感じ。
「そっか」
夕璃は短く返す。
それで十分だった。
そして、その直後。
ホームの最深部側で、黒い川が一段大きく脈打った。
全員の空気が変わる。
紅羽が槍を構える。
詩乃が双短刀を下げたまま半歩前へ。
紫月が白い光を広げる。
琥珀も、今度はふざけずに前を見る。
夕璃は長刀を握り直した。
女の影はもういない。
でも、その代わりに残ったものがある。
借りた力じゃない。
借りたまま終わらないための、意志みたいなもの。
最深部の奥で、何かが目を開く。
《記憶の揺籃》への道が、今度こそ完全に開いた。
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