プロローグ 「まだ朝は来ていない」
第3章の始まりです。
白暁院の夜は、きれいすぎて少し落ち着かない。
床は白い。壁も白い。明かりも白い。消毒の匂いまで白く感じる。
そこにいる人間だけが、たぶんぜんぜん白くない。
夕璃は病室前の廊下にある細いベンチに座っていた。
時刻は深夜一時を少し回ったくらい。
静かだ。昼みたいに慌ただしくない。看護師の足音も、端末の電子音も、全部が少し遠い。だから逆に、自分の考えだけがうるさい。
ガラス越しの病室には、詩乃がいた。
眠っている。
正確には、眠らされている、の方が近いのかもしれない。
細い寝息。整えられた白いシーツ。腕にのびるモニター線。顔色は悪くない。少なくとも、ぱっと見で「危ない」と分かるような状態ではない。
でも、だから安心できるかといえば、そうでもなかった。
「……ぎりぎりだったな」
夕璃は小さくつぶやく。
返事はない。
当たり前だ。詩乃は寝ている。
あの地下街で、詩乃が花嫁の方へ一歩出た瞬間。
あれがまだ頭に残っている。
楽な方へ行きかけた目。
静かすぎる声。
そして、自分で腕を切って戻ってきた、あの痛いみたいにまっすぐなやり方。
止まった。
でも、あれは一歩手前だった。
もっと下手をしていたら。
夕璃の言葉が届かなかったら。
紫月の領域が少し遅れていたら。
琥珀が泣きそうな顔で立たなかったら。
紅羽が命令で引き戻さなかったら。
たぶん、だめだった。
考えたくないのに、頭の方が勝手に考える。
廊下の向こうから足音が近づいてきた。
規則正しい。急いでいない。でも迷いもない。
夕璃は顔を上げる。
雫だった。
青虹隊の制服をきっちり着たまま、片手に端末を持っている。髪も乱れていない。こっちはこんなにぼろぼろなのに、どういう体の作りしてるんだろうなと思う。
「まだいたんだ」
雫が言う。
「そっちこそ」
夕璃が返す。
「青虹隊の副隊長がこんな時間に白暁院うろうろしてていいの」
「うろうろしてるわけじゃないよ」
雫はそう言って、病室の前まで来た。
ガラス越しに詩乃を見る。
「様子見」
「誰の」
「両方」
その答えが、少しだけ嫌だった。
でも、否定しにくい。
雫は病室の中を一度見てから、夕璃の横へ立った。
少しだけ間をあけて。近すぎない距離で。
「寝てるね」
「寝てるね」
短い会話だった。
でも今は、そのくらいの方がいい。
夕璃は壁に軽く頭を預ける。ひんやりして気持ちいい。
体は疲れている。頭も重い。眠れと言われたら、たぶんすぐにでも落ちる気はする。でも、部屋へ戻って一人になる気にもなれなかった。
「詩乃さん」
雫が小さく言う。
「戻ってきたね」
「うん」
「ぎりぎりだけど」
「うん」
少しだけ沈黙。
白暁院の夜は、その沈黙すらきれいに見せるから嫌だなと思う。
「夕璃」
雫が言う。
「なに」
「今日は助かった」
その言い方は、思っていたよりずっとまっすぐだった。
夕璃は少しだけ目を細める。
「めずらしい言い方するな」
「何が」
「もっとこう、“危なかったけど結果的には有効だった”みたいに言うかと思った」
「そういうの期待してたの?」
「別に」
「ならいいでしょ」
雫は淡々としていた。
でも、そのあと少しだけ声を落とした。
「本当に助かったから言ってる」
そこで夕璃は視線をそらした。
ずるいなと思う。
こういうときだけ、雫は昔からの距離で来る。
データでも役割でもなく、ちゃんと知ってる側の顔で言う。
「そっちも」
夕璃は短く返した。
「観測なかったら、本核位置たぶん取れなかった」
「仕事しただけ」
「うん」
「……でも、よかった」
雫はそう言ってから、また病室を見る。
詩乃の寝顔は静かだ。
静かすぎるくらいに。
「夕璃」
「なに」
「今日のあんたも、かなり危なかった」
その一言で、空気が少しだけ重くなる。
「知ってる」
反射でそう返した。
でも雫はすぐに言う。
「知ってる顔してない」
「どんな顔だよ」
「ぎりぎり平気なふりしてる顔」
言い方が、やっぱりずるい。
雫は手元の端末を軽く叩いた。画面には波形のログが出ているらしい。夕璃からは見えないけど、たぶん見えたところで意味はわからない。
「本核に斬り込む直前、波形が大きく乱れた」
「うん」
「綾瀬さんが止めなかったのは、その瞬間は使った方がましだと判断したから」
「嫌な言い方」
「事実」
そこは本当にぶれない。
「次は、たぶんもっと危ない」
その声だけが、少しだけ低かった。
夕璃は黙る。
たぶん、そうだろうなと思う。
花嫁を砕いた。
でも深いところまでは終わっていない。
むしろ、あの深いところがまだ残っていると分かったぶん、次はもっと直接くる。
「次は、ほんとに止めるかもしれない」
雫が言う。
「前にも聞いた」
「前より本気」
「そう見える」
「見えて」
「やだね」
「知ってる」
短いやり取り。
でも、それで少しだけ空気が動く。
雫は視線を落として、少しだけ迷うような間を作ったあとで言った。
「旧第十三市街の深部反応、まだ消えてない」
「……どのくらい」
「断片じゃない」
その答えだけで十分だった。
夕璃は奥歯を噛む。
やっぱり終わってない。
花嫁を砕いたのは、一番わかりやすい顔を壊しただけなんだろう。
もっと奥に、もっと大きいものが残っている。
「今日の戦いで、深部側の層が少し開いた」
雫は言う。
「観測機器の向こうで、今まで見えなかった場所が見え始めてる」
「それ、よくないやつだろ」
「かなり」
そこへ別の足音が近づいてきた。
二人ともそっちを見る。
綾瀬だった。
白衣の上に薄いカーディガンを羽織っている。目の下にうっすら疲れがある。けど、歩き方は変わらない。そういう人だ。
「まだいたの」
綾瀬が言う。
「寝ろって言ったでしょ」
「言われた」
夕璃が答える。
「じゃあ寝て」
「はい」
「返事だけがいい」
綾瀬はため息をついた。
でも、本気で怒っている感じではない。怒る体力もたぶん今はあまりないんだろう。
病室の中を見てから、綾瀬は続ける。
「詩乃さんは今夜はこのまま。朝もう一度、残留干渉の確認をする」
「隔離じゃないんだ」
夕璃が聞く。
綾瀬は首を横に振る。
「今の時点ではまだ、そこまでじゃない」
少しだけ息がしやすくなる。
ほんの少しだけ。
「でも、安心しないで」
綾瀬はすぐに続けた。
「ギリギリ止まっただけなのは事実だから」
「……はい」
返事が少しだけ重くなる。
綾瀬の視線が、今度は夕璃へ向いた。
「あなたも」
「来ると思った」
「来るに決まってるでしょ」
綾瀬は真顔のままだった。
「今日の波形、危険域まではいってない。けど、かなり近い」
「うん」
「“うん”じゃない」
「いや、知ってるから」
「知ってるのと、軽く受け流すのは違う」
正論だ。
そして今は、その正論がちょっときつい。
綾瀬は少しだけ声を落とした。
「旧第十三市街であなたが見ている女の影」
その言葉に、夕璃の背中が少しだけ冷える。
「もう、ただの見間違いとか悪夢の延長では説明しきれない」
雫は横で黙って聞いていた。
たぶん同意している。
「追ってるのか、導いてるのか、まだ断定はしない」
綾瀬はゆっくり言う。
「でも、次に深部へ入ればもっと強く接触する可能性が高い」
「……つまり?」
夕璃が聞く。
綾瀬は数秒だけ黙ってから答えた。
「次は本当に危ない」
その一言だけが、妙にはっきり残る。
脅しでも、強い命令でもない。
もっと静かな、現実の形でそこへ置かれる。
夕璃はそれに、すぐには返せなかった。
返せないまま、少しだけ視線を落とす。
「……止まれって言う?」
ぽつりと聞く。
綾瀬は首を横に振った。
「今は言わない」
「言わないんだ」
「止まれる段階を、たぶんもう少し過ぎてる」
それは言われて嬉しい言葉ではない。
でも、嘘じゃないのもわかる。
「だから、せめて知ってて」
綾瀬は言う。
「次は、本当にどちらかに振れる」
向こうか、こっちか。
たぶんそういう意味だ。
沈黙が落ちた。
廊下の先で、機械の短い電子音が鳴って、止む。
病院の夜は静かだ。
静かなのに、こういう話はちゃんと刺さる。
「……わかった」
夕璃はやっとそれだけ言った。
綾瀬は小さくうなずく。
「じゃあ、今日は休んで」
それだけ言って、病室の方へ歩いていく。
雫もそれを見送ってから、小さく息を吐いた。
「最悪だね」
「うん」
「でも、行くしかないでしょ」
「うん」
その返しに、雫は少しだけ口元をゆるめた。
「そういうとこ、ほんとやだ」
「褒めてる?」
「全然」
少しだけ空気がやわらぐ。
でも軽くはならない。
雫は病室のガラスをもう一度見てから言った。
「戻る」
「青虹隊舎?」
「その前に観測室。今日の深部波形、まとめないと」
「真面目」
「知ってる」
「じゃあ送らない」
「最初から期待してない」
それだけ言って、雫は廊下の向こうへ歩いていった。
夕璃は一人になる。
病室の前。
白い廊下。
ガラスの向こうで眠る詩乃。
女の影の声は、今夜は聞こえない。
それが逆に少しだけ不気味だった。
静かすぎる。
嵐の前に風が止まるみたいに。
夕璃はベンチから立ち上がる。
部屋へ戻る前に、一度だけ外の空気がほしかった。
白暁院の出口へ向かう。夜風が頬に当たる。少しだけ冷たい。
学園は眠っている。
でも、完全に休んでいる感じではない。
外壁の警戒灯は点いているし、遠くの戦術棟にもいくつか明かりが残っている。
そして、そのどこかで御門朔はまだ起きていた。
解析室。
暗い部屋に、モニターの光だけが並んでいる。
机の上には、旧第十三市街深部から回収された記録片、祭祀種核片、人形型残滓、喪鐘の花嫁本核破片、その解析ログ。
御門は、それらをひとつずつ重ねていた。
やればやるほど、嫌な形でつながっていく。
天孔由来敵性反応。
英骸記憶の接続波形。
適合者の深部反応。
人類側の死の記録。
まるで最初から、同じ根の別の枝みたいに。
御門は淡々と報告文を打ち込む。
【仮説段階を超えた可能性が高い】
【天孔由来敵性反応と英骸記憶接続層は、起源を同じくする深層構造に属している】
少しだけ指が止まる。
それから、続ける。
【すなわち、骸獣群および適合者が用いる戦闘記憶は、完全な異物と対概念ではない】
【人類史に蓄積した死・祈り・後悔・英雄視の同一基盤から発生した表裏である可能性が極めて高い】
冷たい文章だった。
でも、その中身は冷たく済まない。
敵は、最初から外から来たんじゃないのかもしれない。
力も、最初からきれいなものじゃなかったのかもしれない。
人はずっと、自分たちの傷口をそのまま武器にしていたのかもしれない。
御門は最後の一文を入れる。
【旧第十三市街最深部に存在する発生源を止めない限り、流出は今後も継続する可能性が高い】
これで終わりじゃない。
むしろここからだ。
白暁院の外で、夕璃は夜空を見上げた。
星はあまり見えない。
雲が薄くかかっている。
この世界は、敵に壊されているんじゃない。
最初から、傷はこっち側まで続いていた。
その事実だけが、夜の冷たさの中で妙にはっきりしていた。
そして、夕璃は小さく息を吐く。
「……ほんと、最悪だな」
返事はない。
でも、その最悪の先に、自分たちはもう行くしかないのだと、たぶん全員が分かっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




