「まだ終わらない」
喪鐘の花嫁の本体は、断片なんか比べものにならないくらい静かだった。
静かなのに、見た瞬間にわかる。
あれがいちばんまずい。
地下街の吹き抜けの向こう。崩れたエスカレーターの上に、白い花嫁みたいな輪郭がゆっくり立ち上がっている。顔はない。なのに、見られている。
ベールの下で、無数の鐘糸がゆっくり揺れていた。
音はまだ鳴っていない。
でも、それが逆に怖い。
『全隊、距離を取って』
雫の声が通信に飛ぶ。
『今の本体反応、断片とは桁が違う。まともに近づくと持っていかれる』
「持っていかれるって、何に」
琥珀が息をのむ。
『記憶層ごと』
短い。
でも十分に嫌だった。
紅羽がすぐに前へ出る。
「第七、下がれ」
「え」
琥珀が目を見開く。
「正面は赤が取る。お前たちは今は下がれ」
その判断は正しい。正しすぎる。
でも夕璃は、一歩も引けなかった。
「無理だ」
紅羽が振り返る。
「黒瀬」
「わたしと詩乃に反応してる」
夕璃は本体を見たまま言う。
「今引いても、たぶん向こうから来る」
その瞬間、花嫁の裂けた口がゆっくり開いた。
鐘の音。
今度は今まででいちばん低くて、深い。
耳じゃない。胸の奥へ落ちてくる音だった。
「っ……!」
全員の動きが一瞬だけ鈍る。
紫月の領域がすぐに広がる。白い光が足元を包んで、鐘の音を少しだけ押し返す。
「今なら、まだ!」
紫月の声は強かった。
でも、もう限界が近いのもわかる。
花嫁が腕を広げる。
そのベールの下から、白い残像がいくつも浮かび上がった。
花嫁の残像。
見た瞬間にわかる。
斬るな。
でも、斬らなきゃ押される。
「最悪……!」
夕璃が吐き捨てる。
残像が一斉に散る。
兵骸種も、その足元からまた湧くみたいに現れる。
戦場そのものを敵に変えてくる。
「赤、正面押す!」
朱里の声が飛ぶ。
その声だけで、空気が少しだけ前に揃った。
赤虹隊が前へ出る。
朱里の大剣が真正面の残像を割る。
でも割れた瞬間、周囲の空気が歪む。
やっぱり、斬るたびに何かが返ってくる。
「くそ……!」
朱里の声が少しだけ低くなる。
たぶん何か見せられたんだろう。
紅羽も前へ出る。
「琥珀、右! 紫月の範囲から出るな!」
「了解!」
琥珀は返事をして飛ぶ。
でも、やっぱり勢いが強い。
その背中を紫月の光が追う。
詩乃はまだ少しだけ呼吸が乱れていた。
夕璃は横目で見る。
「詩乃」
「……うん」
「見えてるか」
「見えてる」
「聞こえてるか」
詩乃は少しだけ笑った。
「すごく」
だめだ。
まだ危ない。
花嫁の声がまた落ちる。
「そのままで、いいのに」
詩乃の肩が震える。
夕璃は舌打ちした。
「紅羽! 詩乃、まだ危ない!」
「わかってる!」
紅羽が叫び返す。
でも紅羽は正面を押さえるので手いっぱいだ。
詩乃を見ながら花嫁本体も止めるなんて、さすがに無理がある。
だったら。
「詩乃、わたしの後ろ」
「無理」
即答だった。
それが余計にまずい。
「無理じゃない」
「今は前見てる方が楽」
その言葉で、夕璃の背中が冷えた。
楽。
やっぱり、そこに寄ってる。
花嫁の残像がまた一つ、詩乃の真正面へ現れる。
詩乃はそっちへ吸われるみたいに踏み出した。
「白峰!」
紅羽の怒声。
でも、今の詩乃には半歩届かない。
夕璃はもう動いていた。
詩乃の腕をつかむ。
細い。冷たい。力は入っているのに、芯だけどこか抜けてるみたいな感触だった。
「離して」
詩乃が言う。
声は静かだ。
静かすぎる。
「やだね」
夕璃は引かなかった。
「今のあんた、信用できない」
「ひど」
「ひどくていい」
詩乃の目が少しだけ細くなる。
「夕璃ちゃん」
「なに」
「わたし、今ならたぶん、すごく上手くやれるよ」
その一言は、思ったより重かった。
こわい。
でも、逃げる暇はない。
「知るか」
夕璃は言った。
「上手くやれても、そっち行くなら意味ない」
花嫁の鐘糸が一気に広がる。
床を這い、壁を登り、天井からも降ってくる。
空間そのものが狭まる。
透子が叫ぶ。
「鐘糸、来る!」
藍虹隊がすぐに足を止めて封じにかかる。
でも数が多い。
『第七、中央だけでいい! 全部取ろうとしないで!』
雫の声。
『本核がまた動く! 詩乃さん側に寄ってる!』
「やっぱり」
夕璃が歯を食いしばる。
核は詩乃を選んでいる。
それが最悪だった。
「紅羽!」
「聞こえてる!」
紅羽が兵骸を薙ぎ払いながら戻る。
でも、その途中で花嫁の本体が真正面から腕を振るった。
重い。
空気ごと叩き潰すみたいな一撃。
紅羽が槍で受ける。
床が割れる。
受けきった。けど、完全には止まらない。
「っ……!」
紅羽の足が下がる。
まずい。
正面が押される。
その瞬間、朱里が飛び込んだ。
「一条!」
大剣が花嫁の腕を下から弾く。
真正面をこじ開けるみたいな一撃。
「ここはこっちで持つ!」
朱里の声はまっすぐだった。
「そっちは詩乃さんを!」
紅羽が一瞬だけ迷って、でもうなずく。
「……任せます!」
赤虹隊と第七部隊の役割が、そこで完全に分かれた。
正面を赤。
中央の崩れかけを、第七が支える。
「紫月!」
夕璃が叫ぶ。
「詩乃に!」
「もうやってる!」
白い光が詩乃を包む。
でも、押し返しきれない。
花嫁の声が、やさしく、近く、何度も落ちる。
「もう、いいよ」
「楽になって」
「笑っていいよ」
「……っ」
詩乃の足がまた前へ出る。
夕璃はその肩をつかんだまま離さない。
でも、それだけじゃ足りない。
「琥珀!」
「うん!」
琥珀がすぐに来る。
詩乃の前へ立つ。
震えてる。
でも立つ。
「先輩、だめ」
琥珀の声は、泣きそうだった。
「行かないで」
詩乃の目が、ようやく少しだけ琥珀を見る。
「琥珀ちゃん」
「やだ」
琥珀が首を振る。
「そういう静かな顔、やだ。先輩それ、ぜんぜん楽しそうじゃないじゃん」
その言葉が、少しだけ詩乃を止める。
でもまだ足りない。
花嫁の本体が、ゆっくりこちらへ裂けた口を向ける。
その奥に、深い鐘核が見えた。
偽核じゃない。
本体。
でも近づけない。
『本核位置、胸部中央から上へ移動!』
雫の観測が飛ぶ。
『詩乃さんとの共鳴点に寄ってる!』
「そこ取れる!?」
夕璃が叫ぶ。
『取れるけど、近すぎる! 今の位置だと詩乃さんも巻く!』
最悪だ。
だったら、詩乃を引くしかない。
「詩乃!」
夕璃が真正面から呼ぶ。
詩乃の目が、少しだけこっちへ来る。
「帰ってこい!」
叫ぶ。
「今、あんたが見てるそれ、あんたの欲しいもんじゃない!」
「……わかってる」
詩乃の声がかすれる。
「わかってる、けど」
「けどじゃない!」
夕璃の声が、思ったより強く出た。
「向いてるとか楽とか、そんなのどうでもいいんだよ!」
喉が熱い。
でも止まらない。
「わたしが嫌なんだよ!」
詩乃の目が見開かれる。
「ここであんたがそっち行くの、わたしが嫌だ!」
戦場なのに。
敵がいるのに。
そんな、ほとんど感情そのままの言葉が出る。
でも、それでよかったのかもしれない。
詩乃の顔が、そこでようやく大きく揺れた。
花嫁の声が一瞬だけ遠のく。
紫月の光が、その隙間へ深く入る。
「詩乃ちゃん!」
紫月の声。
やわらかいのに、強い。
「戻ってきて。まだ、ここにいて」
そこへ琥珀が続く。
「先輩! 置いてくなって言ったじゃん!」
紅羽が一歩前へ出る。
「白峰」
短い。
でも、いちばんまっすぐな声だった。
「命令だ。戻れ」
詩乃の唇が震える。
次の瞬間、詩乃は自分の短刀を逆手に持ち替えて、そのまま自分の左腕へ浅く刃を入れた。
「っ!?」
琥珀が目を見開く。
夕璃も息をのむ。
でも、その痛みで詩乃の目が完全にこちらへ戻った。
「……まだ、わたしの方が痛い」
詩乃が、ひどくかすれた声で言う。
その言葉は、たぶん戻るための言葉だった。
花嫁の鐘糸が一気に暴れる。
共鳴を切られた反動だ。
「今だ!」
雫の声が飛ぶ。
『本核、露出! 今しかない!』
夕璃は詩乃の腕を離し、そのまま前へ出た。
紅羽も同時に動く。
琥珀は涙目のまま叫びながら拳を握る。
紫月は最後の力で領域を押し広げる。
そして赤虹隊の正面が、朱里の一撃で開いた。
「行って!」
その声に押されるみたいに、第七部隊が飛ぶ。
紅羽が槍で花嫁の上体を止める。
琥珀が右側の鐘糸を殴り飛ばす。
詩乃が戻った意識のまま、残像の死角を切り裂く。
紫月が全員の足元を繋ぎとめる。
夕璃だけが、本核を見る。
胸の中央。
裂けた口の下。
黒い鐘の中に、白い光みたいな核。
あれだ。
「借りる」
夕璃が低く言う。
長刀の刃が変わる。
深く。
でも、落ちすぎない。
今は空っぽにならない。
借り物でいい。
でも、決めるのは自分だ。
「これで終われ」
踏み込む。
花嫁の本体がこちらを見下ろす。
口が開く。
鐘の音が鳴る。
でも、もう遅い。
夕璃の刃が本核へ届く。
一撃。
まだ割れない。
ならもう一度。
残響を深く重ねる。
二撃目が遅れて走る。
朱里の一撃が正面から重なる。
紅羽の槍が核の下を押し上げる。
詩乃の刃が、最後に核の横を裂く。
ぱき、という乾いた音。
そして、喪鐘の花嫁の本核が砕けた。
次の瞬間、地下街全体から鐘の音が消えた。
静かになる。
ほんとうに、一瞬だけ。
その静けさの中で、ベールが崩れた。
花嫁の衣装みたいだった外殻が、薄い記憶片になって落ちてくる。
光のない写真。
古い招待状。
誰かの祈りの文字。
泣き笑いみたいな、知らない顔。
そして最後に、花嫁の顔らしきものが一瞬だけ完成して、すぐに崩れた。
戦場は終わった。
少なくとも、この一戦は。
夕璃はそこでようやく膝をつきそうになるのをこらえた。
息が荒い。
腕が重い。
頭も少し痛い。
でも、まだ立っている。
「……終わった?」
琥珀が、泣きそうな声で聞く。
紅羽が息を整えながら答える。
「たぶん、今は」
詩乃はその場に立ったまま、少しだけ震えていた。
でも、目はちゃんとこちらにある。
戻った。
完全じゃないかもしれない。
でも、消えてはいない。
それだけで十分だった。
通信が入る。
今度の声は御門だった。
『深部反応、急速に減衰。だが、消えていない』
最悪だな、と思う。
『本核は砕けたが、さらに深い下層に連結元がある可能性が高い』
やっぱり、これで終わりじゃない。
でも、戦いとしては十分だ。
「……あとでにして」
夕璃が小さく言うと、通信の向こうで少しだけ間があった。
御門は何も返さなかった。
代わりに、綾瀬の声が入る。
『全隊、撤収。今すぐ戻って』
その声音には珍しく、有無を言わせない強さがあった。
赤も、青も、黄も、緑も、藍も、もう限界が近いんだろう。
第七部隊は、その場でようやく少しだけ息をついた。
でも、その呼吸の中に、完全な勝利の軽さはなかった。
勝った。
でも、壊れかけた。
そして、世界の傷口はまだ奥にある。
それが、全員わかってしまっていたから。
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