「行くな・・・」
深部侵入の朝は、静かだった。
昨日の夜、あれだけ人がいた共有スペースが、今はもう整えられていて、布団も片づいていて、紫棟はいつもの朝みたいな顔をしている。
しているだけだ。
中身はぜんぜん違う。
夕璃は窓際に立って、外の薄い朝日を見ていた。眠れたかと聞かれたら、たぶん半分くらい。寝たような寝てないような、あんまりよくない睡眠だった。
でも、それはたぶん全員同じだろうと思う。
「おはよう」
後ろから紫月の声。
振り返ると、少しだけ眠そうな顔で立っていた。昨日より顔色は悪くない。でも、万全でもない。
「おはよう」
「眠れた?」
「半分くらい」
「便利だね」
「最近ほんとそればっかだな」
紫月は少しだけ笑った。
その笑い方が見られただけで、少しだけ呼吸がしやすくなる。
共有スペースにはもう他の面子もいた。
琥珀は朝なのに妙に静かで、ソファに座って自分の膝を見ている。
紅羽は端末で任務ルートを確認している。
詩乃は窓の反対側、壁にもたれていた。
雫までいる。
「青の副隊長が普通に紫棟にいる光景、だいぶ変だな」
夕璃が言うと、雫は真顔で返した。
「わたしもそう思う」
「自覚あるんだ」
「あるよ」
それだけ言って、また端末へ視線を落とす。
本当にこの人は、いるだけで空気が少し冷える。
でも今朝は、その冷たさが妙にありがたかった。
詩乃は昨日の夜のあと、一応眠った。
途中で何度か目を覚ましたらしいけど、完全に崩れることはなかった。
それだけで今は十分だ。
「……詩乃」
夕璃が呼ぶ。
詩乃が顔を上げる。
「ん?」
「だいじょうぶ?」
自分で言って、ずいぶん雑な質問だなと思う。
だいじょうぶじゃないのは見ればわかる。
でも、だからって他にいい聞き方も見つからなかった。
詩乃は少しだけ目を細めて、それから笑う。
「大丈夫、とは言わないよ」
「そこは正直なんだ」
「昨日そういう話したし」
そうだった。
無理に強く見せなくていい、みたいな話をしたのは、たしか夕璃の方だ。
「でも、行ける」
詩乃はそう続けた。
「昨日よりは、ちゃんと自分の足元見えてる」
その言い方が、少しだけ安心になる。
少しだけだけど。
「それでも、危なかったら止める」
紅羽が言う。
視線は端末のまま。でも、その声には迷いがなかった。
「止めてね」
詩乃も軽く返す。
「昨日みたいに、一人で変なとこ行かないでよ」
琥珀がぼそっと言う。
詩乃は琥珀を見る。
「ごめん」
「謝るのはいいけど、次はやめて」
「うん」
その短いやり取りのあと、共有スペースの空気が少しだけやわらいだ。
それでも完全にはほどけない。
今日は深部に入る。
それが全部の真ん中にある。
端末が鳴る。
【深部侵入部隊、〇八三〇、外縁第一ゲート】
全員が一斉に立ち上がった。
準備そのものは早かった。
こういうときの第七部隊は、なんだかんだ動きが速い。
余計な会話をしないぶん、今日はなおさらだった。
発進ゲート前には、もう各隊が揃っていた。
赤、青、黄、緑、藍、紫。
見慣れた顔が全部ある。
でも、空気が重い。
誰も軽口を叩いていないわけじゃない。
透子は透子で飄々としてるし、爛は爛で遠くから琥珀に手を振ってる。
奏もやわらかい顔をしている。
でも、その下にあるものが違う。
みんな、深部がただの強敵じゃないって知っている。
そこが嫌だった。
「第七、配置確認」
霧島が短く言う。
「黒瀬、白峰の右。一条、左。九条は前に出るなじゃなく、前に出る線を固定。皇は深部手前まで同行。薬師寺は皇補助。藍沢は外縁観測から深部入口までの視線維持」
「仕事多いな」
夕璃がぼそっと言う。
「いつもだろ」
霧島が返した。
それはそうだ。
紫月は隣で小さく息を吐いた。
深部手前まで、という制限はやっぱり少し苦しいんだろう。
でも、反論はしない。
昨日の夜、みんなで決めたことだから。
朱里が赤虹隊の前に立つ。
「正面はこっちで押さえる。そっちは中を見て」
短い。
でも、その短さの中にちゃんと信頼がある。
紅羽がうなずく。
「はい」
千晴は黄虹隊へ指示を飛ばしながら、第七へだけ一言落とした。
「迷ったら、先に声を出せ」
それもまた、短い。
でも重い。
奏は紫月に近づいて、小さく浄化パッチを握らせた。
「やばいと思う前に使ってね」
「うん」
「我慢してからだと遅いから」
「それ、夕璃ちゃんにも言って」
「聞いてる」
夕璃が横から言う。
奏は少しだけ笑った。
「ならよかった」
そのやり取りだけで、ほんの少しだけ気持ちが軽くなる。
そして、深部侵入が始まった。
旧第十三市街地下の奥は、やっぱり空気が違った。
通路が広い。
広いのに圧がある。
何かが奥からずっと見ているみたいに、空気そのものがうっすら張っている。
前方を藍虹隊。
その少し後ろに第七部隊。
さらに後ろ寄りに紫月と実乃里。
外の観測から雫が通信でルートを拾っている。
『左分岐は死んでる。右のエスカレーター跡から下へ』
雫の声が耳へ届く。
「死んでるって表現どうなんだよ」
夕璃が小さく言う。
『今さらそこ気にする?』
「少しはする」
『嘘』
その返しのあと、少しだけ通信が途切れた。
深部に入るほど、外との線が細くなる。
それもまた嫌だ。
壊れた地下街が見えてくる。
止まったエスカレーター。
割れたショーケース。
倒れたマネキン。
もう文字も読めない広告パネル。
死んだ街の内臓みたいな場所だと思った。
「……気持ちわる」
琥珀が言う。
「わかる」
夕璃が返す。
そのとき、詩乃の足がほんの少しだけ止まった。
夕璃はすぐ気づく。
「詩乃」
「うん」
「何か見える?」
詩乃は前を見たまま、小さく答える。
「見えるっていうか……聞こえる」
やっぱりか。
紅羽の声が低くなる。
「どんな」
「遠くで、歌ってるみたいな」
その言い方がかなり嫌だった。
鐘じゃない。
歌。
もっと人に近い。
澪那が前方で立ち止まり、手を上げる。
「来る」
その一言と同時に、地下街の暗がりが動いた。
ベール状の断片が三つ。
兵骸種が四。
そして、その奥。
喪鐘の花嫁の断片より、もっと大きい何かが、ゆっくり立っていた。
遠い。
でも見える。
花嫁衣装みたいな輪郭。
長い髪。
顔のない女。
「……いた」
夕璃が小さく言う。
頭の奥がざわつく。
あれは断片じゃない。
もっと深い。
喪鐘の花嫁、その本体に近い何か。
『深部中央反応、確認。全隊、注意』
雫の声が通信に落ちる。
『それ、今までの断片より濃い。かなり近い』
近い、という言い方だけで十分だった。
紅羽が槍を構える。
「第七、前に出る」
「了解」
夕璃が返す。
詩乃も頷いた。
でもその頷きが、ほんの少しだけ遅い。
まずい、と思う。
でも待ってくれない。
戦闘は一気に始まった。
藍虹隊が左右の兵骸種を止める。
紅羽が正面から前へ出る。
琥珀は定めた線のぎりぎりで止まりながら殴る。
紫月が後ろから静謐領域をじわっと広げる。
夕璃は中央へ踏み込んだ。
花嫁の断片が、こちらを見た。
見た、でいいのかわからない。
顔はない。
でも、見られているとわかる。
次の瞬間、頭の中に声が落ちた。
「おそい」
また、それ。
夕璃は歯を食いしばる。
「知るかよ」
長刀を振るう。
断片のベールを裂く。
けど浅い。
切れたところから、また別の薄い膜が広がる。
「核は!」
夕璃が叫ぶ。
「まだ見えない!」
詩乃の返事。
その声に少しだけ焦りが混ざっていた。
焦ってる。
それだけならまだいい。
問題は、その次だ。
花嫁の断片が、詩乃の方を向いた。
空気が変わる。
鐘の音じゃない。
もっとやわらかい、低い声。
「やっと来た」
詩乃の肩がぴくっと跳ねる。
まずい。
「詩乃!」
夕璃が呼ぶ。
詩乃は一瞬だけ返事をしなかった。
目が、前じゃなく奥を見ていた。
敵じゃない。
もっと遠く。
もっと危ない方。
紅羽がそちらへ視線を飛ばす。
「白峰!」
その声で、詩乃はようやく動いた。
でも、戻るじゃなく、前へ出た。
夕璃の背中が冷える。
それは戦闘の踏み込みじゃない。
引っ張られた足だ。
「行くな!」
夕璃が叫ぶ。
でも詩乃は止まらない。
花嫁の断片が腕を広げる。
その向こうに、知らない光景がにじむ。
結婚式場みたいな白い空間。
長い通路。
遠くで笑う女の影。
気持ち悪い。
「白峰!」
紅羽が詩乃へ向かおうとする。
その前を兵骸種が塞ぐ。
夕璃は舌打ちした。
間に合わない。
そう思った瞬間、紫月の領域が一段深くなる。
白い光が、詩乃の足元まで伸びた。
「詩乃ちゃん、戻って!」
紫月の声。
それはやさしいのに、芯が強かった。
詩乃の足が、ほんの少しだけ止まる。
その一瞬を、夕璃は逃がさなかった。
前へ飛ぶ。
長刀を引きずるみたいに低く構えて、そのまま詩乃と花嫁の間へ割り込む。
断片の腕が来る。
刃で受ける。
頭の中が揺れる。
でも離さない。
「詩乃」
振り向かないまま、夕璃が言う。
「見ろ」
詩乃の呼吸が後ろで揺れる。
「今見てるの、ほんとに楽な方か?」
返事はない。
でも、聞いているのはわかる。
花嫁の断片が、夕璃の方へ顔を寄せてくる。
裂けた口が、笑うみたいに開く。
「じゃま」
「だろうな」
夕璃は吐き捨てる。
そして、そのままもう一度だけ叫ぶ。
「行くな、詩乃!」
今度は、ちゃんと振り返った。
詩乃の目が、夕璃を見る。
その目の中に、さっきまでとは違う揺れがある。
夕璃はまっすぐ言った。
「そっちは楽でも、あんたが消える」
時間が止まったみたいだった。
戦場なのに。
敵もいるのに。
紅羽の槍も、琥珀の拳も、紫月の光も、全部が少しだけ遠くなる。
詩乃の顔が、そこでやっと崩れた。
「……っ」
何か言いかけて、詩乃は唇を噛む。
その瞬間、花嫁の断片が一気に揺れた。
干渉が切れかけたんだとわかる。
「今だ!」
紅羽が吠える。
琥珀が飛ぶ。
「おおぉぉっ!」
拳が断片の右側を砕く。
紅羽の槍が正面を貫く。
藍虹隊の刃が残りの兵骸を抑える。
紫月の光が詩乃をこちら側へ引く。
夕璃は長刀を握り直した。
花嫁の断片の胸元。
偽の鐘核。
その奥に、本核じゃない、でも繋がっている芯が見える。
「借りる」
低くつぶやいて、夕璃は斬った。
一撃。
残響。
二撃目が遅れて走る。
断片が裂ける。
ベールが崩れる。
でも、その向こうから、もっと深い鐘の音が鳴った。
ぶつん、と。
世界の奥で何かが目を開けるみたいな音。
『まずい、深部中心反応がさらに増大!』
雫の声が飛ぶ。
『それ、本体層に繋がった!』
夕璃は息をのむ。
断片を壊したのに終わらない。
むしろ、もっと奥の本体が顔を出した。
地下街のさらに向こう、暗い吹き抜けの先で、巨大な白い輪郭がゆっくり立ち上がる。
ベール。
鐘糸。
花嫁衣装。
でも今度は断片じゃない。
喪鐘の花嫁、その本体。
全員が一瞬、動きを止めた。
その静止の中で、花嫁の声だけが静かに落ちる。
「やっと、揃った」
その声を聞いた瞬間、詩乃の肩がまた震えた。
夕璃は振り返る。
詩乃は今度こそ戻っていた。
でも、完全じゃない。
呼吸が浅い。
目の奥に、まだ危ない光が少しだけ残っている。
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