「壊れる方が、楽なときもある」
白暁院の旧観測棟は、今はほとんど使われていない。
現役の観測設備は新棟に集約されていて、こっちは予備設備と古い記録庫が残ってるだけ……という話を、夕璃は前に雫から聞いた気がする。
だから、夜のそこは静かだった。
静かで、暗くて、嫌な感じがした。
「なんでこういうとこ、だいたい旧棟なんだろ」
走りながら夕璃が言う。
「新しくて明るい場所に、わざわざ危ないことしに行く人は少ないからじゃない?」
雫が横で返す。
「妙に納得するな」
紅羽は無言だった。
階段を上がる足音が硬い。急いでる。かなり。
旧観測棟の入口は施錠されていたけど、雫が端末でこじ開けた。こういうときの青虹隊はほんと便利だなと思う。普段は言わないけど。
中に入る。
埃っぽい匂い。電源の落ちた端末列。薄暗い廊下。古い蛍光灯が何本かだけ生きていて、白くて冷たい光を落としている。
「反応、上」
雫が短く言う。
三階。
階段を上がる。途中で、夕璃の耳の奥が少しだけざわついた。
いやな感じだ。
旧第十三市街のときと少し似てる。
詩乃が一人。
静かな場所。
危ない方へ寄る空気。
「詩乃!」
夕璃が呼ぶ。
返事はない。
三階の廊下はさらに暗かった。奥の観測室だけ、扉の隙間から薄く灯りが漏れている。
そこにいる。
そうわかるくらいには、空気が違った。
紅羽が先に行こうとしたのを、夕璃が軽く腕で止める。
「待って」
「なぜ」
「今、いきなり強く入るとだめな気がする」
勘だった。
でも、たぶん当たる。
雫も小さくうなずいた。
「同意。波形、まだ揺れてるけど壊れてない。刺激が強いと逆に振れる」
夕璃は観測室の扉へ手をかける。
ゆっくり開けた。
詩乃は、窓際に立っていた。
観測室の大きなガラスの向こうに夜の学園が見える。暗い校舎、外壁の警戒灯、遠くの白暁院の明かり。その前に、詩乃がひとり立っている。
振り返らない。
「……詩乃」
夕璃が呼ぶ。
少し遅れて、詩乃が顔だけこちらへ向けた。
表情はない。
いや、正確には、静かすぎる。
「来ると思った」
声はやわらかかった。
でも、体温が少し足りない。
紅羽が一歩前へ出る。
「戻るぞ」
「紅羽先輩、それだと犬みたい」
詩乃が小さく笑う。
その笑い方が、夕璃の背中を少し冷やした。
「戻るよ」
詩乃は続ける。
「でも、少しだけ考えてた」
「何を」
雫が聞く。
詩乃は窓の外を見た。
「もし、楽な方へ行ったらどうなるんだろって」
真正面から来た。
夕璃は息を詰める。
「楽な方って」
紅羽の声が低い。
「宵待隊長が言ってた方」
詩乃は淡々としていた。
「向いてることを、そのまま使う方」
旧観測室の静けさの中で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえる。
雫が少しだけ顔をしかめた。
「それ、考えて答え出す種類の話じゃない」
「そうかな」
詩乃は首をかしげる。
「だって、今日わたし、会議で言っちゃったし」
向いてるのはわかってる。
でも、それでいいとは思ってない。
さっきの言葉だ。
「言ったあと、ちょっとだけ楽になったんだよね」
その言い方が、まずい。
夕璃は一歩前へ出る。
「詩乃」
「うん」
「今、何が聞こえてる」
詩乃の目が少しだけ細くなる。
紅羽と雫が、こっちを見る。
たぶん今の問いで、夕璃がなにを見ているか伝わった。
詩乃は少しだけ黙ってから答えた。
「声」
やっぱり。
「どんな」
「やさしい声」
その答えに、夕璃は奥歯を噛んだ。
最悪だ。
こういうのは、きつい声の方がまだましだ。やさしい声で沈めてくる方がずっと危ない。
「なんて言ってる」
夕璃が聞く。
詩乃は笑ってない顔で、静かに言った。
「“もう頑張らなくていいよ”って」
部屋の空気が少しだけ変わる。
紅羽の肩が強張る。雫の視線が鋭くなる。
でも、誰もすぐには詰めなかった。
夕璃だけが一歩、また一歩と近づく。
「それ、お前の声じゃないだろ」
「うん」
「じゃあ聞くなよ」
「聞かないようにしてる」
詩乃は言う。
「でも、ちょっとだけ、そうだったらいいなって思っちゃう」
そこまで言って、詩乃はようやく少しだけ苦しそうに笑った。
「ね。やばいでしょ」
その一言で、夕璃の中の何かが決まる。
詩乃は今、落ちてない。
でも、落ちる手前にいる。
だから、ここで届かなきゃだめだ。
「やばいよ」
夕璃は言った。
詩乃が目を上げる。
「かなり」
夕璃はもうごまかさなかった。
「でも、そこで納得するな」
「してないよ」
「してる」
少しだけ声が強くなる。
「楽な方がいいって、一瞬でも頷いてる時点で、もうそっちに足かけてる」
詩乃の表情が、少しだけ揺れる。
紅羽も、雫も、黙っていた。
夕璃に任せている空気だった。
「詩乃」
夕璃はまっすぐ言う。
「向いてることと、行っていい場所は違う」
「さっきも聞いた」
「何回でも言う」
「しつこいなあ」
「しつこくする。今は」
詩乃は少しだけ目を伏せる。
「でも、夕璃ちゃん」
「なに」
「疲れるよ」
その言い方がやけに静かで、逆に刺さる。
「嫌だって思って、でも向いてて、役に立てて、だったら、もういっそ……って思うの、すごく疲れる」
そこまで言って、詩乃は窓ガラスへ手をついた。
「誰かが“もういいよ”って言ってくれたら、ちょっとだけ、そっちに行きたくなる」
紅羽が何か言おうとして、でも止まった。
たぶん、正しい言葉を選ぼうとしたんだろう。
でも今は、それだと遅い。
夕璃は詩乃のすぐ前まで行く。
「じゃあわたしが言う」
詩乃が顔を上げる。
「まだ、いいよ、じゃない」
はっきり言う。
「だめだよ」
詩乃の目がわずかに見開かれる。
「今、そっち行くの、だめ」
夕璃は続ける。
「楽でも、だめだ。向いてても、だめだ」
喉の奥が少し熱い。
でも、止まらない。
「行くな、詩乃」
そこでようやく、詩乃の顔がほんの少し崩れた。
「そっちは楽でも、あんたが消える」
静かな観測室に、その言葉だけが落ちる。
紅羽も、雫も、何も言わない。
詩乃はしばらく動かなかった。
窓ガラスに触れたまま、息だけが少しずつ浅くなっていく。
やがて、ほんの少しだけ首を振った。
「……わかってる」
小さい声だった。
でも、それはさっきまでの静かな諦めの声じゃなかった。
「わかってるから、嫌なんだって」
詩乃のまつげが震える。
「わかってるのに、楽な方見ちゃうのが、いちばんやなんだよ」
その瞬間、夕璃はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
まだ戻れる。
完全には落ちていない。
雫がそこで静かに息を吐く。
紅羽も一歩だけ前へ出る。
「戻るぞ」
今度の言い方は、さっきより少しだけやわらかかった。
詩乃は少しだけ笑う。
「紅羽先輩、それしか言わないね」
「それで十分だ」
「まあ、そうかも」
詩乃は窓から手を離した。
その瞬間、観測室の端に置かれていた古いモニターが、ぶつっと音を立てて点いた。
全員がそっちを見る。
誰も触っていない。
画面には砂嵐。
その中に、ひとつだけ映るものがある。
白いベール。
長い髪。
顔のない花嫁。
「……っ」
詩乃の呼吸が止まりかける。
夕璃も一瞬だけ目を見開いた。
喪鐘の花嫁。
映像じゃない。記録でもない。
たぶん、向こう側から“見せてきた”。
砂嵐の向こうで、花嫁の顔の裂け目がゆっくり開く。
鐘の音はない。
でも声は落ちた。
「やっと、笑える顔になってきたのに」
詩乃の肩が震える。
次の瞬間、雫が前へ出て端末を叩き込んだ。モニターが一気にブラックアウトする。
ぶつん、という乱暴な音。
部屋が静かになる。
「……最悪」
雫が低く言った。
珍しく、完全に感情が出ていた。
紅羽はすぐに詩乃の前へ立つ。
「聞くな」
短い。
でも、強い。
詩乃は何も言えなかった。
夕璃も、少しだけ呼吸を整えるのに時間がかかった。
今のはまずい。
深部侵入前夜に、向こうから直接触ってきた。
つまり、もう気づかれている。
いや、最初から知っていたのかもしれない。
詩乃だけじゃない。第七部隊そのものが、あの敵に見つかっている。
「綾瀬に報告」
雫が言う。
「今すぐ」
「待て」
紅羽が止める。
「報告はする。だが、詩乃を隔離する話になると」
「なるよ」
雫が切る。
「今のを見て、ならない方がおかしい」
その正しさが、今はいちばん厄介だった。
夕璃はすぐに言う。
「隔離はだめだ」
「なんで」
雫がこっちを見る。
「今ここで一人にしたら、もっと危ない」
夕璃は答える。
「繋がりを切るんじゃなくて、逆だ。明日までは視界に置く」
紅羽が短くうなずく。
「同意する」
雫は少しだけ顔をしかめた。
でも、完全には否定しない。
たぶんわかっているんだ。詩乃が今いちばん危ないのは、敵の干渉そのものより、“自分一人で抱えようとすること”だと。
詩乃はそこまでずっと黙っていた。
やがて、小さく言う。
「……ごめん」
琥珀がいたらたぶんすぐ「謝るな!」って言ってただろうな、と思う。
でも今ここにいる三人は、そういう元気な役回りではない。
だから、夕璃が言う。
「謝るのは明日終わってからにしろ」
詩乃が顔を上げる。
「終わったら、いくらでも聞く」
「重いなあ」
詩乃は少しだけ笑った。
その笑い方は、ようやく人っぽかった。
紅羽が言う。
「今夜は一人にしない」
「え」
「部屋替えだ。紫棟の共有スペースか、誰かの部屋で寝ろ」
「犬猫みたいに言わないでよ」
「そう聞こえるなら、お前にまだ余裕がある証拠だ」
その返しはちょっとだけ上手いなと思った。
雫がため息をつく。
「……私も付き添う」
「青虹隊なのに?」
夕璃が聞く。
「だから何」
「いや、ちょっと意外」
「わたしも見たから」
雫は古いモニターの黒い画面を見た。
「今の、記録じゃない。向こうからこっち見てた」
その認識は、たぶん全員一致している。
「だったら、ここからは青も当事者」
言い切った。
強いなと思う。
でも、少しだけありがたかった。
結局その夜、詩乃は紫棟の共有スペースに布団を持ち込まれて寝ることになった。
紫月と琥珀も叩き起こされて、状況だけ共有された。
琥珀は最初「は!?」ってかなり大きい声を出したし、紫月は顔を青くした。
でもそのあと、二人とも何も言わずに布団を並べた。
そういうとこだよな、この部隊は。
雑で、まとまってなくて、うるさい。
でも、こういうときだけ変に揃う。
深夜の共有スペース。
照明は落として、スタンドだけがついている。
詩乃はソファ横の布団。
琥珀はその隣。
紫月は逆側。
紅羽は壁際で腕を組んで座ったまま。
夕璃は窓際の床に背を預ける。
雫まで来ていて、端末を見ながら静かに座っていた。
「なんか修学旅行みたい」
琥珀が小声で言った。
「最悪の修学旅行だな」
夕璃が返す。
「ほんとにね」
詩乃が笑う。
でも、その声はさっきよりちゃんと温度が戻っていた。
それだけで、今夜はじゅうぶんだと思う。
紫月が布団をかぶりながら言う。
「じゃあ、明日はみんなで行って、みんなで戻ろうね」
「軽く言うなあ」
紅羽が言う。
「軽く言ってるつもりはないよ」
紫月は静かに笑った。
「大事なことは、ちゃんと言った方がいいでしょ」
誰も否定しなかった。
その言葉だけは、ちゃんと部屋の真ん中に残る。
夕璃は窓の外を見る。
夜は深い。
旧第十三市街のことを考えると、まだ眠れそうにない。
でも、今夜の詩乃は一人じゃない。
それだけで少しだけ、最悪度は下がる気がした。
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