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終わりの世界で輝く・・・彼女たちの残滓  作者: きなこもち
第2章

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20/38

「助けられなかった」



 合同大規模任務のブリーフィングは、夕方に始まって夜に終わった。


 長い。


 説明が長いっていう意味でも長いし、内容が重いって意味でも長い。


 旧第十三市街に隣接する封鎖区画、その地下輸送路。そこへ溜まった異常反応を削り、避難連絡路を開ける。

 赤虹隊が正面制圧。

 青虹隊が観測と遠距離制圧。

 藍虹隊が封鎖解除と潜入。

 黄虹隊が避難線と住民誘導。

 緑虹隊が補給と医療支援。

 紫虹隊は内部での不測対応。


 不測対応。


 便利な言葉だなと思う。


 要するに、何が飛んできても文句言わずにやれ、ってことだ。


「ほんとに便利屋だね、うち」


 準備室で武装端子を確認しながら、琥珀が言った。


「今さらだろ」


 夕璃が返す。


「でももっと言い方あるじゃん。不測対応って。なんかこう……かっこいい感じにさ」


「それ、じゅうぶんそれっぽく盛ってる方だと思う」


 紫月がやわらかく言った。


「え、そう?」


「“危ないとこ全部よろしく”の丁寧な言い換えだよ」


 詩乃がさらっと足す。


「うわ、急にやだ」


 琥珀が顔をしかめた。


「今ので一気に行きたくなくなった」


「だったら行く前に騒ぐな。手元狂う」


 紅羽が装備ベルトを締めながら言う。


 いつも通りきっちりしている。きっちりしているけど、昨日より少しだけ空気が硬い。たぶん会議のあとからずっとそうだ。


「紅羽先輩、今日ずっと顔こわい」


 琥珀が言う。


「いつも通りだ」


「いや二割増し」


「九条」


「すみません」


 反射で謝るのが早い。


 でも、そのあとで琥珀は小さくつぶやいた。


「……みんなちょっとやだなって思ってるから、しょうがなくない?」


 その一言に、誰もすぐには返さなかった。


 やだな、と思っている。


 たぶん全員そうだった。


 言葉にすると変に軽くなるけど、本質はたしかにそこにある。


 旧第十三市街の隣。地下輸送路。記憶干渉。深部反応。喪鐘の花嫁の断片とされる敵。

 行きたいと思える要素が、ひとつもない。


 でも行く。


 その現実だけがある。


 準備室の扉が開いて、薬師寺実乃里が顔を出した。


「第七のみなさん、そろそろ移動です」


「はーい」


 紫月が返す。


 実乃里は緑虹隊の補助らしく、両手いっぱいに薬剤ケースを抱えていた。明るい子だ。けど、さすがに今日はその明るさも少しだけ抑えている。


「奏さんから、無理する人は先に名乗り出ろって」


「じゃあ全員だな」


 夕璃が言う。


「え、冗談じゃなく?」


 実乃里が目を丸くした。


「半分くらいは」


「半分で済んでない気がする……」


 それはたぶん合っている。


 移動中、廊下の窓から外を見ると、夜の外壁向こうに薄い赤い警報灯が点いていた。点いて、消えて、また点く。心臓みたいで嫌だなと思う。


 発進ゲート前には、もう各部隊が並んでいた。


 赤虹隊。黄虹隊。緑虹隊。青虹隊。藍虹隊。


 そして第七部隊。


 こうして全部揃うと、ほんとに総力戦っぽく見える。


 でもその中でも、第七部隊だけはちょっと浮いていた。色のせいだけじゃない。まとまり方の雑さが、遠くからでも見える。


 赤は綺麗だ。

 青は冷たい。

 黄は堅い。

 緑はやわらかい。

 藍は静か。

 紫は……なんだろうな、と夕璃は思う。


 危ない寄せ集め。

 それでも、たぶん必要なやつら。


「黒瀬さん」


 前方から朱里が来た。


 相変わらず、こういう場所で立つだけで目立つ。別に光っているわけでもないのに、そう見える。


「一条さんも」


「天童先輩」


 紅羽の声が少しだけ硬くなる。


 朱里はその二人を見て、ほんの少しだけ笑った。


「今日は正面で道を作る。そっちは中に入って」


「はい」


「で、戻ってきて」


「急にざっくりだな」


 夕璃が言うと、朱里は少しだけ肩をすくめた。


「細かいことはもう聞いてるでしょ」


「まあ」


「だったら、残りはそれでいいかなって」


 言い方がずるい。


 重くしすぎない。でも軽く流しもしない。そういうところが、この人の強さなんだろう。


「朱里隊長ー!」


 琥珀が横から手を上げた。


「なんで元気なの、すごくない?」


「元気に見える?」


「見える」


「見せてるだけかも」


 朱里はそう言って笑う。


 その笑い方が、ちょっとだけ昨日より薄く見えた。


 やっぱり誰だって平気じゃないんだなと思う。


 青虹隊の高所支援班が動き始める。雫もそこにいた。観測器を連れて、外壁上のルートへ向かうところだった。


 一瞬だけ目が合う。


 雫は何も言わない。ただ、少しだけ顎を引いた。


 戻ってこい、くらいの意味だろうな、と夕璃は勝手に解釈した。


 発進ゲートが開く。


 夜の封鎖区画の空気が流れ込んでくる。冷たい。乾いている。けど、どこか湿っている感じもする。地下へ続く任務の匂いだ。


「第七、行くぞ」


 紅羽が言う。


 その声は低いけど、通る。


 夕璃は一歩前へ出た。


「全員、通信は切るな。見えなくても返事はしろ。勝手に前行くな。止まれって言われたら止まれ」


「最後だけ琥珀ちゃんに向けてる?」


 詩乃が言う。


「全員にだよ」


「でも八割くらいあたしだよね?」


 琥珀が言う。


「九割だ」


 紅羽が即答した。


「ひど!」


 でも、そのやり取りがあったおかげで、少しだけ呼吸が楽になった。


 発進。


 最初の移動は速かった。


 旧第十三市街に隣接する封鎖区画、その地下輸送路の入口まで、赤虹隊が正面の敵を押さえ、黄虹隊が避難線を作り、緑虹隊が後ろを固める。


 第七部隊はその隙間を抜けて、藍虹隊と一緒に地下へ入る。


 地下輸送路は広い。トラック搬入も想定されたのか、通路そのものがでかい。でかいくせに、天井が低く感じる。たぶん暗いからだ。照明の半分以上が落ちていて、生きてるのは非常灯みたいな薄い光だけ。


 壁には古い路線図と物流案内。


【北物流ターミナル】

【連絡避難路】

【地下搬出区画】


 どれも読めるのに、もう使われてない感じがつらい。


「右、聞こえる?」


 夕璃が通信で言う。


『聞こえる』


 紅羽。


『聞こえるよ』


 詩乃。


『聞こえる!』


 琥珀。


『はい、大丈夫です』


 実乃里。


 それで少しだけ安心する。


 前方の藍虹隊が止まった。


 澪那の手が上がる。


「反応、前方左分岐」


「数は?」


 紅羽が聞く。


 透子が端末を見る。


「五。兵骸三、人形型二」


「人形型、もういるんだ」


 琥珀が嫌そうに言う。


「いやな顔するね」


 詩乃が言う。


「だってあいつら気持ち悪いもん!」


「それはそう」


 夕璃も言う。


 藍虹隊が左へ回る。


 ここは共同だ。第七も続く。


 曲がった先の通路で、敵が待っていた。


 兵骸種はいつも通り気持ち悪い。問題はその奥の人形型残滓だ。夜の旧市街で見たやつに近い。でも二体とも少し違う。片方は女型、もう片方は子どもみたいに小さい。


「……やめろよ」


 思わず夕璃がつぶやく。


 その形はずるい。


 そういうのを混ぜるな。


 人形型がこちらを向く。


 次の瞬間、頭の中で知らない声が弾けた。


「たすけて」


「っ」


 足が一瞬止まりそうになる。


 でも今度は昨日より早く戻れた。


「詩乃、左の小さい方!」


「了解」


「紅羽、兵骸押さえて!」


「任せろ!」


「琥珀、突っ込むな!」


「毎回それ言うじゃん!」


「毎回言わないと怖いからだよ!」


「ひどくない!?」


 言いながらも、琥珀はちゃんと止まった。


 そこは偉い。


 戦闘は短かった。


 藍虹隊が兵骸種の足を止め、第七部隊が人形型を落とす。核位置はやっぱり不安定だったけど、詩乃の視界と夕璃の勘が噛み合えば十分取れる。


 嫌なのは、そのたびに頭へ差し込んでくる知らない声だ。


 たすけて。

 おいていかないで。

 こっちみて。


 知らない。知らない。知らない。


 そう思うほど、逆にまとわりつく。


「黒瀬!」


 紅羽の声で、夕璃ははっとした。


 目の前の人形型が腕を伸ばしている。危ない。避ける。ぎりぎりでかわす。視界の横を黒い糸が抜けて、壁をじわっと汚した。


「ぼーっとするな!」


「してない!」


「してた!」


 返しながら、夕璃は核へ長刀を突き込んだ。


 残響。


 核が割れる。


 人形型が崩れる。


 そしてまた、少しだけ頭が重くなる。


 嫌な積み方だなと思う。


 短い戦闘が終わり、部隊はさらに奥へ進んだ。


 そこまでは、まだ想定内だった。


 本当にまずかったのは、その次だった。


 避難連絡路に入ったところで、黄虹隊から通信が入る。


『避難民ライン、動いてます。第七、右ルート先の小ホールで住民二十七名を確認』


 千晴の声だった。


『だが、出口手前で兵骸種群に足を止められている。赤は別ライン対応中。そちらが近い』


 それを聞いた瞬間、全員の空気が切り替わる。


 戦闘だけじゃない。


 住民が絡む。


「位置!」


 紅羽が言う。


 すぐに地図が共有される。右ルート先、小ホール。出口まであと一本の通路。そこを敵に塞がれてる。


「行ける」


 夕璃が言う。


「第七、分離する。藍はそのまま進め」


 澪那がうなずく。


「五分だけ待つ。戻らなければ先へ行く」


「薄情」


 琥珀が言う。


「現実的」


 透子が返した。


 それで十分だった。


 第七部隊は右ルートへ走る。


 通路の先、小ホールは本来、待避や荷物集積に使う場所だったらしい。広い。けど今は、人と敵と恐怖でいっぱいだった。


 住民が二十人以上、壁際に固まっている。子どももいる。泣いてる声も聞こえる。

 その手前を、兵骸種が五体。

 さらに、その奥の通路の天井近くに、黒いベールみたいなものが一瞬だけ揺れた。


 喪鐘の花嫁の断片。


「っ……!」


 紫月のいない今、その気配だけで少しだけ頭がざわつく。


 夕璃は息を吐く。


「紅羽、正面! 琥珀、右の兵骸だけ見ろ! 詩乃、奥のベール探れ! 実乃里、住民側へ!」


「了解!」


 全員の返事が重なる。


 戦闘が始まる。


 紅羽が真正面から兵骸二体を押さえる。琥珀が右へ飛び、でもちゃんと一体目で止まる。詩乃は消える。実乃里が住民へ向けて補助障壁を張る。


 夕璃は中央を切り裂いた。


 兵骸種を一体、二体。

 でも敵の配置がいやだった。前を押しても、奥の通路を塞いでいるベール状の断片が、じわじわと住民の方へ干渉を伸ばしている。


 泣いていた子どもの声が、急に小さくなる。


 まずい。


「実乃里!」


「押さえてます!」


 実乃里の声は明るい。けど、かなり無理してるのがわかる。


 紫月ほどじゃない。でも、一人で二十人以上を守りながら戦場の端を維持するのは軽くない。


 詩乃の声が奥から飛ぶ。


「ベール、本体じゃない! でも切ると増える!」


「最悪!」


 夕璃が吐き捨てる。


 その瞬間、ベール状の断片がふっと広がった。


 鐘の音はない。


 でも、もっと嫌なものが来た。


 ホールの奥にいる住民たちの表情が、一瞬で空っぽになる。


「……え」


 琥珀が動きを止める。


 子どもも、大人も、さっきまで泣いていた人たちも、みんな一瞬だけ音を失ったみたいに静かになる。


 実乃里が青ざめた。


「これ、まずいです!」


「住民側に干渉来てる!」


 紅羽が兵骸を押し返しながら叫ぶ。


 夕璃は奥を見る。


 断片を切るだけじゃだめだ。


 でも放置もだめ。


 その一瞬の迷いの間に、兵骸種の一体が住民側の壁を越えた。


「っ!」


 琥珀が反応する。


 飛ぶ。


 間に合う。たぶん。拳が届く。兵骸の頭を砕く。


 でも、そのさらに奥。


 固まっていた人の列の中で、一人の男の人がふらっと前へ出た。


 目が空っぽのまま。


 敵でも味方でもなく、ただ前へ。


「だめ!」


 実乃里が叫ぶ。


 夕璃も動く。


 けど、一歩遅い。


 ベール状の断片が、その男の人の首元へ細く触れた。


 次の瞬間、その人は糸が切れたみたいにその場へ崩れた。


「……っ」


 誰かが息をのむ。


 兵骸に斬られたわけじゃない。何かが貫いたわけでもない。ただ、そこで落ちた。


 静かに。あまりにも静かに。


 最悪だ。


 夕璃はその瞬間、自分の中の何かが一段冷えるのを感じた。


「紅羽、前全部切る!」


「もうやってる!」


「詩乃、断片の核!」


「今見る!」


 言葉が鋭くなる。


 でも、もう遅いものは遅い。


 そのあと第七部隊は、ちゃんと敵を処理した。


 兵骸は全部落とした。断片も詩乃が核を見つけて、夕璃と紅羽で砕いた。住民の大半も実乃里が押さえて、黄虹隊の避難線へ繋いだ。


 任務そのものは成功。


 ホールの連絡路も開いた。


 でも。


 その床に残った一人分だけが、最後まで消えなかった。


 夕璃はその前に立って、しばらく動けなかった。


「隊長……」


 琥珀の声が、少し震えている。


 それでも夕璃は返事ができない。


 助けられた人数は多い。任務も達成した。数字にすれば、たぶん悪くない。


 でも、一人落ちた。


 その事実だけが、全部を重くした。


 紅羽が低く言う。


「避難を優先する。行くぞ」


 正しい。


 すごく正しい。


 でも、その正しさがちょっとだけ痛い。


「……うん」


 夕璃はようやく返した。


 実乃里が住民側を支えて先導する。黄虹隊が受け取る。千晴の隊員たちは無駄なく動いている。その動きが正しいからこそ、余計にきつい。


 詩乃は何も言わない。


 琥珀も黙っている。


 紅羽だけが前を向いていて、夕璃はその背中を見ながら、なんでこんなに遠く見えるんだろうと思った。


 任務終了後、帰還ルートの途中で、黄虹隊の臨時集積所に寄ることになった。


 そこでようやく、千晴が第七部隊へ向き直る。


「ご苦労だった」


 短い。


 でも、それで終わらないのはわかる。


「連絡路は開いた。避難も継続できる」


 そこまで言ってから、千晴は少しだけ目を伏せた。


「だが、一名落ちた」


 真正面から来る。


 逃げ道がない。


「原因は、断片反応への対応遅れと、住民側への精神干渉の見積もり不足」


 正論だ。


 正論すぎて、聞いてるだけで胃が重い。


 紅羽が口を開く。


「私の判断が」


「違う」


 夕璃が反射で言った。


 千晴の目がこっちへ向く。


「隊長として、全体の切り替えが遅れた」


「違う」


 今度は実乃里だった。


「わたしの補助が足りなかったです」


 その声まで震えていた。


 千晴は少しだけ黙って、それから首を振る。


「一人のせいじゃない」


 その一言が、余計に重い。


「だからこそ忘れるな。こういうのは、誰か一人の失敗として閉じると次に同じことを繰り返す」


 全部正しい。


 全部その通りだ。


 だから苦しい。


 琥珀が小さくつぶやく。


「助けたかったのに」


 その声が、変に幼く聞こえた。


 千晴はその声を聞いても顔を変えない。


 でも、言い方は少しだけやわらいだ。


「わかる。だから次は、もっと早く選べ」


 それだけ言って、千晴はまた避難線の方へ戻っていった。


 残された第七部隊は、誰もすぐに喋れなかった。


 ホールで落ちた一人分が、まだ全員の足元に残っているみたいだった。


 そこへ通信が入る。


『こちら赤。前線押し返した。そっちは』


 朱里の声。


 夕璃が返す前に、紅羽が応答した。


「任務達成。避難線確保済み」


 一瞬だけ間があって、朱里が聞く。


『……被害は?』


 紅羽の声が、少しだけ詰まる。


「一名」


 短い。


 でも、それで十分だった。


『そう』


 朱里の返事も短かった。


『戻ったら顔見せて』


 それだけ言って通信は切れた。


 やさしいな、と夕璃は思う。やさしいけど、それで軽くなるほど単純でもない。


 その夜、学園へ戻る車内はかなり静かだった。


 いつもなら琥珀がなにかしら喋るのに、今日は窓の外ばかり見ている。詩乃は目を閉じている。寝ているようには見えない。紅羽は手元の任務記録から目を離さない。実乃里は小さくなって座っていた。


 紫月がいないのも、静けさを増していた。


 あの人がいると、会話しなくても空気はもう少しやわらぐ。


 いないだけで、こんなに違うんだなと思う。


 夕璃は車窓に映る自分の顔を見る。


 ひどい顔だな、と思う。


 みんなから言われるだけある。


 でも今の気分に比べたら、たぶんまだましな方だ。


 帰還後、白暁院の前を通ると、紫月がそこにいた。


 待っていたらしい。


 顔を見るなり、少しだけほっとしたように笑う。


「おかえり」


 その一言で、琥珀の顔が一瞬だけ崩れた。


 泣くまではいかない。でも、かなり危ないところだ。


「ただいま」


 紅羽が答える。


 夕璃は何も言えなかった。


 紫月はそれを責めるみたいなことはしない。ただ、順番にみんなの顔を見る。そして、第七部隊の空気がいつもと違うことも、たぶん一秒でわかっている。


「……何人?」


 紫月が静かに聞いた。


 誰も返事をしない。


 だから夕璃が言う。


「一人」


 紫月のまつげが、ほんの少しだけ揺れた。


「そう」


 それだけ言って、目を伏せる。


 その一秒の沈黙が、妙に長かった。


 白暁院の明かりは明るい。きれいすぎるくらいに。だから余計に、そこへ持ち込んだ“助けられなかった”が浮く。


 その夜、詩乃は一人で中庭にいた。


 夕璃がそれを見つけたのは、寝つけないまま水でも取りに行こうとしたときだった。


 外の空気が少しだけほしくて、廊下の窓から中庭を見た。ベンチに座っている影がある。


 詩乃だった。


 ひとり。


 静かに。


 それを見て、夕璃は少しだけ迷った。


 行くか、行かないか。


 でも、行かない方が後味悪いなと思って、そのまま中庭へ出た。


「なにしてんの」


 声をかける。


 詩乃は驚かなかった。たぶん気づいてた。


「風、気持ちいいから」


 そう言って、少しだけ横へずれる。


 座れ、という意味だろう。


 夕璃はその隣へ座った。


 夜の中庭は静かだった。昼の学園と違って、ここはちゃんと休むための静けさがある。でも今日は、その静けさすら少しだけ痛い。


「寝ないの」


 詩乃が聞く。


「寝たくない」


「夢?」


「半分くらいは」


「便利だね、それ」


 詩乃が少しだけ笑う。


 その笑い方は、今は危なくなかった。


 だから少しだけ安心する。


「詩乃は」


「わたし?」


「なんで外」


 詩乃はしばらく黙って、それから言った。


「静かな方が、今日のこと思い出しやすいから」


 その返事に、夕璃は少しだけ眉を寄せる。


「忘れたいんじゃなくて?」


「忘れたくない」


 はっきり言った。


「忘れたら、たぶん次もっと怖い」


 それは、正しかった。


 正しいからこそ痛い。


「……今日」


 詩乃が膝の上で指を組む。


「わたし、途中でちょっと変だった」


 夕璃は横目で見る。


「どのへん」


「ホールの最後」


 詩乃は前を見る。


「みんなが住民側見たとき、わたし一瞬、断片の方ばっか見てた」


 風が葉を揺らす音だけが少し鳴る。


「きれいだと思った」


 その言い方は、かなり嫌だった。


「気持ち悪いくらい綺麗に崩れるなって、ちょっと思った」


 夕璃は何も言わなかった。


 言えない。


 それはたぶん、詩乃がいちばん嫌がってるやつだから。


「やばいよね」


 詩乃は笑わずに言う。


「人が落ちてるのに、そっち見てるとか」


「……そういう瞬間は、あるかもしれない」


 夕璃はゆっくり言う。


 慰めじゃない。たぶんそれしか言えない。


 詩乃は少しだけ目を細める。


「夕璃ちゃん、優しいとき、逆にこわい」


「何それ」


「だって、無理に否定しないから」


「できる話でもないだろ」


「うん」


 詩乃はうなずく。


「でも、否定してほしい気持ちもちょっとあった」


 そこまで言って、詩乃はようやく少しだけ笑った。


「めんどくさいね、わたし」


「知ってる」


 夕璃が返すと、詩乃は本当に少しだけ笑った。


 でも、その笑い方の奥に、昼の封鎖区画で見せたあの乾いた感じがまだ残っている気がして、夕璃は完全には安心できなかった。


 空を見上げる。


 雲が薄い。星はあまり見えない。


 その夜、夕璃はこのまま終わってほしいと思った。


 でも同時に、それは無理だともわかっていた。


 旧第十三市街はまだ終わっていない。

 喪鐘の花嫁の断片も、もっと奥にある。

 そして詩乃の中にも、まだ消えていないものがある。


 だから、今夜はたぶんただの途中だ。


 その予感だけが、中庭の静けさの中でずっと薄く鳴っていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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