「助けられなかった」
合同大規模任務のブリーフィングは、夕方に始まって夜に終わった。
長い。
説明が長いっていう意味でも長いし、内容が重いって意味でも長い。
旧第十三市街に隣接する封鎖区画、その地下輸送路。そこへ溜まった異常反応を削り、避難連絡路を開ける。
赤虹隊が正面制圧。
青虹隊が観測と遠距離制圧。
藍虹隊が封鎖解除と潜入。
黄虹隊が避難線と住民誘導。
緑虹隊が補給と医療支援。
紫虹隊は内部での不測対応。
不測対応。
便利な言葉だなと思う。
要するに、何が飛んできても文句言わずにやれ、ってことだ。
「ほんとに便利屋だね、うち」
準備室で武装端子を確認しながら、琥珀が言った。
「今さらだろ」
夕璃が返す。
「でももっと言い方あるじゃん。不測対応って。なんかこう……かっこいい感じにさ」
「それ、じゅうぶんそれっぽく盛ってる方だと思う」
紫月がやわらかく言った。
「え、そう?」
「“危ないとこ全部よろしく”の丁寧な言い換えだよ」
詩乃がさらっと足す。
「うわ、急にやだ」
琥珀が顔をしかめた。
「今ので一気に行きたくなくなった」
「だったら行く前に騒ぐな。手元狂う」
紅羽が装備ベルトを締めながら言う。
いつも通りきっちりしている。きっちりしているけど、昨日より少しだけ空気が硬い。たぶん会議のあとからずっとそうだ。
「紅羽先輩、今日ずっと顔こわい」
琥珀が言う。
「いつも通りだ」
「いや二割増し」
「九条」
「すみません」
反射で謝るのが早い。
でも、そのあとで琥珀は小さくつぶやいた。
「……みんなちょっとやだなって思ってるから、しょうがなくない?」
その一言に、誰もすぐには返さなかった。
やだな、と思っている。
たぶん全員そうだった。
言葉にすると変に軽くなるけど、本質はたしかにそこにある。
旧第十三市街の隣。地下輸送路。記憶干渉。深部反応。喪鐘の花嫁の断片とされる敵。
行きたいと思える要素が、ひとつもない。
でも行く。
その現実だけがある。
準備室の扉が開いて、薬師寺実乃里が顔を出した。
「第七のみなさん、そろそろ移動です」
「はーい」
紫月が返す。
実乃里は緑虹隊の補助らしく、両手いっぱいに薬剤ケースを抱えていた。明るい子だ。けど、さすがに今日はその明るさも少しだけ抑えている。
「奏さんから、無理する人は先に名乗り出ろって」
「じゃあ全員だな」
夕璃が言う。
「え、冗談じゃなく?」
実乃里が目を丸くした。
「半分くらいは」
「半分で済んでない気がする……」
それはたぶん合っている。
移動中、廊下の窓から外を見ると、夜の外壁向こうに薄い赤い警報灯が点いていた。点いて、消えて、また点く。心臓みたいで嫌だなと思う。
発進ゲート前には、もう各部隊が並んでいた。
赤虹隊。黄虹隊。緑虹隊。青虹隊。藍虹隊。
そして第七部隊。
こうして全部揃うと、ほんとに総力戦っぽく見える。
でもその中でも、第七部隊だけはちょっと浮いていた。色のせいだけじゃない。まとまり方の雑さが、遠くからでも見える。
赤は綺麗だ。
青は冷たい。
黄は堅い。
緑はやわらかい。
藍は静か。
紫は……なんだろうな、と夕璃は思う。
危ない寄せ集め。
それでも、たぶん必要なやつら。
「黒瀬さん」
前方から朱里が来た。
相変わらず、こういう場所で立つだけで目立つ。別に光っているわけでもないのに、そう見える。
「一条さんも」
「天童先輩」
紅羽の声が少しだけ硬くなる。
朱里はその二人を見て、ほんの少しだけ笑った。
「今日は正面で道を作る。そっちは中に入って」
「はい」
「で、戻ってきて」
「急にざっくりだな」
夕璃が言うと、朱里は少しだけ肩をすくめた。
「細かいことはもう聞いてるでしょ」
「まあ」
「だったら、残りはそれでいいかなって」
言い方がずるい。
重くしすぎない。でも軽く流しもしない。そういうところが、この人の強さなんだろう。
「朱里隊長ー!」
琥珀が横から手を上げた。
「なんで元気なの、すごくない?」
「元気に見える?」
「見える」
「見せてるだけかも」
朱里はそう言って笑う。
その笑い方が、ちょっとだけ昨日より薄く見えた。
やっぱり誰だって平気じゃないんだなと思う。
青虹隊の高所支援班が動き始める。雫もそこにいた。観測器を連れて、外壁上のルートへ向かうところだった。
一瞬だけ目が合う。
雫は何も言わない。ただ、少しだけ顎を引いた。
戻ってこい、くらいの意味だろうな、と夕璃は勝手に解釈した。
発進ゲートが開く。
夜の封鎖区画の空気が流れ込んでくる。冷たい。乾いている。けど、どこか湿っている感じもする。地下へ続く任務の匂いだ。
「第七、行くぞ」
紅羽が言う。
その声は低いけど、通る。
夕璃は一歩前へ出た。
「全員、通信は切るな。見えなくても返事はしろ。勝手に前行くな。止まれって言われたら止まれ」
「最後だけ琥珀ちゃんに向けてる?」
詩乃が言う。
「全員にだよ」
「でも八割くらいあたしだよね?」
琥珀が言う。
「九割だ」
紅羽が即答した。
「ひど!」
でも、そのやり取りがあったおかげで、少しだけ呼吸が楽になった。
発進。
最初の移動は速かった。
旧第十三市街に隣接する封鎖区画、その地下輸送路の入口まで、赤虹隊が正面の敵を押さえ、黄虹隊が避難線を作り、緑虹隊が後ろを固める。
第七部隊はその隙間を抜けて、藍虹隊と一緒に地下へ入る。
地下輸送路は広い。トラック搬入も想定されたのか、通路そのものがでかい。でかいくせに、天井が低く感じる。たぶん暗いからだ。照明の半分以上が落ちていて、生きてるのは非常灯みたいな薄い光だけ。
壁には古い路線図と物流案内。
【北物流ターミナル】
【連絡避難路】
【地下搬出区画】
どれも読めるのに、もう使われてない感じがつらい。
「右、聞こえる?」
夕璃が通信で言う。
『聞こえる』
紅羽。
『聞こえるよ』
詩乃。
『聞こえる!』
琥珀。
『はい、大丈夫です』
実乃里。
それで少しだけ安心する。
前方の藍虹隊が止まった。
澪那の手が上がる。
「反応、前方左分岐」
「数は?」
紅羽が聞く。
透子が端末を見る。
「五。兵骸三、人形型二」
「人形型、もういるんだ」
琥珀が嫌そうに言う。
「いやな顔するね」
詩乃が言う。
「だってあいつら気持ち悪いもん!」
「それはそう」
夕璃も言う。
藍虹隊が左へ回る。
ここは共同だ。第七も続く。
曲がった先の通路で、敵が待っていた。
兵骸種はいつも通り気持ち悪い。問題はその奥の人形型残滓だ。夜の旧市街で見たやつに近い。でも二体とも少し違う。片方は女型、もう片方は子どもみたいに小さい。
「……やめろよ」
思わず夕璃がつぶやく。
その形はずるい。
そういうのを混ぜるな。
人形型がこちらを向く。
次の瞬間、頭の中で知らない声が弾けた。
「たすけて」
「っ」
足が一瞬止まりそうになる。
でも今度は昨日より早く戻れた。
「詩乃、左の小さい方!」
「了解」
「紅羽、兵骸押さえて!」
「任せろ!」
「琥珀、突っ込むな!」
「毎回それ言うじゃん!」
「毎回言わないと怖いからだよ!」
「ひどくない!?」
言いながらも、琥珀はちゃんと止まった。
そこは偉い。
戦闘は短かった。
藍虹隊が兵骸種の足を止め、第七部隊が人形型を落とす。核位置はやっぱり不安定だったけど、詩乃の視界と夕璃の勘が噛み合えば十分取れる。
嫌なのは、そのたびに頭へ差し込んでくる知らない声だ。
たすけて。
おいていかないで。
こっちみて。
知らない。知らない。知らない。
そう思うほど、逆にまとわりつく。
「黒瀬!」
紅羽の声で、夕璃ははっとした。
目の前の人形型が腕を伸ばしている。危ない。避ける。ぎりぎりでかわす。視界の横を黒い糸が抜けて、壁をじわっと汚した。
「ぼーっとするな!」
「してない!」
「してた!」
返しながら、夕璃は核へ長刀を突き込んだ。
残響。
核が割れる。
人形型が崩れる。
そしてまた、少しだけ頭が重くなる。
嫌な積み方だなと思う。
短い戦闘が終わり、部隊はさらに奥へ進んだ。
そこまでは、まだ想定内だった。
本当にまずかったのは、その次だった。
避難連絡路に入ったところで、黄虹隊から通信が入る。
『避難民ライン、動いてます。第七、右ルート先の小ホールで住民二十七名を確認』
千晴の声だった。
『だが、出口手前で兵骸種群に足を止められている。赤は別ライン対応中。そちらが近い』
それを聞いた瞬間、全員の空気が切り替わる。
戦闘だけじゃない。
住民が絡む。
「位置!」
紅羽が言う。
すぐに地図が共有される。右ルート先、小ホール。出口まであと一本の通路。そこを敵に塞がれてる。
「行ける」
夕璃が言う。
「第七、分離する。藍はそのまま進め」
澪那がうなずく。
「五分だけ待つ。戻らなければ先へ行く」
「薄情」
琥珀が言う。
「現実的」
透子が返した。
それで十分だった。
第七部隊は右ルートへ走る。
通路の先、小ホールは本来、待避や荷物集積に使う場所だったらしい。広い。けど今は、人と敵と恐怖でいっぱいだった。
住民が二十人以上、壁際に固まっている。子どももいる。泣いてる声も聞こえる。
その手前を、兵骸種が五体。
さらに、その奥の通路の天井近くに、黒いベールみたいなものが一瞬だけ揺れた。
喪鐘の花嫁の断片。
「っ……!」
紫月のいない今、その気配だけで少しだけ頭がざわつく。
夕璃は息を吐く。
「紅羽、正面! 琥珀、右の兵骸だけ見ろ! 詩乃、奥のベール探れ! 実乃里、住民側へ!」
「了解!」
全員の返事が重なる。
戦闘が始まる。
紅羽が真正面から兵骸二体を押さえる。琥珀が右へ飛び、でもちゃんと一体目で止まる。詩乃は消える。実乃里が住民へ向けて補助障壁を張る。
夕璃は中央を切り裂いた。
兵骸種を一体、二体。
でも敵の配置がいやだった。前を押しても、奥の通路を塞いでいるベール状の断片が、じわじわと住民の方へ干渉を伸ばしている。
泣いていた子どもの声が、急に小さくなる。
まずい。
「実乃里!」
「押さえてます!」
実乃里の声は明るい。けど、かなり無理してるのがわかる。
紫月ほどじゃない。でも、一人で二十人以上を守りながら戦場の端を維持するのは軽くない。
詩乃の声が奥から飛ぶ。
「ベール、本体じゃない! でも切ると増える!」
「最悪!」
夕璃が吐き捨てる。
その瞬間、ベール状の断片がふっと広がった。
鐘の音はない。
でも、もっと嫌なものが来た。
ホールの奥にいる住民たちの表情が、一瞬で空っぽになる。
「……え」
琥珀が動きを止める。
子どもも、大人も、さっきまで泣いていた人たちも、みんな一瞬だけ音を失ったみたいに静かになる。
実乃里が青ざめた。
「これ、まずいです!」
「住民側に干渉来てる!」
紅羽が兵骸を押し返しながら叫ぶ。
夕璃は奥を見る。
断片を切るだけじゃだめだ。
でも放置もだめ。
その一瞬の迷いの間に、兵骸種の一体が住民側の壁を越えた。
「っ!」
琥珀が反応する。
飛ぶ。
間に合う。たぶん。拳が届く。兵骸の頭を砕く。
でも、そのさらに奥。
固まっていた人の列の中で、一人の男の人がふらっと前へ出た。
目が空っぽのまま。
敵でも味方でもなく、ただ前へ。
「だめ!」
実乃里が叫ぶ。
夕璃も動く。
けど、一歩遅い。
ベール状の断片が、その男の人の首元へ細く触れた。
次の瞬間、その人は糸が切れたみたいにその場へ崩れた。
「……っ」
誰かが息をのむ。
兵骸に斬られたわけじゃない。何かが貫いたわけでもない。ただ、そこで落ちた。
静かに。あまりにも静かに。
最悪だ。
夕璃はその瞬間、自分の中の何かが一段冷えるのを感じた。
「紅羽、前全部切る!」
「もうやってる!」
「詩乃、断片の核!」
「今見る!」
言葉が鋭くなる。
でも、もう遅いものは遅い。
そのあと第七部隊は、ちゃんと敵を処理した。
兵骸は全部落とした。断片も詩乃が核を見つけて、夕璃と紅羽で砕いた。住民の大半も実乃里が押さえて、黄虹隊の避難線へ繋いだ。
任務そのものは成功。
ホールの連絡路も開いた。
でも。
その床に残った一人分だけが、最後まで消えなかった。
夕璃はその前に立って、しばらく動けなかった。
「隊長……」
琥珀の声が、少し震えている。
それでも夕璃は返事ができない。
助けられた人数は多い。任務も達成した。数字にすれば、たぶん悪くない。
でも、一人落ちた。
その事実だけが、全部を重くした。
紅羽が低く言う。
「避難を優先する。行くぞ」
正しい。
すごく正しい。
でも、その正しさがちょっとだけ痛い。
「……うん」
夕璃はようやく返した。
実乃里が住民側を支えて先導する。黄虹隊が受け取る。千晴の隊員たちは無駄なく動いている。その動きが正しいからこそ、余計にきつい。
詩乃は何も言わない。
琥珀も黙っている。
紅羽だけが前を向いていて、夕璃はその背中を見ながら、なんでこんなに遠く見えるんだろうと思った。
任務終了後、帰還ルートの途中で、黄虹隊の臨時集積所に寄ることになった。
そこでようやく、千晴が第七部隊へ向き直る。
「ご苦労だった」
短い。
でも、それで終わらないのはわかる。
「連絡路は開いた。避難も継続できる」
そこまで言ってから、千晴は少しだけ目を伏せた。
「だが、一名落ちた」
真正面から来る。
逃げ道がない。
「原因は、断片反応への対応遅れと、住民側への精神干渉の見積もり不足」
正論だ。
正論すぎて、聞いてるだけで胃が重い。
紅羽が口を開く。
「私の判断が」
「違う」
夕璃が反射で言った。
千晴の目がこっちへ向く。
「隊長として、全体の切り替えが遅れた」
「違う」
今度は実乃里だった。
「わたしの補助が足りなかったです」
その声まで震えていた。
千晴は少しだけ黙って、それから首を振る。
「一人のせいじゃない」
その一言が、余計に重い。
「だからこそ忘れるな。こういうのは、誰か一人の失敗として閉じると次に同じことを繰り返す」
全部正しい。
全部その通りだ。
だから苦しい。
琥珀が小さくつぶやく。
「助けたかったのに」
その声が、変に幼く聞こえた。
千晴はその声を聞いても顔を変えない。
でも、言い方は少しだけやわらいだ。
「わかる。だから次は、もっと早く選べ」
それだけ言って、千晴はまた避難線の方へ戻っていった。
残された第七部隊は、誰もすぐに喋れなかった。
ホールで落ちた一人分が、まだ全員の足元に残っているみたいだった。
そこへ通信が入る。
『こちら赤。前線押し返した。そっちは』
朱里の声。
夕璃が返す前に、紅羽が応答した。
「任務達成。避難線確保済み」
一瞬だけ間があって、朱里が聞く。
『……被害は?』
紅羽の声が、少しだけ詰まる。
「一名」
短い。
でも、それで十分だった。
『そう』
朱里の返事も短かった。
『戻ったら顔見せて』
それだけ言って通信は切れた。
やさしいな、と夕璃は思う。やさしいけど、それで軽くなるほど単純でもない。
その夜、学園へ戻る車内はかなり静かだった。
いつもなら琥珀がなにかしら喋るのに、今日は窓の外ばかり見ている。詩乃は目を閉じている。寝ているようには見えない。紅羽は手元の任務記録から目を離さない。実乃里は小さくなって座っていた。
紫月がいないのも、静けさを増していた。
あの人がいると、会話しなくても空気はもう少しやわらぐ。
いないだけで、こんなに違うんだなと思う。
夕璃は車窓に映る自分の顔を見る。
ひどい顔だな、と思う。
みんなから言われるだけある。
でも今の気分に比べたら、たぶんまだましな方だ。
帰還後、白暁院の前を通ると、紫月がそこにいた。
待っていたらしい。
顔を見るなり、少しだけほっとしたように笑う。
「おかえり」
その一言で、琥珀の顔が一瞬だけ崩れた。
泣くまではいかない。でも、かなり危ないところだ。
「ただいま」
紅羽が答える。
夕璃は何も言えなかった。
紫月はそれを責めるみたいなことはしない。ただ、順番にみんなの顔を見る。そして、第七部隊の空気がいつもと違うことも、たぶん一秒でわかっている。
「……何人?」
紫月が静かに聞いた。
誰も返事をしない。
だから夕璃が言う。
「一人」
紫月のまつげが、ほんの少しだけ揺れた。
「そう」
それだけ言って、目を伏せる。
その一秒の沈黙が、妙に長かった。
白暁院の明かりは明るい。きれいすぎるくらいに。だから余計に、そこへ持ち込んだ“助けられなかった”が浮く。
その夜、詩乃は一人で中庭にいた。
夕璃がそれを見つけたのは、寝つけないまま水でも取りに行こうとしたときだった。
外の空気が少しだけほしくて、廊下の窓から中庭を見た。ベンチに座っている影がある。
詩乃だった。
ひとり。
静かに。
それを見て、夕璃は少しだけ迷った。
行くか、行かないか。
でも、行かない方が後味悪いなと思って、そのまま中庭へ出た。
「なにしてんの」
声をかける。
詩乃は驚かなかった。たぶん気づいてた。
「風、気持ちいいから」
そう言って、少しだけ横へずれる。
座れ、という意味だろう。
夕璃はその隣へ座った。
夜の中庭は静かだった。昼の学園と違って、ここはちゃんと休むための静けさがある。でも今日は、その静けさすら少しだけ痛い。
「寝ないの」
詩乃が聞く。
「寝たくない」
「夢?」
「半分くらいは」
「便利だね、それ」
詩乃が少しだけ笑う。
その笑い方は、今は危なくなかった。
だから少しだけ安心する。
「詩乃は」
「わたし?」
「なんで外」
詩乃はしばらく黙って、それから言った。
「静かな方が、今日のこと思い出しやすいから」
その返事に、夕璃は少しだけ眉を寄せる。
「忘れたいんじゃなくて?」
「忘れたくない」
はっきり言った。
「忘れたら、たぶん次もっと怖い」
それは、正しかった。
正しいからこそ痛い。
「……今日」
詩乃が膝の上で指を組む。
「わたし、途中でちょっと変だった」
夕璃は横目で見る。
「どのへん」
「ホールの最後」
詩乃は前を見る。
「みんなが住民側見たとき、わたし一瞬、断片の方ばっか見てた」
風が葉を揺らす音だけが少し鳴る。
「きれいだと思った」
その言い方は、かなり嫌だった。
「気持ち悪いくらい綺麗に崩れるなって、ちょっと思った」
夕璃は何も言わなかった。
言えない。
それはたぶん、詩乃がいちばん嫌がってるやつだから。
「やばいよね」
詩乃は笑わずに言う。
「人が落ちてるのに、そっち見てるとか」
「……そういう瞬間は、あるかもしれない」
夕璃はゆっくり言う。
慰めじゃない。たぶんそれしか言えない。
詩乃は少しだけ目を細める。
「夕璃ちゃん、優しいとき、逆にこわい」
「何それ」
「だって、無理に否定しないから」
「できる話でもないだろ」
「うん」
詩乃はうなずく。
「でも、否定してほしい気持ちもちょっとあった」
そこまで言って、詩乃はようやく少しだけ笑った。
「めんどくさいね、わたし」
「知ってる」
夕璃が返すと、詩乃は本当に少しだけ笑った。
でも、その笑い方の奥に、昼の封鎖区画で見せたあの乾いた感じがまだ残っている気がして、夕璃は完全には安心できなかった。
空を見上げる。
雲が薄い。星はあまり見えない。
その夜、夕璃はこのまま終わってほしいと思った。
でも同時に、それは無理だともわかっていた。
旧第十三市街はまだ終わっていない。
喪鐘の花嫁の断片も、もっと奥にある。
そして詩乃の中にも、まだ消えていないものがある。
だから、今夜はたぶんただの途中だ。
その予感だけが、中庭の静けさの中でずっと薄く鳴っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




