「朝はだいたいうるさい」
扉を閉める前からうるさかったけど、廊下に出たらもっとうるさかった。
「だから、それあたしのだって! 昨日ちゃんと目ぇつけてたし!」
「目をつけていただけで所有権が発生するなら、食堂は毎日戦場だな」
「うわ、言い方かわいくな……くはないな。普通にムカつく」
「安心しろ。私も九条の理屈にはかなりムカついている」
朝から元気だな……と思いながら廊下を曲がると、予想通り、食堂前の共有スペースで第七部隊がたむろしていた。
琥珀が両手をぶんぶん振っていて、紅羽が腕を組んでいて、詩乃はソファの背にもたれて薄く笑っていて、紫月はその横で困ったように笑っている。
いつもの光景だった。
正式稼働日だろうがなんだろうが、この部隊の朝はたぶん一生こんな感じなんだろう。
「隊長、遅い!」
最初に気づいたのは琥珀だった。
ぱっと顔を上げて、こっちへ駆け寄ってくる。朝から元気すぎて眩しい。少し分けてほしいくらいだ。
「寝坊?」
「違う。起きたくなかっただけ」
「それ寝坊寄りじゃん」
「寄ってるだけで寝坊ではない」
「細っ」
琥珀がけらけら笑う。軽い。朝からそのテンションを出せるの、わりと才能だと思う。
夕璃はそのまま空いていた壁際に寄って、四人を見た。
「で、何の騒ぎ」
「聞いてよ隊長。食堂の限定パン、今日いちごクリームだったんだけど」
「嫌な予感しかしないな」
「詩乃先輩が取った」
「違いますよ。取ったんじゃなくて、先に確保しただけです」
詩乃がさらっと言った。
琥珀が信じられないものを見る顔になる。
「同じじゃん!」
「ぜんぜん違うよ。琥珀ちゃんは見てただけで、わたしは取ったの」
「いや、そこ言い切るんだ……」
ちょっと引いた。
いや、詩乃はこういうとこあるけど。あるけど、朝からパンでそこまで静かにマウント取るなよ。
紅羽が深いため息をつく。
「そもそも限定品を巡って騒ぐな。正式稼働日の朝だぞ」
「それとこれとは別でしょ!」
「別じゃない」
「別だよ!」
「別ではない」
「別だってば!」
「声量で押し切るな」
紅羽の返しが速い。たぶん今日はわりと最初からイラついている。
まあ、無理もない。今日の第七部隊の状態は、どう見ても“決戦前の精鋭部隊”じゃなくて、“朝からパンで揉める女子五人組”だ。実際そうなんだけど。
紫月が間に入る。
「はいはい。じゃあ、わたしの半分あげるから」
「え、いいの!?」
「その代わり、出撃前にちゃんとごはんは食べてね」
「食べる! めちゃくちゃ食べる!」
「九条、お前はいつも食べている」
「紅羽先輩、そういう言い方だとあたしが食いしん坊みたいじゃん」
「みたいじゃなくて、そのままだろ」
「隊長、紅羽先輩が朝から刺してくる」
「朝じゃなくても刺してるだろ」
「それはそう」
琥珀が即答した。
紅羽のこめかみがぴくっと動く。
夕璃はちょっとだけ口元をゆるめた。ほんの少しだけ。
やっぱり、静かすぎる朝よりはこっちの方がましだ。
「夕璃ちゃん、顔色あんまりよくないね」
紫月がそう言って、少しだけ眉を下げた。
気づくの早いな……と思う。
「いつも通り」
「その返しをする日は、だいたいいつも通りじゃないんだよね」
「こわ」
「紫月先輩、やさしい顔してたまにまじで鋭いよね」
「琥珀ちゃんほどじゃないよ」
「いやあたしは鋭いっていうか強いの方!」
「自分で言うんだ、それ」
詩乃がくすっと笑う。
その笑い方はやわらかいのに、たまに何考えてるのかわからなくなる。
詩乃はそういう子だ。見た目だけなら一番おとなしくて、一番ふわっとして見えるのに、近くにいるとたまにぞくっとする。たぶん本人は隠してるつもりだし、実際ほとんどの人は気づいてない。でも同じ部隊でやってると、わかるときはわかる。
ああ、今ちょっと危ない笑い方したな、とか。
今のはただ面白がってるだけだな、とか。
夕璃がぼんやりそんなことを考えていると、紅羽がこっちを見た。
「黒瀬」
「なに」
「なに、じゃない。今日の予定は頭に入っているな」
「一応」
「一応で済ませるな」
「ちゃんと入ってる」
「本当か?」
「疑い深いな」
「お前が信用を積んでいないからだ」
「朝から重い」
「朝だからだ」
「紅羽先輩、それ今日ずっと言うつもり?」
「必要なら言う」
まじめすぎる。いや、助かってはいるんだけど、朝一のテンションでぶつかるにはちょっと硬い。
紅羽は今日、たぶんかなり気を張っている。正式稼働日。初任務。第七部隊副隊長。責任感のかたまりみたいな人間には、そりゃ荷が重いだろう。
でも、それを正面から受けるほど、夕璃は器用じゃない。
「大丈夫だよ、紅羽先輩。なんかあったら隊長がいい感じにするって」
「なんだその雑な信頼は」
「え、違うの?」
「違わないけど言い方」
「でも夕璃ちゃん、だいたい最後はなんとかするよね」
紫月までそう言った。
夕璃は少しだけ目を細める。
「やめろよ。その言い方、あとで失敗したときに効くやつじゃん」
「失敗する前提で話すな」
紅羽のツッコミは早い。さすが副隊長。
詩乃が指先で髪をくるりといじりながら、小さく首をかしげる。
「でも、夕璃ちゃんって、失敗しそうに見えるのに、変なところで外さないよね」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「残り半分は」
「気持ち悪いくらい勘がいいなって思ってる」
「それ褒めてないだろ」
「褒めてるよ。たぶん」
「たぶんで来るなよ……」
会話のテンポは軽い。軽いけど、詩乃の言葉だけは少しだけ残る。
変なところで外さない。
勘がいい。
それはたぶん、第七部隊の他の四人も感じていることだ。
夕璃自身は別に勘がいいつもりはない。ただ、たまに見えてしまうだけだ。次にどこが危ないかとか、どのタイミングで踏み込めばいいかとか。理由はうまく言えない。言えないし、言いたくもない。
夢の残りみたいなものを、説明に使いたくはなかった。
その空気を切るみたいに、共有スペースの壁に取り付けられた端末が短く鳴った。
ぴ、と乾いた電子音。
全員の視線がそっちへ向く。
画面に表示されたのは、簡潔な召集通知だった。
【第七部隊、〇七〇〇、戦術棟第二会議室へ集合】
その下に、見慣れた名前。
霧島蓮司。
紅羽がすぐに端末を確認し、自分の腕時計にも視線を落とす。
「あと十五分だ。食堂へ行くなら今しかない」
「よっしゃ!」
「走るな、九条」
「いや走るでしょ!」
「走るな!」
「朝ごはんがかかってるんだって!」
「戦場より優先順位が高いな」
「戦場の前だから大事なんだってば!」
「開き直るな」
琥珀がもう半分走り出していて、紅羽が後ろから止めようとして、でもたぶん止まらない。紫月が小さく笑って、詩乃が面白そうに眺めている。
夕璃はその様子を見ながら、少し遅れて歩き出した。
結局、こうして五人で並ぶと、それなりに部隊っぽく見える。中身はだいぶ怪しいけど。
「夕璃ちゃん」
横に来た紫月が、小さな声で呼ぶ。
「なに」
「ほんとに大丈夫?」
その聞き方は、体調のことだけじゃない。
夢見が悪かったことも、顔色がよくないことも、たぶん見抜かれている。紫月はそういうところがある。やさしいくせに、見ないふりがあんまりうまくない。
夕璃は少しだけ視線をそらして、肩をすくめた。
「……まあ」
「ぜんぜん安心できない返事なんだけど」
「でも嘘はついてない」
「それはそうかもだけど」
紫月が困ったみたいに笑う。
その顔を見ると、逆にこっちが少し困る。
「無理しないでね」
「それ、今日言う?」
「今日だから言うの」
「重いなあ」
「重くするつもりはないよ。ただ、ちゃんと戻ってきてほしいだけ」
紫月はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「みんなで」
その一言だけは、やけにまっすぐ胸に入った。
夕璃は返事をしなかった。
返したら、変に何かがこぼれそうだったからだ。
代わりに、食堂の方へ走っていく琥珀の背中を見て言う。
「とりあえず、あいつを止めないとごはんが全部なくなる」
「それはほんとにそう」
紫月がくすっと笑った。
前では紅羽がまだ琥珀に何か言っている。
「九条、だから待て!」
「待ってたらなくなるの!」
「なくならない!」
「なくなる!」
「なくならない!」
「紅羽先輩も走ってるじゃん!」
「お前を止めるためだ!」
「じゃあ実質いっしょだって!」
「違う!」
うるさい。
でも、そのうるささが、さっきまで耳に残っていた夢の声を少しだけ遠ざけてくれた。
今度は、落とすな。
まだ残っている。
でも、もう朝だ。
少なくとも今は、知らない戦場じゃない。
食堂でパンの取り合いをして、会議室で教官に怒られて、それからたぶん前線へ行く。
ろくでもないけど、現実だ。
夕璃は制服の袖を軽く引いて、呼吸をひとつ整えた。
夢のことは、いったん置いておく。
置いておけるうちは、それでいい。
食堂の扉が見えてくる。
その向こうから、今度は別の部隊のにぎやかな声も聞こえてきた。いつも通りの朝の学園。いつも通りで、でも今日は少しだけ違う。
正式稼働日。
その言葉の重さを、まだ誰もちゃんと口にしていないだけだ。
食堂に入ろうとしたところで、廊下の反対側から低い声が飛んだ。
「お、いたいた。問題児ども」
霧島だった。
壁にもたれて、いかにも寝不足そうな顔でこっちを見ている。教官のくせに、こっちよりやる気がないように見えるのはどうなんだろう。
琥珀がぴたりと止まる。
「うわ」
「うわとは何だ。傷つくぞ」
「朝からいると思ってなかった」
「教官をなんだと思ってる」
「だいたい急に現れて話を重くする人」
「ひどい評価だな」
「否定できないですね」
詩乃が静かに乗った。
霧島が片眉を上げる。
「白峰まで言うか」
「だってそうですし」
「まあいい。食うなら急げ。五分後に移動だ」
紅羽がすぐに姿勢を正した。
「了解しました」
「おう。あと一条」
「はい」
「そんな気張んな。朝から肩で人殺せる顔してるぞ」
「してません」
「してる」
「してません」
「してるって」
少しだけ間が空いて、琥珀がぼそっと言う。
「……ちょっとしてる」
「九条」
「すみません」
秒で謝った。えらい。
霧島は鼻で笑ってから、視線を夕璃に向ける。
「黒瀬」
「なに」
「顔色わるいな」
「教官まで言う?」
「見るからにそうだからな。まあ、死んでなきゃいい」
「基準が雑すぎる」
「うちの部隊に細かい基準を求めるな」
それを言われると、たしかにそうかもしれない。
霧島は壁から背を離して、あくびを噛み殺すみたいに首を鳴らした。
「とにかく、食ったら来い。今日は説明長いぞ。正式稼働日だからな」
その一言で、さっきまでの空気が少しだけ変わった。
琥珀も、紅羽も、詩乃も、紫月も、ほんの少しだけ顔つきを変える。
夕璃も黙った。
やっぱり、そこに戻る。
パンの取り合いをしていても、笑っていても、今日がその日であることは変わらない。
霧島はそんな五人を順番に見て、最後に小さく肩をすくめた。
「死ぬなよ。初日から報告書を重くするな」
軽口みたいに言ったくせに、その場の空気だけはちゃんと冷えた。
朝の学園のにぎやかさが、急に少し遠くなる。
夕璃は食堂の扉に手をかけながら、心の中でだけつぶやいた。
……ほんと、ろくでもない一日になりそうだ。
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