プロローグ 「知らない戦場の夢」
数ある作品の中から読んでいただきありがとうございます。
この作品を心から楽しんでいただけたら嬉しいです。
誰かが死ぬ夢だった。
知らないはずの場所で、知らないはずの誰かが、夕焼けみたいに赤い空の下で膝をつく。
地面はぐしゃぐしゃだった。土じゃない。泥でもない。焼けた鉄と、砕けた石と、何かが混ざっている。足を踏み出すたび、靴の裏に嫌な感触がくっついた。
風が吹く。
熱い。なのに寒い。
耳の奥で、金属がこすれるみたいな音がずっと鳴っていた。
前を向く。
遠くで何かが燃えている。建物かもしれないし、ただの残骸かもしれない。どっちでもよかった。夢の中の夕璃には、それを見分ける余裕がなかった。
手には刀があった。
重い。でも軽い。
おかしかった。自分はこんなもの、持ち慣れていない。なのに手のひらは、柄の形を知っている。指の力の入れ方も、振るときの角度も、血で滑らない握り方も、最初から全部わかっていた。
変だ。
変なのに、夢の中ではそれを変だと思う余裕すらなかった。
前で誰かが倒れる。
女の人だった。
年はわからない。顔もよく見えない。ただ、肩で息をしていて、片腕がなくて、それでもまだ立とうとしていた。
その背中が、ひどく必死だった。
守ろうとしている。
何を。
誰を。
わからない。
でも、わからないのに、胸の奥だけが妙にはっきりしていた。
ここでこの人が倒れたら、終わる。
何が終わるのかは知らない。
でも、終わる。
だから走る。
夕璃は地面を蹴った。いや、本当に自分で蹴ったのかも怪しい。ただ、体は迷いなく前に出た。呼吸は荒いのに、足は止まらない。視界の端で赤い光が弾ける。何かが吠える。人じゃない声だった。
斬る。
何かを斬った感触が腕に返る。
一度じゃない。二度、三度。
刃が空気を裂いたあと、少し遅れてまた同じ場所が裂けた。
変な斬り方だった。そんなの、夕璃は知らない。知らないのに、できてしまう。
熱い息が喉に刺さる。
目の前に黒い影。
巨大な何か。
形はあった。あったはずなのに、夢から覚めかけた頭にはもう残っていない。ただ、人の死に方だけを集めて作ったみたいな、気持ちの悪い影だったことだけは覚えている。
そいつが、いた。
女の人が振り返る。
ようやく顔が見えた……と思った瞬間、輪郭が崩れた。砂みたいに。光みたいに。
ただ、その口だけは見えた。
血のにじんだ唇が動く。
「……今度は」
そこで世界がぶれる。
空がひび割れるみたいに、景色が揺れた。
女の人の声が、耳のすぐそばに落ちてくる。
「今度は、落とすな」
次の瞬間、
夕璃はベッドの上で飛び起きた。
「……っ」
喉がひりつく。
息がうまく入らない。肺がびっくりしたみたいに、何度か変な音を立ててから、やっと呼吸が戻った。
見慣れた天井だった。
白い天井。小さなひび。隅の方にうっすら残っている、前の住人が貼っていたのかもしれない謎のシール跡。
紫棟、自室。
夢の続きじゃない。
現実だ。
「……最悪」
誰に言うでもなく、夕璃はつぶやいた。
額に手を当てる。汗をかいていた。嫌な汗だ。運動したあとのやつじゃなくて、体の中だけ冷えてるみたいな汗。
夢見が悪いなんて、今さらだった。
英骸記憶を使う人間にとって、眠りがきれいな休息になることは少ない。知らない景色、知らない戦場、知らない死に方。そういうものが勝手に混ざる。混ざって、そのまま朝までべったり残る。
だから別に珍しくはない。
珍しくはない……はずなのに。
夕璃はゆっくり右手を開いた。
何もない。
当然だ。
刀なんか持っていない。
持っていないのに、手のひらにはまだ感触が残っていた。ざらついた柄。固く締めた指。刃を振り抜いたときの重み。あんなもの、自分の記憶にあるはずがないのに。
「気持ちわる……」
吐きそう、とまではいかない。そこまで弱くもない。
ただ、嫌だった。
知らない誰かの最後の声が、まだ耳に残っているのが。
今度は、落とすな。
何をだ。
わたしに言うなよ。
夕璃は枕元の端末を引き寄せて、時刻を見る。
六時十二分。
微妙。
もう一回寝るには中途半端で、起きるにはだるい。最悪の時間帯だった。
しかも、今日はさらに最悪だ。
第七部隊、正式稼働日。
言い換えれば、学園のお偉い人たちがようやく腹をくくって、問題児の寄せ集めを本当に前線へ出す日でもある。
めでたいのか不吉なのか、正直わからない。
たぶん後者だ。
夕璃は大きく息を吐いて、ベッドから足を下ろした。床が少し冷たい。窓の外はまだ薄暗くて、紫棟の古い廊下には朝の気配が半分しか来ていない。
静かだった。
この棟はいつも少し静かだ。他の寮が朝から人の気配でざわついている時間でも、紫棟だけは妙に音が少ない。壁が厚いのか、住んでる連中が朝に弱いのか、その両方か。
たまに、静かすぎて逆に落ち着かない。
まあ、今日はそんな心配も長くは続かなかった。
廊下の向こうから、
「はぁ!? それ、あたしのだったんだけど!」
ものすごく聞き覚えのある声が突き抜けてきたからだ。
数秒遅れて、夕璃は目を閉じた。
「ああ、うん」
知ってた。
今日も第七部隊は元気らしい。
いや、元気って言うとちょっと違う気もする。朝っぱらから騒がしいだけだ。
でも、静かすぎるよりはまだましだ。
たぶん。
たぶんだけど。
続けて、今度はきりっとした声が飛ぶ。
「九条、声が大きい。朝だぞ」
「朝だからだよ! 朝ごはんの話してんの!」
「朝から騒ぐ理由としてはかなり弱いな」
紅羽だ。
そのあと、少しだけ間があってから、やわらかい声も混ざる。
「まあまあ。紫月さんの分はちゃんとあるから、落ち着いて」
「わたしのじゃなくて、琥珀ちゃんの分を残しておいてあげてくださいね」
「紫月先輩やさし……いや、でもそうじゃなくて!」
紫月と、たぶん詩乃もいる。
全員揃っているらしい。
正式稼働日の朝にする会話がパンの取り置きでいいのかどうかは知らないけど、今さら第七部隊にまともさを期待しても仕方ない。
夕璃は髪を片手でかき上げて、ベッド脇に置いてあった制服へ手を伸ばした。
黒を基調にした学園制服。きっちり着ればそれなりに見えるが、別に気分は上がらない。
ネクタイを首にかけながら、ふと手が止まる。
鏡の中の自分と目が合った。
黒髪が少し跳ねていて、寝起きの顔はあんまり機嫌がよくない。いつものことだ。問題はそこじゃない。
目だ。
ほんの一瞬だけ、自分の瞳の奥に、夢の中で見た赤い光が残っている気がした。
気のせいだ。
そういうことにしておく。
いちいち気にしていたら、やっていられない。
夕璃は鏡から目をそらした。
「……行くか」
誰もいない部屋にそう言って、ドアノブに手をかける。
廊下の向こうではまだ琥珀が何か言っている。紅羽がたしなめて、詩乃がたぶん面白がって、紫月が困ったみたいに笑っている。
うるさい。
でも、そのくらいでちょうどいいのかもしれない。
静かすぎる朝は、夢の続きを連れてきそうだから。
夕璃は扉を開けた。
薄暗い廊下に朝の冷たい空気が流れていて、その向こうから第七部隊の騒がしさだけが妙にはっきり届いてくる。
ろくでもない一日になりそうだと、まだ顔を合わせる前からわかった。
そしてたぶん、その予感は当たる。
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