「知られてるのがいちばん気持ち悪い」
夜の旧第十三市街は、昼より輪郭がはっきりして見えた。
明るさがないぶん、壊れている場所だけがよくわかる。崩れた看板。ねじれた歩道橋。割れたガラスの反射。止まった信号。誰もいないのに、誰かがさっきまでいたみたいな形だけが、あちこちに残っている。
嫌な街だな、と夕璃は思う。
前にも思った。たぶんこれからも何回も思う。
そして、そのたびに少しずつ慣れていくのが、いちばん嫌だった。
「第六先行。第七は三歩後ろ」
宵待澪那の声が小さく落ちる。
「近すぎず、離れすぎず。音は拾って」
「注文が多いな」
夕璃が言うと、透子が横から肩をすくめた。
「現場ってだいたいそういうものだよ」
「言い方がちょっとむかつく」
「褒め言葉?」
「違う」
軽口を挟んでいる間も、足は止めない。
今夜の再調査は小規模。第六と第七、それに外縁からの青虹観測支援だけ。奏のところから来るはずだった補助は、外で待機らしい。紫月と琥珀は学園側で留守番。
つまり今ここにいる第七部隊は、夕璃、紅羽、詩乃の三人だけだ。
珍しい編成だった。
珍しいぶん、少しだけ落ち着かない。
紅羽が隣で低く言う。
「黒瀬」
「なに」
「今のうちに決めておく。今回は前へ出すぎるな」
「その言い方だと毎回出すぎてるみたいじゃん」
「毎回少しは出すぎてる」
「強いな」
「事実だ」
きっぱりしてる。
でも否定しづらい。
夕璃は少しだけ息を吐いた。
「そっちこそ、正面から全部受けるなよ」
「私はそれが役割だ」
「そういうとこだぞ」
「何だ」
「ちゃんとしてる」
「褒めてないだろ」
「半分くらいは」
「便利だな、それ」
後ろで詩乃が小さく笑う。
「二人とも、昨日の夜からちょっと仲いいね」
「そう見える?」
夕璃が聞く。
「見える」
詩乃の返事は早かった。
「ちょっとだけだけど」
「ちょっとだけならいいだろ」
「どうかな」
詩乃はふわっとした声で言う。
でも、その顔を横目で見ると、やっぱり少しだけ乾いていた。
今夜の詩乃は静かだ。
静かすぎるくらいに。
それが逆に気になる。
旧第十三市街の外縁から、地下へ降りる連絡通路に入る。
ひんやりしていた。空気が変わる。地上の風の匂いが消えて、代わりに湿ったコンクリと古い金属の匂いが強くなる。
通路の壁には、昔の案内表示がまだ残っていた。
【地下商業区画】
【連絡改札】
【避難指定経路】
今見ると、どれも皮肉みたいだった。
「反応は?」
紅羽が聞く。
澪那が手元の簡易観測端末を見る。
「前方二十メートル先に薄いのが二つ。固定じゃない。うろついてる」
「兵骸種?」
夕璃が聞く。
「たぶん。深くはない」
透子が続ける。
「でも、嫌な感じ」
「便利な感想だな」
「でも合ってるでしょ」
それはそうかもしれない。
遥が前方を指した。
「右通路、暗がり」
全員が止まる。
目を凝らすと、たしかにいた。人型。二体。壁にもたれかかるようにして立っている。兵骸種に近い。でも完全ではない。関節の曲がり方が変だ。
「いく?」
詩乃が静かに聞く。
「待て」
夕璃が言うより先に、澪那が一歩前へ出た。
「第六が触る」
「いや、こっちでも」
「黒瀬さん」
澪那が振り返る。
声は静かだった。でも、その静かさのまま少しだけ圧がある。
「今日は確認が優先。あなたたちの癖を見せるのは、必要になってからでいい」
言い方が気に入らない。すごく。
でも理屈はわかる。
夕璃が黙ると、澪那はそのまま前へ出た。繭と遥も続く。ほんとに音がしない。
通路の影の中で、二体の残滓がゆっくり顔を上げる。気づいた。けど遅い。
繭が足を刈り、遥が短弓の一撃で頭部を穿つ。もう一体は澪那の細刃が喉元を裂いた。
速い。
綺麗。
そしてやっぱり、どこか冷たい。
「終了」
澪那が戻ってくる。
「深くない。けど、誘導されてる感じがある」
「誘導?」
紅羽が聞く。
透子が通路の奥を見ながら言う。
「奥から押し出されてるみたいな動きだった。自分の意思で徘徊してる感じじゃない」
「気持ちわる」
夕璃が言う。
「だよね」
透子が妙に軽く同意した。
そのとき、青虹から通信が入る。
『そっち、動き遅いね』
雫だった。
即座にイラッとする声色をしている。
「観測だけの人に言われたくない」
夕璃が返す。
『観測だけだから見えることもあるの』
「言い方」
『事実』
そして少しだけ間を置いてから、雫は続けた。
『前方三十メートル先、左壁際。追加反応一。静止してる』
澪那がすぐに視線を向ける。
「見えない」
『今はまだ。五秒待って』
その五秒の間が妙に長い。
四秒くらい経ったところで、夕璃の耳の奥が少しだけざわついた。
嫌な感じだ。
通路の左壁。暗い。何もないように見える。なのに、そこだけ空気の層が薄いみたいな違和感がある。
「来る」
夕璃が小さく言った。
次の瞬間、壁から人型が半分染み出すみたいに現れた。
「うわっ!?」
透子が珍しく声を上げる。
兵骸種じゃない。もっと薄い。もっと人に近い。顔はあるのに、目の位置だけが空っぽだった。
そいつが、まっすぐ夕璃を見た。
ぞわっと背中が冷える。
次の瞬間、頭の中に声が落ちた。
「みつけた」
「っ!」
夕璃の足が止まる。
なんでこっちに来る。
人型残滓はそのまま滑るように前へ出る。速い。兵骸種の鈍さがない。
「夕璃ちゃん!」
詩乃の声が飛ぶ。
そこでようやく体が戻る。
長刀を出す。
人型残滓の腕が伸びる。刃で受ける。重くはない。けど、触れた瞬間、視界の端に知らない駅のホームが差し込んできた。濡れた床。泣いている誰か。すぐ消える。
「は……?」
これが干渉か。
想像より気持ち悪い。
「切るな、浅く受けろ!」
紅羽の指示。
夕璃は舌打ちしたくなった。わかるけど難しい。
詩乃が横から滑り込む。双短刀が一閃。残滓の右腕を落とす。
でも本体はひるまない。落ちた腕が黒い糸になって床を這う。
「うわ、なにそれ」
詩乃の声は軽い。けど目は笑ってない。
「核、どこ」
「頭じゃない!」
夕璃が直感で言う。
たぶん違う。
残滓がまたこっちを見る。
今度は顔のない口元が、少しだけ笑ったように見えた。
「しってる」
誰のことを言ってる。
何を。
「知るかよ!」
夕璃は吐き捨てて踏み込んだ。
長刀を横薙ぎに振るう。胴を裂く。浅い。空洞。やっぱり核じゃない。
紅羽が横から槍を差し込んで、動きを止める。
「詩乃!」
「見てる!」
詩乃が残滓の周りを回る。死角へ入り、肩、首、腰、足元。全部見る。ほんの数秒で。
「背中」
詩乃が言った。
「肩甲骨の間。なんかある」
「了解」
夕璃はすぐに動く。
正面からだと届かない。なら回る。残滓がそれに反応する。早い。けど読める範囲だ。
「紅羽、あと一秒!」
「任せろ!」
紅羽がさらに押し込む。
槍と圧で真正面を固定。そこへ夕璃が半歩ずつ回る。人型残滓が腕を振るう。刃で流す。視界の端にまた知らない景色。うるさい。
「夕璃ちゃん、そこ!」
詩乃の声。
見えた。背中。肩甲骨の間に、小さな黒い灯みたいなものが脈打っている。
核。
夕璃は接続を少しだけ深くする。長刀の刃先が冷たく締まる。
借りる。
でも深くは行かない。紫月との約束が頭の端に引っかかる。そこまで落とすな。
「いける」
自分に言うみたいにつぶやいて、そのまま斬る。
一撃。
届いた。けど割れない。
「硬っ」
「もう一回!」
詩乃が言う。
人型残滓が振り向きかける。紅羽が押さえる。赤虹みたいな正統派じゃないけど、この人の固定はやっぱり強い。
夕璃は呼吸を合わせる。
もう一撃。今度は残響を浅く重ねる。
刃が抜けたあと、遅れてもうひとつの斬撃が同じ場所を裂く。
ぱき、と乾いた音。
核が割れた。
人型残滓の身体が、その場で糸みたいに崩れ落ちる。
静かになった。
さっきまで頭に差し込んでいた知らない景色も消える。
「……終わり」
夕璃が息を吐く。
肩が少し重い。
『今の、良くない』
雫の声が通信に落ちた。
やっぱり来るか。
「どのへんが」
『全部。特に最初の止まり方』
「そこ見てたのか」
『見てたよ』
声が少しだけ低い。
『“みつけた”って聞こえた瞬間、完全に足止まったでしょ』
図星すぎる。
夕璃は返事をしなかった。
澪那が人型残滓の消え跡を見下ろす。
「今のは記憶への接続が濃い」
「旧第十三市街、やっぱり深いね」
透子が言う。
「まだ外縁なのにこれ」
紅羽が小さく息を吐いた。
「先が思いやられる」
詩乃は何も言わなかった。
ただ、残滓の消えた床を見ている。
夕璃はその横顔を見て、少しだけ嫌な感じがした。
「詩乃」
「ん?」
返事は普通だ。
「どうした」
「べつに」
そう言って、詩乃はいつもの笑い方をした。
でもその少し前、ほんの一瞬だけ、残滓を見ている顔が静かすぎた。
嫌だな、と思う。
夕璃がそう感じたのと同時に、通路の奥から低い振動が伝わってきた。
小さい。でもたしかに足元に来る。
「……また?」
紅羽が前を見る。
透子が端末を確認して顔をしかめた。
「反応、増えた」
「数」
澪那が聞く。
「五。いや、七」
多い。
しかも通路の先、地下のさらに奥からまっすぐ来ている。
『撤退して』
雫の声が即座に飛ぶ。
『そのルート、奥から押し出されてる。たぶん探りじゃなくて迎撃』
「は?」
夕璃が言う。
「旧第十三市街に迎撃とかある?」
『あるんじゃない。今そうなってる』
雫の声はいつも通り冷静だった。
『第六、第七、下がって』
澪那が一秒だけ迷って、それからうなずいた。
「下がるよ。第六前、第七後ろ」
「逆じゃないのか」
夕璃が聞く。
「追われるときは前が慣れてる方がいい」
それはたしかにそうかもしれない。
通路の奥で、何かがうごめく影が見え始める。兵骸種だけじゃない。もっと薄いもの、もっと嫌なものも混ざっている。
「……ほんとやだ」
琥珀がいないのに、頭の中でそんな声がするくらいには、夕璃も同じ気持ちだった。
撤退しながら、夕璃は一度だけ後ろを見た。
通路の暗がり。
そこに、また女の影が立っていた。
今度は何も指ささない。ただ、こちらを見ている。
その輪郭が、さっきまでより少しだけはっきりしていた気がした。
「黒瀬、前」
紅羽の声で、夕璃は視線を戻す。
危ない。
こういうのが一番まずい。
「……了解」
短く返す。
旧第十三市街は、待ってくれない。
さっき澪那が言った言葉が、今になって妙に引っかかった。
たぶん、あれは脅しじゃない。
事実だ。
そしてその事実に、自分たちは少しずつ飲まれ始めている。
通路の出口が見えたとき、夕璃は背中にじわっと嫌な汗を感じていた。
気持ち悪いのは敵だけじゃない。
敵に近づいていく自分たちの方かもしれない。
その考えが、一瞬だけ頭をよぎって、すぐに消えなかった。
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