「だるい朝もある」
紫棟の朝は、いつもより少しだけ静かだった。
少しだけ、だ。
完全に静かなわけじゃない。そんな奇跡みたいな朝がこの棟に来るなら、たぶん世界の方が先に終わる。
でも、少なくとも今日は、朝っぱらから琥珀の声で叩き起こされることはなかった。
夕璃はそのことに、目が覚めてから五秒くらいして気づいた。
「……めずらし」
枕元の端末を見る。
七時二分。
寝坊ではない。けど、気持ちの上ではもう少し寝ていたかった。正式稼働が始まってから、変な疲れが抜けにくい。体の疲れじゃなくて、頭のどこかに薄く残るやつ。
夢は見た気がする。
でも内容は残っていない。
それだけで少しだけ気分がましだった。
制服を引っかけて部屋を出る。廊下は冷たい。窓の外は明るいのに、紫棟の中は相変わらず少しだけ薄暗い。
共有スペースの方へ歩いていくと、先にいたのは紫月だった。
ソファに座って、マグカップを両手で持っている。白い湯気が上がっていて、やたら平和な絵だった。
「あ、おはよう」
「おはよう」
夕璃は少しだけ目を細める。
「もう起きてたんだ」
「うん。なんか、目が覚めちゃって」
「昨日、早く寝かされてたしな」
「それもあるかも」
紫月はそう言って笑った。
昨日の負荷はまだ抜けきっていないはずだけど、顔色はだいぶ戻っている。よかった、と素直に思う。こういうの、あんまり顔には出ないけど。
「夕璃ちゃんも飲む?」
マグカップの横に置かれた保温ポットを示される。
「なにそれ」
「ただのあったかいやつ」
「雑」
「でも朝はそのくらいでよくない?」
たしかに。
夕璃はうなずいて、紫月の向かいに座った。
カップに注がれたのは、紅茶でもコーヒーでもない、よくわからない薬草茶みたいなやつだった。色がちょっとだけ不穏だ。
「……飲める?」
「その反応ひどくない?」
「見た目が」
「見た目で判断しない」
「よく言う」
紫月が少しだけ笑う。
夕璃は観念してひと口飲んだ。
「どう?」
「……思ったよりは」
「よかった」
思ったよりは、であって、おいしいとは言ってないんだけど、まあいいか。
そこへ、ばたんと扉が開いた。
「おはよー……」
琥珀だった。
髪はいつも通りちょっと跳ねてるし、片手にはパンをくわえてるし、相変わらず朝の作法が雑だ。
「行儀」
夕璃が言う。
「朝から細かっ」
パンをくわえたまま言うな。
「ていうかさー、最近なんか視線多くない?」
琥珀はソファの背にぐでっと寄りかかって、いきなりそんなことを言った。
「視線?」
紫月が首をかしげる。
「そう! なんか食堂でも廊下でも、ちょいちょい見られるんだけど」
「お前がうるさいからじゃないか」
夕璃が即答すると、琥珀がむっとした。
「ひどくない!?」
「でも半分くらいはそれだと思う」
紫月までやんわり乗る。
「紫月先輩まで!」
そこへもう一人。
「残り半分は、ちょっと有名になったからじゃない?」
詩乃だった。
眠そうでもない、いつも通りの顔。ふわっと笑って、でも目だけはやたら起きてる。夜の封鎖区画で笑いかけたのは、やっぱり見間違いじゃなかったなと、夕璃はふと思う。
「有名って、やな言い方」
琥珀が言う。
「実際そうだろ」
夕璃が返す。
「旧第十三市街で勝った第七部隊、で」
「“でも危ない”が後ろにつくやつね」
詩乃がさらっと足した。
紫月が少し困ったみたいに笑う。
「否定しにくいのがやだなあ」
「だって否定できないし」
夕璃はカップを持ち上げる。
正直、第七部隊への視線は前よりはっきりしていた。
強い、らしい。危ない、らしい。変、らしい。
らしい、ばっかりだなと思う。でも実際、そのどれも外してはいない。
食堂で席が少し空くようになったのも、廊下で会話が一瞬止まるようになったのも、全部わかっていた。
気にしてないふりはできる。
でも、気づかないほど鈍くもない。
「まあ、勝ったからね」
紅羽が共有スペースに入ってきながら言った。
制服はきっちり。髪も整ってる。朝から隙がない。ほんとにこの人はそういうとこちゃんとしてる。
そしてそういう人は、だいたい今の会話の続きをちゃんと重くする。
「勝ったから見られる。それだけだ」
「紅羽先輩、言い方が体育会系」
琥珀が言う。
「違うのか」
「違わないけど!」
紅羽はため息をついた。
「浮かれるな、という話だ」
「浮かれてないし」
「お前は少し浮かれている」
「えー」
「えー、ではない」
そのやり取りを見ながら、夕璃はまた少しだけカップに口をつけた。
紫月のよくわからないあったかい飲み物は、飲んでるうちにちょっとだけ落ち着く。味はまだよくわからないけど。
「夕璃ちゃん」
詩乃が不意にこっちを見る。
「なに」
「また見た?」
唐突だった。
でも意味はわかる。
夕璃は少しだけ視線をそらす。
「……ちょっとだけ」
「女の人のやつ?」
「たぶん」
紅羽の空気が少しだけ変わる。
琥珀もパンを持つ手を止めた。
紫月は何も言わない。ただ、夕璃の顔を見る。
「いつ」
紅羽が聞く。
「昨日の帰り。あと、D区画でも」
「早く言え」
「言っただろ。帰ってから」
「“ちょっと変だった”程度にしか聞いていない」
「詳細まで言う余裕なかったし」
「今言え」
紅羽の詰め方がまっすぐすぎる。
でも、そこに敵意がないのはわかる。むしろ逆だ。気にしてるからこそ強くなる。
夕璃は少しだけ息を吐く。
「姿はぼやけてる。女の人。顔は見えない。たまに何かの位置を教えてくる」
「怖……」
琥珀が小さく言う。
たしかに。
「声は」
紫月が聞いた。
「昨日は“また遅い”。前は“今度は落とすな”に近いの」
共有スペースに少しだけ沈黙が落ちた。
軽口を挟むには、ちょっと情報が濃い。
詩乃だけが、どこか遠い顔で夕璃を見ていた。
「詩乃?」
紫月が呼ぶ。
詩乃ははっとしたみたいに瞬きをして、すぐに笑う。
「ん。なに?」
「……大丈夫?」
「大丈夫だよ」
その返しは早かった。
でも夕璃は、プロローグでの出来事を知っている体で今後書くので、ここで少し違和感を置ける。
「お前も顔、ちょっと変だぞ」
夕璃が言うと、詩乃は一瞬だけ目を丸くした。
「え、ほんと?」
「ほんと」
「ひどいなあ、朝から」
「お互いさまだろ」
そのやり取りで空気は少しだけ戻った。
でも完全には戻らない。
見えないものの話は、やっぱり朝の共有スペースには向いていない。
そのとき、夕璃の端末が鳴った。
短い通知音。
全員の端末がほぼ同時に鳴る。
「うわ、やな感じ」
琥珀が言う。
開く。
画面の文字は簡潔だった。
【第七部隊、本日一〇〇〇、中央講義棟第一教室】
【旧第十三市街関連・追補戦術講義】
「講義か」
紅羽がつぶやく。
「いやなタイトル」
琥珀が顔をしかめる。
「旧第十三市街関連って書かれると、もうその時点で気が重い」
「わかる」
夕璃も言う。
紫月は少しだけ考えるようにしてから口を開いた。
「雫さんたちも来るのかな」
「来そう」
詩乃が言う。
「青と藍はたぶん確実」
「朝から会いたくないなあ」
夕璃が本音を言うと、琥珀がぶんぶんうなずいた。
「第六の人たち、静かすぎて逆に疲れるもん」
「わかる」
「あと青は青でこわい」
「それもわかる」
紫月がくすっと笑った。
「じゃあ今日は、午前中その講義だけかな」
「たぶんそうだろう」
紅羽が言う。
「昨日の余波もある。いきなり実戦にはしないはずだ」
「ほんとに?」
琥珀が聞く。
「たぶん」
「たぶんかあ」
「でも、それで終わる気はしない」
夕璃が言うと、紅羽も黙ってうなずいた。
全員そう思っていた。
何かが動いたあとの静けさは、だいたい次の不穏の手前だ。
特に旧第十三市街が絡むなら、なおさら。
「……やだなあ」
琥珀がまた言った。
「最近ほんと、その感想多いね」
詩乃がやわらかく笑う。
「だってやなんだもん」
「正直でいいんじゃない?」
紫月が言う。
「やだって思ったまま行ける方が、たぶんちゃんとしてるよ」
その言い方が紫月らしかった。
強がれとは言わない。怖くないふりもしなくていい。でも行く。
たぶん、それが今の第七部隊にちょうどいい。
夕璃はカップの残りを飲み切って立ち上がる。
「じゃ、準備するか」
「まだだいぶ時間あるけど」
琥珀が言う。
「あるけど、今日はだらだらしてると余計だるくなる」
「それはちょっとわかる」
紅羽がうなずいた。
詩乃も立つ。
紫月はカップを片付けながら、小さく笑う。
「じゃあ、ちゃんと朝ごはん食べようね」
「出た」
夕璃が言う。
「朝の紫月先輩のそれ、地味に断れないんだよなあ」
「いいことじゃん」
「よくない、ちょっと強い」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「便利だね、それ」
少しだけ、いつもの空気が戻る。
でも、完全には戻りきらない。
共有スペースを出る直前、夕璃はふと廊下の窓に目をやった。
ガラスに朝の光が映っている。
その向こう側に、ほんの一瞬だけ、長い髪の女の影が立っている気がした。
「……」
見間違いかと思って、目を細める。
次の瞬間にはもう何もなかった。
「夕璃ちゃん?」
紫月の声。
「いや」
夕璃はすぐに視線を切る。
「なんでもない」
そう返したけど、胸の奥には小さなざらつきが残ったままだった。
そしてそのざらつきは、たぶん今日一日、消えない気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




